台詞の空行

7-22)凡人

 横須賀の言葉に、三浦は肩を竦めた。ということは深山が三浦を使っている時、三浦はそれを自覚しないということだ。鏡移しに対しての説明と合致する。深山の中にいるときの自覚がないことは疑問であるが、深山が自身の体を動かしているのを見ている、といったようなことはなさそうだ。

「ここは芙由之芽ふゆのめ市です。ええと、廃工場で、地図だとここになります」

 スマートフォンを取り出して三浦に見せる。のぞき込んだ三浦は、眉間に皺を寄せた。

「ううん、すみませんちょっと心当たり無いですね。未久さんの実家は一応市内のようですが」

「深山さんからなにか聞いていますか?」

「……いえ、すみません」

 視線が床に落ちる。横須賀はライトを一度下げて、三浦をのぞき込むように背を丸めた。

「いくつかわかったことがあります。三浦さんにして欲しいことも、あるんです」

「俺に?」

 いぶかしむ声は小さく、低かった。横須賀が頷くと、は、と短い音が響く。

「俺に出来ることなんてあるんですか? こんなとこで丸くなってるだけの男ですよ」

「三浦さんじゃないと、難しいんです。すみません、まず話を聞いていただけないでしょうか」

 沈黙。しかし長くはなかった。六秒ほどの間の後、三浦が息を吐く。

「……お願いします。俺の予感がおかしいものだとわかれば一番です。情報がないってことはあらゆることを想像してしまうってことで、今の俺はまともな思考をしていない。横須賀さん達が調査されたことを聞かせてください」

 三浦の言葉に、横須賀は確かに頷いた。

「……滑稽だと思いはしますよ」

 壁を伝い立つついでのように、三浦は呟いた。仕事用のスマートフォンで床の写真を撮っていた横須賀が、不安げに三浦を横目で見る。

 手足が不自由と言っても、所詮安っぽい手錠でくくられているだけで、歩くことは出来る。横須賀が写真を取り終えた箇所まで邪魔にならないように移動すると、三浦はもう一度床に座った。

「山田さんのこと、リンさんのこと、藤沢さんのこと、未久さんのこと。すべてを嘘だとは思いません。それどころか俺は、多分横須賀さんが思うよりも横須賀さんの言葉を信じています。不思議なことに、今あげたメンバーの中で嘘を言う人がいないとも。
 山田さんは横須賀さんが信じる人で、横須賀さんの人柄を俺は信じてしまう。それに山田さんとの会話でも、疑う理由がないんです。あの人にとってメリットがなければ横須賀さんを騙す必要はないし、多分お金でどうこうでもないと思います。だって金銭を目的にするなら、もっと簡単に出来るはずです。
 藤沢さんは未久さんの親友です。お会いしていないし話もほとんど聞いていませんが、そういう人が居るのは知っています。だから疑う理由はないし、そもそも彼女にも騙すメリットはない。未久さんのことは――うん、やっぱり、俺は嘘をその話からは見つけられません」

 最後の言葉はなんとも言い難い色をしていた。情けなさそうに眉を下げ、ためらいと困惑と後悔を形にしたような表情が言葉を色づけたようでもある。それが何色なのかわからないまま、横須賀は床の全景を写しきる。

「それでも、滑稽だと思います」

 再び噛みしめるように三浦は言い切った。視線に顔を上げる。黒い瞳が真っ直ぐ横須賀を見ている。カーテンの隙間から、朝が漏れて広まり出す。

「俺は現代社会に生きていて、びびりで不運と笑いますがオカルト的なことについては懐疑的です。幽霊だって信じていない。あの山田さんが信じるとも思えない。横須賀さんや藤沢さん、未久さんが怯えるようななにかがあって、それが説明しがたい勘違いだったかもしれない、くらいには考えます。話は伺いましたが、それを貴方達が信じていることを疑わなくても、事象そのものを疑う気持ちはあるから、納得いかない物事は滑稽だと思う。――思ってしまいます」

 三浦が床を撫でた。話に聞いたとおり赤黒い床はそのままである。

 ただ話に聞いていないことがあるとしたら、なにか模様を描いているようなあとがところどころ見える点だろうか。大きな赤黒いシミから広がるように、円があり、幾何学じみた模様が間を埋め、しかし読みとろうとしても広がったもので隠されてしまうからだ。

 三浦の指が、木目をなぞる。書かれている物は、三浦も心当たりがないと言っていた。

「それでも馬鹿だと言い切って振り切れるほどの強さはない。感じるような事象があって、それがみなさんに理解できないのに俺だけがわかるとも思わない。それなら事象がどういうものであれ、横須賀さんが言うように未久さんが納得する形を見つけるのが一番だと思います。だから俺は横須賀さんを信じると言いました。先ほど言いましたが、俺には訳が分かりません。わかりませんが――なにかをしたい」

