台詞の空行

7-19)電話

『……なにが聞きたい』

 九秒の間の後、色のない声が返った。素っ気なさすらもなくなった音に、横須賀はペンを握り直す。

「あのノートに、鏡移し、という文字があったと思います。俺、ちゃんと覚えていなくて……条件とか、何か」

 先程読んだ雑誌のようなことが別のページに書かれていたのかはわからない。けれどももしあったとして、他に対策などなにかあれば。縋っているだけのようにも思えたが、それでも知らないよりも出来ることが増えるのではないか。横須賀の途切れた言葉に含まれた意味をどこまで察したのかは不明だが、山田は短く息を吐いた。嘲笑や呆れとは違うようで、しかしなにを意味するのか、横須賀にはわからない。

『鏡移しの儀式。特殊な道具を用いて、魂を入れ替えると言われている。しかし異層――この間リンが言った奴と少しかぶるな。俺たちには全容を認識できない別の次元を通して、魂を入れ替えるのだからデメリットもでかい。そもそもその「認識できないもの」がある場所を俺たちの理屈の次元にあるものが通ることを何故そのまま受け入れられるとする? そこにある理解できない悍ましいなにかが、自分への贄ではないとどう理解する? そういう疑問をどうにかするのがおそらく未来読みの家の伝わる鏡で、そしてその儀式で使える肉体を手に入れる、というわけだ』

 山田の語調は淡々としていた。先ほど読んだ記事と、山田の言葉が重なる。記憶の黒が、三浦に重なりかける。

『魂だとか精神だとか曖昧なものの定義はこっちにしようがない。どれもこれもオカルトすぎてどうしようもネェし、完全に入れ替わったところで意味はない。普通ならな』

 プラスチックを引っかく音が遠くで鳴る。山田の言葉をなぞりながら、確かに、と横須賀は頷くようにして俯いた。

 依頼した人間が居て、脅されて。その結果が三浦と入れ替わるだけなら意味がない。それだけでは結果にならない。馴染んだ結果。未来を見にいった魂は、なんなのか。次元違い、という言葉。ドッペルゲンガー。

『おそらく、やるべきことはその先。未来読みの深山家がしているってことは、未来読みに必要なことで――被害者たちの通過条件、か? 魂の扱いがわかんネェが危険なことを他人の体でやりゃあいい。未来っつーのを得るのに絶対裏切らない駒として使う、なら』

 山田がそこで言葉を切った。こつ、こつ、こつ。受話器を爪で叩く音。言葉選びから、藤沢が見つけた雑誌は知らないのだろうとわかる。それでもおそらく、近いものを山田は見ている。

 なぜか色薬しきやくをいろぐすりではなくしきやくと言いきった姿が、浮かんだ。今回優先した山田の調べものを、横須賀は知らない。知らないことばかりで、それでも今山田が口にする言葉を必死に抱える。山田の呼吸音が、思考を引っ掻いた。

『……運が悪かったな』

 吐き出された音は、嘆息に似ていた。続く声がない。ひくつく喉を宥めて、横須賀はノートの端に書いた「溶けた皮膚」という文字に下線を引く。

「深山家に依頼した人、が、望まない深山未久さんに動画を、見たそうです。溶けた皮膚、それに埋もれる黒、を」

 言葉は返らない。ぐるり、と下線をそのまま伸ばして、横須賀は文字を丸く囲んだ。

「これまでも、溶けるものはありました。洞親子のときだって、あれは――」

『言うな』

 短い言葉が横須賀の言葉を遮った。反射で口を噤んだが、いつもの大きく命じる声ではない。静かで固い声。

 ノートを手に笑った山田の表情を思い出そうとして、うまくいかない。笑うと言うにはちぐはぐなものが浮かんで、それが剥がれない。

 悲痛な顔を見たわけではないのに。

それは、こっちの案件だ。俺が追っているのは深山家に依頼した側で、テメェが追っているのは被害者だろう。手を広げすぎるな。分を知れ』

 もう声に固さはなかった。山田の言葉は横須賀にとって指標じみたところがある。横須賀は山田に見ろと言われるが、しかし山田と違いその先が何も見えない。山田はいつも、先を見ている、と横須賀は思っていた。

