7-15)足りぬ、足る
「三浦さんは自分には無理だから、それでも足掻きたいからと依頼してくださいました。俺は、できることがあまりないです。でも俺は、手も、足もあるから。動かなきゃ、って思っていて。だって俺に出来ることはないから、なら、探さなきゃ、行かなきゃ、そこにいなきゃなにも、わからないから」
秋を抱きしめた山田になにがあったのか。あの時横須賀は、叶子を追う以外なかった。今でもきっと叶子を追う。でも、抱きかかえてはやく行けば良かった、なにも動かなかったから、なにかできたわけでなくても、それでも。そんな言葉がぐるぐると、ずっとあの日から内側を責め立てる。
居たところで意味がないことも、声をかけたところで振り向かれないことも知っている。けれども、最初から遠ければ、なにもかも出来ない。
横須賀は元々、出来なくて良いことばかりだった。どうせ叶わないのだから望んだって意味がないと知っていて、でも。それでも、だ。
「藤沢さんは、それでいいんですか」
「いいわけない」
歯を食いしばるようにしたまま返った言葉は鋭い。眉間に寄った皺と横須賀を見上げる瞳は、睫毛の奥、痛みに耐えるようでもあった。
「良いわけ無いです。でも、なにができると言うんですか。みーちゃんの家のことだってままならない。病院だって彼女を保護するには足りないことを見せられて、三浦さんは受け入れて、どれが本当かもわからないまま、最悪のためになにが出来るって言うんですか。私は私が出来る唯一で彼女の側にいます。だって私が間違えたら、あの子はひとりですべてを終えてしまう、たった、たったひとりでです!」
息苦しさに喘ぐような声だ。感情の波を押しとどめようとして、それでも波立つ物が吐き出された音。うん、と、横須賀は心内で頷いた。
ひとりにはしたくない。出来ることが見えない。拒絶されないように、ただ端で出来ることを探す。
そういうことしか出来ない自分を知っている。藤沢の叫びは、わからないことが多いのに横須賀にとってはなぜか馴染む物だった。
でも。
『やりたきゃ勝手にやれよ、ワトスン』
山田の声が、とすんと内側に響く。
「ひとりにしない為に、使ってください」
ゆっくりと横須賀は言葉を口にした。静かに、相手の耳に通るように。
ペンを手前に置く。名刺入れから一枚、使い慣れない名刺を取り出した。そのまま藤沢が手を出さなくても見えるように、ちょうど正面に置く。
ノートを開いたまま、横須賀は膝の上に両手を乗せた。藤沢の睫が揺れる。
「改めて自己紹介をさせてください。俺は山田探偵事務所事務員、横須賀一と申します」
事務員の名刺は、先日病院で渡してある。だからこれは、その為の自己紹介ではない。
「所長である探偵、山田太郎の元で、助手として勤めさせていただいています。――おそらく藤沢さんが病院で出会う患者の方が経験するような事件を取り扱っている探偵事務所です」
藤沢の顔が、名刺から横須賀に向けられる。渇くのどをなだめるようにして横須賀は一度唇を引き結び、唾を飲み込んだ。
「所長の山田は現在この事件を別の方向から追っています。あの人にとっては既に、追うべき事件なんです。だからきっと、貴方の憂う形が近い。聞かせてください」
藤沢は動かない。横須賀は拳を固く握りしめると、酷く苦しそうに眉を寄せた。
「……山田は無駄なことを好みません。だから今回、時間が足りないと踏んで、事件の解決を優先しました。結果三浦さんや深山さんがどうなろうとも、そちらが先と考えた」
本当と予想とをない交ぜにしながら、言葉を口にする。あやふやなことを断言することは、横須賀にとってどうにも恐ろしいことだ。肺の内側、横隔膜の上。酸素が停滞して圧迫されるような感覚に表情を固くしながら、それでも横須賀は言葉を続ける。
「このままでは貴方が憂うことが、本当にどうしようもない結果として存在してしまいます。山田が調べている方は問題ないかも知れませんが、時間が足りないと判断したことの方は保証されない」
「……それじゃあ結局、どうしようもないんじゃないですか」
ぽつり、と落ちた言葉に、横須賀は右手の人差し指の爪を立てた。それからジーンズをひっかくようにして、もう一度拳を作り直す。
「俺は便利だと、言われています」
脈略がない言葉に、藤沢が困惑するように横須賀を見る。横須賀ははくり、と唇を震わせると、息を吸った。
瞼が痙攣する。熱を持つ。声にしようとするだけで肺が苦しくなる。
