台詞の空行

7-20)求めたもの

 * * *

 早朝、三時。日はまだ昇らない。厚手のカーディガンを羽織った藤沢が先を行く。

 時折吐き出される息は、呼吸と言うには意味を持ちすぎているようだった。例えるなら焦燥。それは感じ取ったと言うより横須賀の内心でもあった。

 朝の声がやってくる。

「……三浦さんの意志は関係ないのでは?」

 昨夜いくつかのことを話し合った中で、藤沢が尋ねた言葉が浮かぶ。確かに、儀式を行うのは深山だ。行うのも止めるのも決定権は能動者のものであり、受動者にはどうしようもない。

 けれども深山が、出来てしまう、と言っていたのなら。

「やめたいけれどやめられない理由を考えたんです」

 山田はいつも、その場でなにが起こっているか探っている。けれどもそれは所謂山田のしごとに関係するものが強く思えた。依頼の仕事と違う、山田個人のしごと。横須賀が知りようのないもの。

 ろくに管理する気のないオカルトの本、当たりと言われる案件、個人的に、と言った洞親子。そして今回持ち込まれた――リンが持ち込ませた依頼。

 山田が調査で得るものは、すべてが依頼者のためでは無い。先に挙げたオカルト的なものを把握し、依頼者の状況を知る。同時に行われているのは、依頼者の願望を見ることだ。うまく言えないが、話をしましょうと持ちかける山田は、オカルトを利用しているのではない。いや、追い込まれた人間を説得するために確かに使ってはいるのだが――それよりも、山田はその人を見ている。

 学者先生、専門家と違う、と山田は言っていた。山田にとって奇妙な怪異は、犯人が持つナイフかなにかと同じようなものにも見えた。知らねば危うい。けれども、ナイフを捨てさせることはあってもナイフ自体を壊そうとするわけではない。

「深山さんがやめられない一番は、危険だから、だと思います。こちらについては先ほど話したように、所長の山田が対応しています。その後の安全は、保証されます」

「……でも」

 横須賀の言葉に、藤沢が眉を潜める。横須賀はじっとその顔を見つめながら、小さく首肯した。

「難しい、のは、俺でもわかります。病院に勤められていた藤沢さんは色々聞いてきたと思いますし、黒、も見ています。多分その黒が異様なものとわかるくらいには知っていたか、深山さんから伺ったか……それは藤沢さんでないとわかりませんが、俺も黒、については、多分同じようなものを見ています。アレはどうしようもないもの、だとも思います」

 頭蓋の裏側、脳の表面。感じるはずのない場所がざわつく心地に横須賀は眉を潜めた。あのよくわからないものについて、絶対大丈夫などと横須賀は言えない。細い首に付いた赤い跡が浮かんで、自身のものでないのに首をすくめる。

「けれども山田がフォローすると言いました。保証するだけでいい、と。あの人はああいったものに対して、いつも近づかないことを選ぶ。――なにもかも知らない人間じゃなくて、多分随分知っている人間が、言い切ったんです。だから俺は、保証します」

 藤沢が横須賀の顔を見返す。しばしの沈黙、それから細い息が長く吐き出された。

「私は山田さんを知りません」

 藤沢の言葉に横須賀は背を丸める。それでも逸らされない黒い目に、藤沢は睫を震わせた。

「横須賀さんは山田さんをよく見てきたんですね」

 きょとり、と、ゆっくり横須賀は瞬いた。不思議そうな表情は随分と無防備で、その体躯の割に幼くすら見える。小さく藤沢が苦笑を零した。

 確かに横須賀は山田を見ることが多い。あの小さな体と伸びた背筋、不遜さを形にするように笑う表情。けれども勤めてまだそろそろ五か月といった程度だ。めまぐるしく多くが起きすぎて数字にするとあまりに少なすぎるように感じるが、それでもたったそれだけ。それも、仕事の時ですら知ることを止められている。

 死体部屋と称す雑然とした部屋、依頼人が見る事務所、茶葉すらなくしかし衛生的に管理された給湯室、清潔な事務所のトイレ、必要最低限に整えられた自室。笑い、罵り、案じ、怒り――見てきたのはそれだけで。

(それだけ?)

 ふと言葉が引っかかる。人によってはそれだけでいいだろう。けれども横須賀にとっては、それはあまりに多いことではないだろうか。家の中で見てきた物は多くない。祖母の家で触れた物も。使ってもらえることに感謝する横須賀はそれ以上求めなかった。だから使われない時の他人は、本を見るように遠くで眺めるものだった。

