台詞の空行

7-18)次元違い

「……かさん、横須賀さん!」

 少しうわずった声と、左手に触れる冷たい手。ゆる、と顔を上げた横須賀の額には汗が浮かんでいる。その黒点のような瞳が藤沢を捉えたことで、藤沢は少しだけ眉を下げた。

「大丈夫ですか?」

「え、あ、す、すみません!」

 話していたのに、意識が逸れていた。慌てて頭を下げた横須賀に、いえ、と藤沢は短く返す。

「お水を入れてきます。体調が悪いようでしたら……」

「体調は大丈夫です」

 反射のように横須賀は答えた。少し速すぎるともいえるそれに眉をひそめた藤沢は、しかし小さく息を吐くにとどめた。

「そうですか。……私にとって横須賀さんは頼みの綱です。頼るためにも、ご無理はしないでくださいね」

 穏やかに言って、藤沢が立ち上がる。申し訳なさに縮こまりながら、横須賀はメモを撫でた。

 あの日見た奇妙なノートに、体の入れ替わり、といったような文言があった記憶はない。けれども浮かんだ儀式の名前は、似たようななにか、を一緒に思い出させる。

 あれは、なんだったか。浮かんだ単語、鏡移しをひとまずメモに書き出していると、こつ、と、机が鳴った。

「お水をどうぞ」

「あ、有難うございます」

 コップを受け取り、そのままちびりと口を付ける。しかし机の横から動かない藤沢に、横須賀は顔を上げた。

 下から見上げるからか、伏せた睫毛の奥にある瞳の色が少しだけわかる。

 視線の先を見れば、横須賀のメモ。

「藤沢さん?」

「……あ、すみません。座りますね」

 藤沢が眉を下げて椅子に戻る。藤沢の席にも準備されたコップは、しかし藤沢の喉を潤すためには動かなかった。

 横須賀がメモ帳を手前に引いた代わり、とでもいえばいいのか、藤沢が入れ違えるようにクリアファイルから紙を取り出した。

「これは、偶然見つけたオカルト雑誌の記事なんですけれど」

 白い紙に印刷されているのは記事のコピーだ。端には「身近に潜む怖い話2020年10月号/青葛社」と書き込まれている。おそらくコピー元の雑誌名をメモしたのだろう文言を、そのまま自身のメモ帳に書き写す。

青葛せいかつしゃ……地元の出版社で、全部の記事ではないんですけれど、必ずいくつかは「地元の話」を取り扱うようにしているみたいで。未来読みの家について書かれていました」

 つい、横須賀が藤沢を見る。コピー用紙を藤沢が横須賀に寄せ、それに従うように横須賀は手を伸ばした。

「内容としては、未来を見る方法について。未来読みの家以外でもいわゆる時渡りのようなことがあった、という話で記事がいくつかありますが、この記事は地元に伝わる未来読みの家がどのように未来を読んでいるのか、ということについて紹介されています。いくつもの伝承を組み合わせた予想、とのことですが……そこに、鏡移し、という言葉がありました」

 鏡移し。つい、横須賀は自身のメモを見下ろした。そうしてから藤沢を見ると、こくりと首肯を返される。

「未来読みと鏡移しは別のようで、必要なものだったのではないかという話が記載されています。未来を渡るにはリスクがある。その為に、他者から体を貰うのだと。そうして被害者は、気づいたら未来にいて――そして、世界から拒絶され泥になる、という話です」

「読ませて、頂きます」

 会話をしながら読む、ということが出来ない横須賀は、返事が出来なくなるのを伝えるために一度頭を下げた。藤沢が頷くのを見て、コピー故に雑誌で見るのとはまた別の読みづらさを感じる文字を追いかける。

 記事では未来読みに触れているが、メインは鏡移しなのだろう。鏡移しを行うことが出来る家として話題に出ているのと、何故鏡移しを行うのかという動機の掲示程度であっさりとしていた。未来を読む、ということより、ホラーとしてはそれによってなされる副産物のほうが扱いやすいのかもしれない。