 は、と吐き出された息と一緒に、言葉が転がった。自嘲でもため息でもない形が、三浦の右手を固く閉じさせる。

 三浦の口元が、二度、三度とやや動いた。開ききるに足りない形が、そのまま一文字に引き結ばれる。

 息をのんだのだろうか。すこしだけ揺れたような気がして瞬く。するりと逸れた視線は、指先から木目、木目から出口に移る。

 いや、正確には出口ではないのかもしれない。三浦はあの夜酒を飲みながらすら、おそらく深山を見ていた。

「凡人だってヒーローになりたいんだ」

 今度の呟きは、横須賀に向いていない。声は横須賀に届いたのに、宣言にしては小さい。そして敬語ではないから、横須賀に語るものでもない。

 それでも噛みしめるような言葉は、三浦の内側ではなく横須賀の耳に届いた。

「……これ、なんであるんでしょうね」

「へ」

 突然のように感じられて、横須賀は間の抜けた声を漏らした。確かに語られていたはずなのに、最後の三浦自身の内側に落とすような言葉からまた語りに戻ったことに追いつかない。それに先ほどまでの語りは三浦の心情の吐露にも近く、問いかけられたということにも横須賀は対応しきれなかった。

 間の抜けた横須賀をいぶかしむことも断じることもせず、三浦は爪で床を鳴らした。それから横須賀に示すように、ぐっと引っかいて見せる。

「赤黒、って聞くとつい血みたいな想像しちゃうんですけど、普通血って酸化すると赤はのこらなくて、黒いんじゃないかなって思って。だとするとペンキかなって思ったんですが模様っぽいのに上からかき消されたみたいな、なんで残っているか分からないというか……円と記号? っぽいのがあるのに読めないし、馴染みがないし。未久さんが怯えたってのがちょっと気になったんですが、あんま意味ないかな。未久さんが描いたわけじゃ無いってことだし、昔からなら藤沢さんが言っていたような黒い何かってへんなもんに関係もしないでしょうし」

 馴染みがない、という言葉に横須賀は模様をなぞり見た。ずるり、と指先に細く小さな針――それも固いものではなく少ししなるような、痛みとくすぐったさの間になるような物がまとわりつく感覚。そこから腕の筋をのぼるように、不快感が皮膚の裏を引っかく。のぼった痒みが首から頭の境目の筋をピンと張るような違和感に、横須賀はかぶりを振った。

 気のせいだ。腕は、痒くない。

 内側で呟きながら宥めるように自身の左手を右手で撫でる。覚えてはいない。読めない文字を記憶できるほどの記憶力を横須賀は持たない。けれども、馴染みがないその模様を横須賀は多分、知っている。

 山田が抱きしめたノートにあっただろう模様が、山田が山田のしごとを選んだ今、またここにある。

 なぜ、という疑問と、当然のような感覚を横須賀は酸素ごと飲み込んだ。

「関係はわかりませんが、深山さんが怯える原因ということは藤沢さんのおかげでわかっていますので――それだけ、覚えておこうかな、と」

「ですね。調べるにしても時間が無いですし」

 横須賀の言葉は返事に足りないだろうが、それでも三浦はそのままにして頷いた。事務所といってもひどくがらんどうな部屋には、手がかりらしい物が残っていない。

 横須賀に出来ることは見ることだ。必死に山田の真似事にも満たない思考を繰り返そうとしながらも、確かななにかがないことに焦燥が増す。藤沢の協力、三浦の説得。得られる物は得たつもりだが、それでもなにかががらんどうだ。あと一つ、なにか一つ。それがなにかわからないまま、すがるようにわからないものを記録するしかできない。

 山田からの連絡はない。あちらからなければ、やはり今横須賀に出来るのはこれだけだ。

 事務所なのに物がない部屋、なにか模様が書かれた床。――床は引っかいた後や凹みが多く見える。廃工場だからだろうか。古い傷跡は随分以前の物だろう。

 傷の形はそれぞれバラバラに見える。見えるが、その意味までは分からない。本棚は空。なのに何故半端に机が残っているのだろうか。引き出しも空だった。物ばかりが消えて、箱だけが残っている。

 深山の実家は市内だが、しかし近くはない。子供が自転車で逃げ込んで、管理されない場所。

 携帯端末が震える。

「あ」

 慌てて横須賀は画面を見た。山田でなく藤沢の文字。少し落胆しながらも、急いでメールを開く。『既読確認』の四文字。

「すみません、一度出ます。深山さんがメッセージを確認されたようですので」

「了解しました。彼女、あんまり朝強くないんですぐってことはないと思いますがお気をつけて」

「はい。……三浦さんも、お気をつけて」

 躊躇いながらも同じ言葉を返した横須賀に、三浦は柔らかく笑った。どこか仕方無さそうなどうしようもなさそうな表情なのに、諦めというには穏やかで、横須賀は慌てて頭を下げた。

 あの表情の名前を横須賀は知らない。もし名付けるならそれこそ横須賀には不相応なようで、そこで思考を止める。やることは伝えてある。あとは、その時までだ。

「よろしくお願いします」

 後ろからかかった三浦の言葉に、横須賀は振り返り会釈だけ返すと外に出た。

 朝はあっという間に通過する。見上げた藤沢の手元にある端末の画面を覗き込み、横須賀は小さく息を吐いた。

 多分これが、最後の時間だ。