7-14)事情
は、と藤沢はそこで息を吐いた。少しだけ左右に頭が揺れ、かぶりを振ったのだと分かる。さり、と、机に袖が擦れた。
「彼女は私の職場について、私が思ったよりも多くを知っていました。もちろん、私はそれに答えられるものと答えられないものがあることを伝えていましたが――犯罪者や被害者がどのように病院に居るのか、セキュリティは、問題はなかったか。そういう話にほとんど答えられず、そして彼女が私の職場に不安を持っていることを感じました。彼女には縁のない場所、そう断言することを私は出来ません。横須賀さんがどこまでご存じかわかりませんが、彼女の家は少し特殊でしたので。
結局私は彼女が満足する答えを渡せず、それだけ言葉を連ねられてしまった結果、少しだけ自分の職場に対して懐疑心を抱きもしました」
「平塚さんの、電話は」
藤沢の言葉に、横須賀はおずおずと尋ねた。藤沢は困ったように眉を下げ、首を横に振った。
「……するには、少し不安がありました。対策をしようと動いてらっしゃることを知っていましたが、それにはまだ時間がかかるようだということも分かっていたからです。はやめることなど私の願いでは難しいでしょうし、なにより私もどうすればいいのかわかっていなかったことがあります。
そしてどうすればいいかわからないままなにもしないには、躊躇うこともあった」
「躊躇うこと」
横須賀の復唱に、藤沢は眉間にしわを寄せた。こわばったかのような動きと伏せた顔。それは横須賀が復唱したからではない。まるでその時を思い出すような、堅い表情。
「……私の職場は、本当に奇妙な、言葉や形にしづらい事件の関係者達で成り立っています。話も聞きます。だから知ってはいました。けれど、見たことは無かった。
黒い染み。最初はそう思ったんです。けれど違った。ずるり。影だったのか、それともなにものでもなかったのか。黒いオイルのような、ゆらりと動くもの。それがなんだったのか、わかりません。わかりませんが、それがこちらを見、笑った――いえ、笑っては居ないはずです。アレに顔は無かった。けれども私はあのとき、笑って見えて……火傷跡が崩れ落ちるようにびたびたと落ちた黒を、なんだったのか説明できません。けれども悟りました。ここは既に無理なのだと」
す、と、短い吸気が聞こえた気がした。そしてから一度唇を噛んだ藤沢は、次の呼吸でやや長めに息を吐く。
「その日、みーちゃんから連絡が来ました。私はもう逃げられない、と。なにがなんだかそれだけではわかりません。けれども、みーちゃんは助けを求められない子で――その彼女が私に言ったんです。逃げられない、もうはじめてしまった。私はどうすればいいの。なんで仁はまだ私のことを、私はもうどうしようもない、逃げられない、仁は、もう。支離滅裂な言葉の切迫を知りました。宥めることも笑って慰めることも出来なくなったんです、あの瞬間。大丈夫、もしなにかあったら助けてくれる人が居る、なんて慰めすら出来なくなって――だから私は今、職場を休んでここに居ます。いつまでかはわかりません。職場に戻れるかも分からない。それでも、友人のことを無視できなかった」
藤沢はそこで言葉を切った。走り書く自身の手元が見えないのでどれだけ書けているか分からない。黒、病院。そして先程見かけた叶子。
内側をぐるりと巡るものがどういう結果を生むのか、わからない。それでも、想像してしまうものがある。ペンを握る手のひらが、粟立つ。
「みーちゃんを宥めながら聞いて、それがどこまで本当かわからなくて、でも否定できなくて。――横須賀さんがなにを調べているのかはわかりませんが、横須賀さんは三浦さんと話していたんですよね? 三浦仁さんと」
念を押すような言葉に、横須賀ははっきりと頷いた。藤沢がぎゅっと睫を固く閉じる。それから見上げる瞳は、睫の下でも真っ直ぐ横須賀を見ているだろうことがわかった。
「三浦さんは、私をかなちゃんと呼びます。私は三浦さんとお会いしたことがありません。私にとって彼は友人の元恋人で、彼が私を知るなら元恋人の友人。そう親しく呼ばれる理由も無い。……三浦さんは、随分と疲れているようでしたが、私にとっては異常でした。だって彼は、自分を深山未久だと言ったんですから」
「……三浦さんと会ってから、深山未久さんとはお会いしましたか?」
途切れた言葉の端を探すようにして、横須賀が静かに尋ねた。こくり、と藤沢が頷く。
「みーちゃんとは会っています。会って、話をしました。自分は今、仁さんを使う必要があること。そのために時間が必要だと言うこと。馴染んでいるか確認して、準備が出来たらやらなければならないことがあるということ。――もう逃げられないから、手伝って欲しいこと。そういう話です。仁さんを使う、というのは、仁さんの意志ではなく、みーちゃんの意志だそうです。深山未久と言った時、仁さんはみーちゃんだったのだと、教えてくれました」
「ええ、と、すみません、ノートを出してもいいですか」
「どうぞ」
異常なことがありえると実感したところで、把握できるわけではない。言葉の羅列に困惑しながら、横須賀はノートを取りだした。物事が多すぎて、メモ帳の小さなページではまとめきれない。
三浦のこと、深山のこと、藤沢のこと。それらを付箋に書いてノートに貼り、関係しそうな物を固めておく。
「最初は、二人が精神的に危ういのかと思いました。実際みーちゃんは随分焦燥していましたし、三浦さんも以前みーちゃんから見せていただいた写真より疲労が見えました。みーちゃん……ええと、みーちゃんだと言う三浦さんは、少し所作についてもどうにもミスが多くて、それも疲労なのかと思いました。本人は、馴染まない体だから、なんて言っていましたが。
自分ではない誰かであると思いこんでしまうこと、それが親しかった人ならありえるのかもしれない。みーちゃんが関わっていたならかなちゃんという呼び名を使っても不思議はない。……そうは思うんですが、けれども、私はそれだけだと思えないんです。それだけだと思えないものを見ました。だから私はみーちゃんの言葉を叶える必要があって――だから横須賀さん、時間をください。どうしようもないことがあるんです。ただの気のせいや気の間違いならこのまま終わると思うんです。そうでなかったらもう、これは」
「そうでなかったら、なにが起きるんですか」
ゆっくりと、低い声が落ちる。責める調子はない。けれども、それで仕舞いになる声でもない。藤沢はぐ、と拳を握った。
「そうでなかったら、どうしようもないんです。みーちゃんは頑張っています。私は、あの子の後悔がないように」
「三浦さんはどうなるんですか」
もう一度、言葉が落ちる。遮ると言うよりも大きな石がそこに置かれるような音だ。本来の眉尻の下がった気が弱い表情のまま、しかし静かに横須賀は藤沢を見た。
固く厚い睫が、切れ長の瞳に影を作っている。
「三浦さんとは、お話をしましたか」
横須賀の問いに、藤沢は首を横に振った。
「いいえ。みーちゃん曰く、彼は受け入れている、とのことでした。でないとこうはならないんだと。いっそ違えば良かったのに、と言っています。だから私は、これ以上出来る事を持たないんです」
「三浦さんは、深山さんを探していました」
どこまで言っていいのかわからない。守秘義務、という言葉が浮かんだ。同時に、約束、という言葉も。
「助けを求められない人だと言っていました。連絡が付かない、とも言っていました。たった一度、ワンコールの着信履歴。それだけを理由にして、彼女を捜して欲しいと、依頼に来ました」
優しい顔で笑う人。苦しそうに想う人。横須賀は三浦のことをほとんど知らないまま、それでも、と思う。
ヒーローにはなれない。その言葉の意味は、依頼を確かにするだけではなかったのではないだろうか。
なれない、という言葉は、なりたい、という声にも聞こえる。