「構築を繰り返す……」

 書かれているのはオカルトであり、SFじみた内容でもあった。それでいて、リンが言っていた「次元違い」という言葉を思い出すもの。

 鏡が行うのは単純なことだ。いわゆる、魂のようなものを取り込み、そして任意の場所に構築する。しかしそもそも魂を存在させるには肉体が必要だ。取り出したものを収めるには同等のスペースがいる。故に、望む肉体を手に入れるためには別の肉体がいる、と考えられている。いわゆるこれは両側通行を想定したものだ。鏡はなにもかも映すのだから当然だろう。結果だけ見れば入れ替わり、と言える。しかしそれは本当に入れ替わりなのか? 綴られる文言は、そういう形でずるずると不穏なものになっていく。

 鏡が使うのは異層だ。異層を通り抜けるデメリット、魂の歪み。しかし異層を通り抜けることを繰り返し変質したものならば、異層をもっと大きく抜け、未来を見ることがあるのではないか。しかし未来に行った魂は、その世界では異層でしかない。階層のズレたものは正しくある魂を見れば泥になる。生きながら溶ける自身を見た、というドッペルゲンガーがあるが、あれは未来の自分であり被害者になったことに他ならない、など。

 自分が自分じゃない物に変質していく、そういった恐怖をあおるような文章で記事はまとめられていた。そしてこの「被害者」の結果は他の「噂話」と結びつくのではないか。読み手を煽るような推論と、答えのないすっきりしない形での締め方は次の購読を促すようでもあった。ライター名は花水此岸。要所要所メモを取っていた横須賀は、最後にライター名を移しきると息を吐いた。

 横須賀が見たのは、未来ではない。同一の人物がいたわけでもない。なにもなくとも溶ける、もしくはどこから来たかわからない黒いなにかが変質する姿と、瞼の奥で踊る液体だ。

 けれども今、三浦のことを思うと、この記事が荒唐無稽とは言えないものがあった。あまりに近く、しかしどうすればいいのかわからないもの。

 よどんだ思考に、電子音が響く。

「っ」

 びくりと肩を震わせた横須賀は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。沈んでいた思考が、今に追いつかない。追いつかないが、体は動いた。

「す、みません」

 鞄から仕事用の携帯端末を取り出す。画面に浮かんだのは、非通知の文字。

「すみません。少し、出ます」

 もう一度藤沢に謝罪して、横須賀は通話ボタンを押した。しばらくの間。息を短く整えて、耳を澄ませる。

「もしもし」

『今空いているか』

 静かだが聞き馴染んだ声が少しくぐもって響く。ひゅ、と横須賀は息を呑むと、情けなく顔を歪めて電話を強く握った。

「空いて、ます」

『そうか。俺の方は予定通り進んでいる。テメェはどうだ』

 山田の言葉に、ノートを見、藤沢を見る。視線を受けた藤沢は軽く会釈して、ぱくぱくと唇を動かした。いいいあいえ。気にしないで。そういう唇の動きに横須賀は会釈を返して、ノートを撫でる。

「今、深山さんのご友人である藤沢さんと一緒にいます。協力してくださるとのことです」

『……うまく見つけたな。男の方はどうした』

「三浦さんは、見かけたのですが、その」

 逃げられたと言うのが正しいのだろうが、三浦であって三浦でない人間である。山田が被害者と位置づけたとしても、逃げたという言葉で誤解させては困るだろう。そもそも逃がしたのも藤沢で、そこから説明するとまたややこしくなる。

 横須賀がどう説明すればいいか悩んでいると、こつ、と受話器を叩く音が聞こえた。

『違ったか』

「三浦さんじゃない、ようでした。藤沢さんから、深山さんだと聞きました。三浦さんは立ち去ってしまって……」

『どこに行ったか、藤沢とやらに心当たりはないのか』

「心当たりは」

 山田の言葉を復唱すると、少しだけ藤沢の視線がずれた。それからややあって、顔が持ち上がる。

「ないわけでは、ないです」

「ないわけではない、そうです」

 今度は藤沢の言葉を横須賀は復唱した。だろうな、と、山田の声が落ちる。

『まあいい。場所も、それをどうするかもテメェのモンだ。好きにしろ』

「はい。……あの」

『なんだ』

 山田の声は単調だ。苛立ちの色はなく、ただ平坦で素っ気ない。ノートに書かれた文字をなぞり、横須賀は少し長く息を吸って、吐いた。

「黒いノートについて伺ってもよろしいですか」

 横須賀の言葉に、沈黙が返る。それはある意味で予想できていたことでもあり、先のあることでもあった。山田が馬鹿だと切り捨てないのなら、聞けることがあるはずなのだ。

 そして同時に、三浦のことがあちらに近いのだと察する。