なんて身勝手なことを、不相応なことを。そう思いながらも、山田の言葉が内側を巡る。
やりたきゃ勝手にやれよ、ワトスン。山田は確かに、そう言った。自分の内側で同じ言葉を何度も繰り返し、その回数分、息をする。
「俺の目は便利です。無駄を好まない山田が、俺を使うことを選んでいる。そうしてその山田が、やりたいならやれ、と言いました。山田の調べる方向では、俺の手が今回必要ない。いつもなら事務所にいろと言う人が、俺にやってみろと言ったんです。
頭のいいあの人が、事務所に行けと言わなかった。俺だけでは難しいことでも、やらないよりも結果が変わるかも知れない、そういうことだと俺は思っています」
ばくばくと心臓が五月蠅い。自分になにが出来るのか、出来なかったことばかりが繰り返される。けれども今度はそうしたくない。それに、山田はいつも言っていた。山田が使うことを選んだ。その意味を過剰に言っていると思いながらも、嘘ではないのだと自分を宥める。
藤沢は黙したままだ。じっとりと濡れる手のひらを隠すように拳を握り直し、横須賀は藤沢に差し出した名刺を見た。
助手なんて、それらしいことはなにもやっていない。横須賀は結局のところ、よくて資料係だ。けれども。
「俺一人じゃうまくいくとまでは断言されませんでした。それでも、可能性があるからあの人は俺を連れて行かず、待機も命じなかった。今はまだ、それだけです」
けれども、資料係が無意味だと山田は言わなかった。
「現状、俺よりも藤沢さんの方が多くを知っています。きっと深山さんの為に色々なことを考えてもいる。俺は知らないし、どうすればいいかわからなくて、三浦さんを捜すしかない。貴方が止めても探します。それがどういう結果になるかわかりませんが――俺がひとりで何かするより、藤沢さんは近くにいた方がきっと深山さんの為に動ける。俺は藤沢さんの知っていることを知りたいです。そして、深山さんを助けるために藤沢さんが俺を使ってください。俺は便利です」
「……そんなこと、しても」
「本当に、三浦さんがただ思いこんでいるだけだと思っているんですか。それを疑うだけのことを、藤沢さんは知っているんじゃないんですか」
横須賀が言葉を重ねる。藤沢の眉間に寄った皺は深く、反対に下がった眉尻は苦しげな表情を作っていた。小さな唇が震え、それでも声は落ちない。
「三浦さんは几帳面な方です」
言葉に、困惑したように藤沢の睫が揺れる。唐突な話題転換。けれどもこれは、横須賀にとって延長だ。
「正式な書類の時だけの癖だとしたらどうしようもありませんが、それでもわかっていることがある。あの人は書いている紙に、ペンを立てっぱなしにしない。紙を汚さないために、中指にペン先を置くんです」
小さな点のような跡は、普段のメモ用紙にも残っていなかった。ペンを浮かせる人は居るが指先に立てるのは独特な所作に思えて、覚えている。元々の癖なのか、中指は小さな点で汚れていた。
「先ほどの三浦さんは、俺のメモ帳にそのままペン先をつけていました」
安い紙は気にしないのかもしれない。けれども渡したのは横須賀のメモ帳――他人の物だ。気にしないとは言い切れない。そして先ほどの三浦はペン先を置いたまま、メモ帳にインクのにじみを作っていた。
「ただそれだけのことですが、俺には山田さんや依頼にきた三浦さん、そして今の藤沢さんを見ていると、それだけだったとは思えません。藤沢さん」
名前を呼ぶ。藤沢が白い顔で横須賀を見ている。心臓が喉にあるかのように、五月蠅い。
「気のせいや気の間違いだとしても、本当にこのままでいいんですか」
藤沢が唇を噛む。そこまで言って横須賀は、背を丸めた。俯いたその顔は、情けない。
「……おれは、このままはこわい、です」
横須賀の声は、細い。無理なら仕方ない。そう思いながらも、情報に縋るように頭を下げる。
深い、深い息を吐く音が響いた。
「私は色々と足りていない、と思います」
小さな声。横須賀が顔を上げる。
「けれども、みーちゃんに関しては確かに知っていることがある。……私だって、このまま知らないふりは、苦しいんです」
「じゃあ」
「私は貴方を使うなんて、きっとできません」
静かな断定。横須賀の瞳が揺れる。
「きっと貴方も私も出来ることは多くなくて、でも、見えている物が違う。だから」
途切れた言葉は、けれども空白で塗りつぶされることは無かった。藤沢の手が、机の上の名刺に伸びる。
「だからお願いします。私はみーちゃんをひとりにしたくない」
ようやく続いた言葉に、横須賀は頷いた。