「横須賀さんが見る山田さんを否定する術を私は持ちません。横須賀さんが保証するのなら、と思いもします」

 横須賀の思考に優しく藤沢が言葉を重ねる。持ち上がった睫が光を取り込んで縋るように煌めいた。

「でもそれをみーちゃんが信じるかと言ったら別でしょうね」

 諭すように藤沢が言う。横須賀は頷いた。

「だからこそ、三浦さんが先に動けば違うんじゃないでしょうか」

「先に?」

「ええ。一番の理由は危険だから。けれどやりたい訳でもない。体に馴染ませるためと道具をそろえるためとはいえ、わざわざ外出するメリットは低いんじゃないかと思います。なら何故か。――止めて欲しいから、見つけて欲しいから。そしてそれはずっと三浦さんであり続けるものではない、ということでもあると思うんです」

 横須賀の言葉に、藤沢は少しだけいぶかしむように顔を傾けた。手が湿る。横須賀はペンを持ち直すと、短く呼吸を挟んだ。

「藤沢さんが教えてくれたことを考えた、んです。藤沢さんは深山さんに会っていて、三浦さんにも会っている。けれど三浦さんと会うのは外出の時くらいで、時間が少ない。藤沢さんに一緒にいること、もし何かあったらと頼んでいたということはもしかすると三浦さんが三浦さんに戻るタイミングを深山さんがわかっていないかもしれなくて、そして必要なときにその儀式をしているとしたら。三浦さんは三浦さんであるとき依頼に来ました。疲れているだけで自覚症状がなくて、でも藤沢さんの話をまとめるとその知らないときに三浦さんでなくなっていたと考えられます。そして深山さんが藤沢さんと出掛けたのは、三浦さんが助かって欲しいからだとして、それでいて何かあったときに説明を頼める藤沢さんを側に置いて。自分でどうにもできなくて決まっているけれど願うようなものに見える」

 横須賀の言葉は支離滅裂と言えるだろう。必死に思考を追いかけるように言葉を連ねる横須賀を見、藤沢はしかし口を挟むことなくじっと見つめていた。小さな首肯と瞬きで聞いていることを見せながらも、決して邪魔をしない。委ねるような目に、横須賀はもう一度呼吸を挟む。

「三浦さんは多分、今も三浦さんの時間があります。タイミングはわからないです。でも、山田が明日で諦めろと言いました。なら、多分明後日三浦さんは三浦さんでなくなってしまう――明日のどこかのタイミングは三浦さんで、深山さんの求めた物を渡せばいい」

「求めたもの」

 横須賀の言葉が途切れ、藤沢が復唱した。ええ、と横須賀が頷く。

 三浦が言っていた。助けてを言えない人だと。だからこそ拾い上げたいという三浦の願い。ワンコールで切れた電話を追いかけたのが三浦だ。もしかすると、それはなにかの確認作業だったのかもしれない。でも、そのもしもは関係ないのだ。結果として、三浦は彼女が求めただろう助けてを追いかけた。

 だからそれが答えだと、横須賀は思っている。

「俺も藤沢さんも出来ることは多くない。でもふたつ重ねて、やるしかないひとに届ければいい」

 藤沢を使って、三浦を使って、深山を使えと山田は言った。使われることに慣れすぎて使うことなんて横須賀には思いつかない。けれど一人で出来ないことはよく知っていて、山田のように切り捨てられない横須賀に残ったのはただそれだけだ。

「深山さんの説得は三浦さんがします。三浦さんはきっと、探偵山田太郎の言葉を疑いません。だから俺は三浦さんと話がしたいです。三浦さんだけを保護するんじゃない。三浦さんのお手伝いを、したいんです」

 だから心当たりの場所を教えてください。その願いは机に跳ねた。頭を下げたから真っ直ぐ届かなくなった声に、藤沢は息を吐く。

「三浦さんなら大丈夫だと貴方は信じていて、私も信じる。そういう理屈はわからなくもないですが――もう話すことは話したと思います」

 藤沢の言葉は静かだ。横須賀が不安げに顔を上げる。

 その瞳が相変わらず真っ直ぐなことに、藤沢は眉を下げて微苦笑した。

「みーちゃんの場所が正しいかはわかりませんが、多分そこだと思います。三浦さんを保護して彼女を説得するのはわかりました。先ほど横須賀さんに伺ったことと私が話したことをどう扱うか。保証するとはいえ依頼人が殺人を行う人間ならば依頼人についてどうするのか。あれだけ管理された病棟に何故黒が現れたのか、あれは逃げ場のなさではないのか」

 言葉が途切れた。じ、と細い目が横須賀を見る。

「考えましょうと私は言いました。横須賀さんのことを疑う気はありません。ただみーちゃんの目的を知った上でどうすればいいか、私が知り得たことと貴方が知り得たこと。私は多分最悪をわかっていて、その手前でしかない悪い結果を選んだだけです。まだましであり、最善ではない。貴方の見ている最善が最悪を呼ばないように、教えてください。そうしたら私は私の意志で、最善を見据えましょう」

 まるで求められているかのような、視線、声、言葉。震える唇を引き結び、横須賀は頷いた。

「俺は見てきました。だから、お願いです。よろしくお願いします」

 手のひらがざわつく。けれども声だけは静かで、驚くほどよく通った。