『お前がすることはなんだ』

「三浦さんと、……深山さんを」

 助けたい、という言葉は喉の奥につかえた。藤沢を見ると、藤沢は自身が持っていた本を開きながら横須賀のノートの文字を追っている。

「藤沢さんのお手伝いを、します」

 結局呟けた言葉はそんなもので、しかし山田はそれを笑い飛ばしも溜息で流しもしなかった。

『なら、俺の仕事をお前が気にする必要はない。心配される筋合いもネェ』

「ひとり、ですか」

 言葉が零れ落ちた。さきほどのつかえをするりとのりこえたものに、横須賀自身が目を丸くする。前後の無い文章。焦って訂正しようにも、その言葉を重ねるものしか横須賀は持たない。

『……依頼した側を追っているが、別に今日明日遭遇するもんじゃない。準備のためだ』

 山田の言葉は、横須賀の言葉に対して返事にはおかしいものかもしれない。けれども横須賀にとっては返事足りえていた。

 罵りすらされないことが、少し落ち着かない。

『いくつか整理しておけ。今日は休んで、明日間に合わなければ引け。持って明後日までだ』

「え」

『俺が深山のところに行くのも、深山が終えるのもそれくらいだろう。やりたきゃやれっつったが、無茶をしろとは言ってネェ』

「え、でも」

『黙れ』

 切り捨てる音に、横須賀は首をすくめた。大げさなため息が聞こえる。

『いいか、テメェの考えはさほど外れちゃいネェ。俺もお前も、早々出来ることなんざネェんだ。オカルトみたいなもんと立ち向かおうと考えるな。学者でも超人でもネェ。出来る事と言ったら、起きる前に終えるか、起きた時の後始末。起こさないのなら当事者を使うのは悪い案じゃない。ただ、何度も言うが出来るとも限らネェんだ』

 口を挟ませない言葉の羅列。起きる前、起きた後。多分横須賀はそのどちらも見ていて――どちらも成し切れていない。

『やることを決めて、時間を見て、無理なら退け。三浦の居場所、深山の狙い、本人がやろうとしていること、その成功率、やりたくないこと。お前は藤沢を使って、三浦を使って、深山を使え。依頼人とその後については、フォローを入れる。そう伝えろ。

 深山が脅されたとの話だから渋るかもしれネェが、たとえ今回深山がことを成さなくとも、俺が介入した時点で深山や三浦になにか問題が起きることは絶対に有り得ない。そうなる前に、終わる。お前はそう保証するだけでいい。あとは当事者のもんだ。寝ろ』

「山田さん、は」

『加勢してやる時間があれば動くが、優先は最初に言ったとおりだ。……なんかありゃ警察もいる。周りを見失うんじゃネェぞ』

 ガチャン、と音が響いた。通話が切れたことを確認し、ため息を吐く。さり、と紙をめくる音がしてそちらに視線をやると、藤沢が心配そうに横須賀を見上げていた。

「すみません。その」

「いえ」

 先程までの会話が嘘のようにかみ合わない。どうにかせねばと思いながら、意識が向こう側に行きかけ、分を知れ、という声で半端に止まる。

 横須賀の手札は多くない。藤沢の見ているものを知らないし、山田の見ているものも知らない。

「心当たりがある、って言っていましたけど」

「みーちゃんが使いそうな場所はわかります。ただ」

 藤沢が俯くと、短い前髪が揺れる。表情が隠れないように切りそろえられている為隠すには足りないそれが、ほんの少しだけ影を落とす。

「私は彼女を別のところに保護して終わると思えないから、今ここにいるんです。場所がわかっても、みーちゃんをせめて説得して、不安を取り除かないと。……横須賀さんが三浦さんの為に動くように、私はあの子の意思を変えることと、その依頼人について知らないといけないんです」

 藤沢が本を横須賀に差し出した。地域の民話。つい思い浮かべてしまうのは、洞親子。けれども氏山市のものではない。

「考えましょう」

 藤沢ははっきりと、そう言い切った。

(リメイク公開: