7-13)みーちゃん
「散らかっていてごめんなさい」
「いえ」
藤沢の謝罪にどう答えればいいかわからず、横須賀は短い否定だけで返した。
招かれたホテルの部屋はシンプルで、備え付けの机には本が並んでいる。といってもビジネスホテルに本が備え付けられているわけもなく、おそらく藤沢の私物だろう。
しおりの挟まったハードカバーは三冊。行動心理学、脳神経、心と体といった文字が見える。それとは別にハードカバーが三冊。こちらは背表紙にある番号表から図書館から借りた本とわかる。ただ図書館の本は藤沢の職業とは関係なさそうなタイトルばかりで、古地図からみる歴史、地域信仰と病と伝承、愛知の民話・災害と地域の関係性などという言葉が並んでいた。近くにはクリアファイル。半透明なので中に紙が入っているのがわかるが、内容まではさすがに読みとれない。
「……探偵さんは色々見るんですね」
「え」
「本、見ていたので。そういうのやっぱり気になるんですか?」
円筒型の椅子を横須賀にすすめるように動かすと、藤沢は本を手にとった。『心と体―自認識と実際の違い―』というタイトルの本をぱらりとめくり、横須賀が座る方の机に置く。
「本、は、つい、見てしまうだけ、です」
「そうですか」
藤沢がもう一方の椅子を引き寄せ、横須賀の前に座った。一人用の部屋は広くなく、椅子で対面すると通る場所がなくなる。だから、奥の備え付けの机にある本を横須賀が手に取ることは難しいだろう。
藤沢はなにも言わない。来るときも短く場所を伝えただけだった。目を向ける場所をあまり持たない横須賀は、一度部屋の中を見渡した後藤沢に向き直った。
「時間をください、って、どういうことですか」
来る途中に聞いて、答えられなかった言葉をもう一度繰り返す。藤沢は少しだけ顔を伏せると、改めて横須賀を見上げた。
「三浦さんをそっとしておいて欲しかったんです。彼は今少し混乱しているようなので。そしてそのことを説明するにも私は把握しきれていないことがあります。彼と私にもう少しだけ時間をください。こちらに招いたのは、そのお願いをする為です」
静かで落ち着いた声だ。表情は少し硬いが、それは藤沢の真面目さを形にしているようでもある。横須賀は両手を少しだけ組むようにして動かすと、息を吐いた。
じ、と、藤沢を見る。出来ることはあまりない。結局、横須賀が口に出来る言葉もほとんど決まっているようなものだった。
「誰、だったんですか」
酷く端的で、唐突な言葉だ。しかし横須賀は山田と違い言葉を多く持たない。連絡をして相談できればよかったが、山田は携帯を持っていない。仕事用の携帯を持ってもらい自身の携帯に連絡して欲しいと願った横須賀に対して、山田は是と答えなかったからだ。
だから横須賀に出来ることは、まっすぐ聞くことだけしかない。
「誰、とは?」
藤沢が静かに問い返す。眉は動かない。呼吸も静かで、少しだけ肩が揺れた。机の下にある藤沢の手は横須賀の位置からだと見えづらい。けれども右腕の動きで、おそらく手を撫でたかなにかしたのだろうとわかる。
「一緒にいた人、です」
三秒。
「三浦さんです」
藤沢が平坦に答える。横須賀はぎゅっと眉間にしわを寄せた。
ともなって下がった眉尻は険しさと言うより情けない表情に近く、しかしその目は相変わらず真っ直ぐ藤沢を見ている。
「みーちゃん、って言いました」
「みうら、で、みーちゃん。あだ名です」
「猫みたい」
藤沢の言葉に、横須賀は短く呟いた。藤沢の表情は変わらない。
「三浦さんを、みーくん、って、呼ぶ人が居ます。でも、三浦さん、ガラじゃないって言っていました。みーちゃんは猫みたいだからせめてみーくんがいい、で、みーくんになったみたいです」
藤沢の顔が伏せられる。睫に隠れた瞳の色は見えないが、それでも黒が揺らいで見えた。
藤沢のことも三浦のことも、横須賀は詳しく知らない。けれども嫌がるあだ名を呼び続けるようには見えないし、呼ばれているあだ名を呼ばれたことがないみたいな言い方をするような人にも見えない。
優しくて人を思う、そんな二人の中で、その単語は浮いている。
「だれ、ですか」
「……三浦さん、です」
頑なな藤沢の言葉に、横須賀はますます情けなく顔を歪めた。横須賀の言葉は、追求には足りない。手をもぞもぞと動かして言葉を探してもうまく出てこない。
山田ならどう言うだろうか。そもそも、今聞いただろうか。考え出すと胸の内側がざわざわと落ち着かなくなってしまう。正解はわからない。自分がしてしまったことに、不安が募る。
それでも、横須賀は聞く以外に出来ることをもたない。
「三浦さんでも、三浦さんじゃなく見えたのはなぜか、わかりますか。みーちゃんだけじゃなくて、三浦さん、ケーキ屋さんもあんまり、でした。行ったことなくても調べたりしそうな人だと俺は勝手に思っています。それは違います、か。藤沢さんは、なにを知っていますか。俺は、どうすれば聞けますか」
藤沢の顔は上がらない。横須賀は息苦しさに喘ぐように酸素を吸い込んで、体を縮こまらせた。
「三浦さん、心配事があったみたいです。俺は、そのお話を聞いて、終わったら約束、があって。だから変なんです。教えてもらえなくても、俺は時間をそのままにできません。また探さないといけないんです。聞けないなら、俺は行きます」
ぎゅ、と小さくなって伺うように横須賀は言葉を落とした。行きますという宣言なのにやけに力ない言葉は、それでも嘘と言うには堅い決意を持っている。
藤沢が眉間に皺を寄せて、顔を上げた。
「行ったらどうなるんでしょうか」
「わかりません。でも、俺、やらないと」
出来なかったことが浮かぶ。出来ることなんてないと言い切られてしまえばそれでおしまいだ。けれども浮かんだ妄は苦しい。それに、横須賀は叶子を追うのではなく三浦を追ったのだ。ここでやめてしまうわけにはいかない。
青白い、クマの濃いさえない顔の横須賀を見て、藤沢は肩を落とした。
「私も、わからないんです。三浦さんは三浦さんです。けど、みーちゃん、は、私の友人のことです」
「友人」
「本来、三浦さんと私は友人ではありません。彼は私の友人の元恋人で、私は彼の顔と名前だけを知っていました」
元恋人、という言葉に横須賀は指をこわばらせた。ジーンズのポケットからメモ帳と小さなペンを取りだし、机の下で走り書く。
三浦の元恋人。名前は確か、
「みーちゃんの名前は深山未久。みく、で、みーちゃんです」
藤沢の言葉は奇妙で、しかし納得を運んだ。横須賀にとって三浦は三浦ではない。そして藤沢がなにを知っているのかどこまで見ているのかまで知らないが、横須賀はいくつかおかしなことをみてきている故に、否定することはできなかった。それが想像できるかどうかは置いといて、被害者として狙われたと山田が言っていたことを思うとざわつく心地と一緒に、あの違和感の正体がそちらだったのだと納得する。
「みーちゃんとは、随分会っていませんでした。彼女が連絡をくれたのは、ちょうど横須賀さんたちが病院にいらっしゃる前日です。……彼女から聞いたことは、その時はあまり多くありません。実家に帰ることになったこと、やりたくない仕事をしなければならないかもしれないこと。私は学生の時に、彼女の家のことを聞いていて――正直不安でした。だからいくつか聞こうとして、でもそのときは叶いませんでした。そして彼女は私の仕事について聞きました。私は守秘義務があるから答えられることを多く持ちませんでしたが、彼女が不安に思っていることをそのとき少しだけ知ることが出来ました」