7-16)出来ない子
「横須賀さんが上司の方から聞いたことはだいたい間違っていません。私が知っているのは、当事者が感じるあの家くらいです」
二人が語る机の上に本とクリアファイルを移し、藤沢は告げた。鞄から取り出されたのは地元の地図で、藤沢の左手を伸ばした位置には古地図の本が別途置かれている。
「犠牲者、という形では聞いていませんが、あの家にはいくつか奇妙な習慣があります。見合い結婚をすること、そして結婚相手は親戚同士で――勿論法に触れない範囲でですが、できる限り近親者を選ぶそうです。みーちゃんもその予定でした」
藤沢が鞄から取り出した写真には、深山未久と藤沢が写っていた。藤沢の服装は今着ている服より少し明るめのゆるいTシャツに長いスカート、細いベルトのショルダーバッグ。深山の服装は細身の黒いパンツスタイル、襟元が広く空いたシャツにジャケット、こちらは手提げ鞄を持っている。
藤沢の見た目があまり今と変わっていないので少し判断しづらいが、深山の顔立ちは二十歳前後、大学生くらいだろうか。花時計の前で、二人は楽しげに笑っている。
「これは大学の時の写真です。大学は別でしたが一緒に出掛けることはたびたびありました。みーちゃんの相手は年上の人で、卒業したら結婚させられるのが多いケースらしいんですが、『あんたはなにも出来ないんだから好きにしなさい』と言われたらしいです」
横須賀の表情が苦しげに歪む。藤沢が小さく苦笑した。
「……酷い言葉ですが、でもみーちゃんは安心もしたそうです。ずっと出来ない子だと言われてきて、家のためにやらないとって強迫観念みたいなものに捕まっていて。自分が家のためになにも出来ない焦燥と、どうすればいいのかわからない焦りと、でも否定され続ける家に閉じこもらなくていい安心。みーちゃんはそのまま就職しました。
出来ない、って言われてましたが、私からすればみーちゃんは凄い子です。責任感があって、一生懸命で……背負い込みすぎちゃうのが心配でしたが、仕事の出来不出来では心配していませんでした。そして背負い込んでしまう彼女に、恋人が出来て。仁さん――三浦さんの話を聞くのは楽しかったです。仁、っていつもみーちゃんがいうから、私もつられて仁さんって呼んじゃってた、くらいには彼女の話に多く登場した人です。私はいつか二人の結婚式に呼ばれるのかな、なんて思っていて。……だから別れたという話を聞いたときは驚きました。その話は電話で、私は直接会って話そうと思いました。でもみーちゃんは会ってくれず、それどころか今回の件が起きるまで、連絡をとることが出来なくなりました」
言葉をノートに書き込みながら、横須賀は藤沢を見た。先を促すような所作に、藤沢が両手を組む。
「小さい頃から、みーちゃんは出来ない子と言われていました。今回、みーちゃんはやらなきゃいけない、と言っています。やりたくないけどやらなきゃいけない。凄く奇妙な話なのに、私はそれを否定できませんでした。警察に頼るにも、みーちゃんは無理だと言いました。そして職場で見た黒で、私もあの場所が安全だとみーちゃんに言えなくなった」
「刑事さん、が」
とっさに浮かんだ平塚の顔に、声がこぼれ落ちた。藤沢が首を横に振る。
「常に居るわけではないんです。対策だっていつになるか、という中で私はどちらを選ぶかと考えて、結局みーちゃんを選びました。相談するには、足りない。平塚さんはとてもお優しい方でしたが、私に分かったのはそれだけです。そもそもなにがどうなっているのか把握できていないのに助けを求めることも難しく、あの段階ではどうにもできなかった、というのが正直な話かも知れません」
ペン先が止まる。指先が白む。顔を伏せて文字を見つめる横須賀に、藤沢は少しだけ息を吐いた。それは溜息と言うには細く、続いた吸気は一度唇の端で噛まれた。
「幼い頃から、みーちゃんは自分が足りていないと思っていました。そう言われてきたらしいんです。けれど今回、みーちゃんはやらなきゃいけないと言いました。求められなかったものが求められたからやらなければと思ったのかも知れない。はじめ、私はそう思いました」
言いづらいのだろうか。藤沢の言葉はなにかを言おうとしてまたその周りを迂回するようなものがあった。遠くは無いが近づいたようで離れる言葉。言うタイミングを探すようにしていた藤沢は、少し早い速度で息を吐いた。
「違ったんですか」
流れた沈黙から言葉を引き上げようとするように、おずおずと横須賀が問う。こくり、と藤沢は頷いた。
「深山家は依頼を受けた。みーちゃんは依頼を断ろうとした。……けれども依頼者から、脅された、そうです」
「おどされた」
横須賀の復唱に、藤沢の眉間に皺が寄る。少しだけ力が入った瞼が睫を押し、戻った。
「溶けた皮膚」
落ちる、というには硬い言葉だった。一つずつ区切るにはたりず、それでも一文字一文字並べるような話し方。その言葉を理解しきる前に、横隔膜の上に重りが乗る。
白んだ指先が動かない。浮かんだものが、内側を引っ掻く。腕の皮膚がざわつく。
「動画を、見たそうです。溶けた皮膚、それに埋もれる黒。黒が別の色に染まる。どういったものなのか、何で起きるのか、それが何になるのか、なにもかもわからない。それでも、人が人でなくなる様子をみーちゃんは見た。
断ったところで、結局仁は助からない。みーちゃんはそう言って泣いていました。その依頼者について調べて警察にと思いましたが、写真が有るわけでも無く、その人がどこに居るのかも分からない、と。深山家ならわかるかもしれませんが、みーちゃんは深山家から外で暮らしていたからあの家に立場はない、わからない、と言っていました。
……どう言えば良いのかわかりませんが、彼女は追い詰められて、それで選択したんです。私は、その彼女が望むことを選ぶしかできませんでした」
「なんで三浦さんが選ばれたのか分かりますか」
「……みーちゃんは教えてくれませんでした。ただ、みーちゃんはこうならないためにも一人になったのに、と泣いていました」
止まっていたペンをもう一度動かす。もやのようにかかった文字を浮かべようとして、追いつかない。黒いノートは山田が手にした。横須賀は一度見ただけだ。
溶ける、ということの意味を、おそらく横須賀はいくらか追いかけてしまっている。選ばれた三浦、溶かした動画を持っていた人。あの日の、光景。
結びつくには足りず、けれども確かに横須賀はその点が繋がる物を知っているはずだ。
「彼女は被害者です。けれども、横須賀さん達からしたら被害者とは言えないのもわかっています。私は彼女が仁さん……三浦さんを助けるために選んだ結果を手伝うために動きました。三浦さんとは結局みーちゃんである時しか会っていないので彼の意思は分かりませんが、出来てしまう、という彼女が納得する形を選ぶしかないんです」
「出来てしまう、は、どういう意味なんですか」
「そのままです。三浦さんがみーちゃんである、ということ。……彼女は、自分が彼の魂と入れ替わっている、と言いました」
「入れ替わり」
藤沢の言葉に、横須賀は小さく呟いた。先程までの復唱とは別の、喉の奥、記憶の端から零れ出た言葉。
怖い、と怯える声が裏側で聞こえる。横須賀は文字を追った。それは読ませるための文字だった。呪文、儀式。そういう言葉が並ぶ中で、確かにあった。
鏡移しの儀式。その内容は、なんだった? 直臣の声がぐるりと巡る。吐き気がするようなぼやけて見える文字。あれは。