7-12)見る先
「なにもできなくなったら、みんなないない。いっしょにいったらわかる。かみさまだけがほんとうなの。おにーちゃんいっしょにいくならいっしょにいこう。そこにいけば、なにもいらないの」
「……神様だけが本当で、そこになにがあるの?」
ついていくつもりはない。それでも、ふと、気になってしまった。彼女の言う神様がなんなのか。あの、彼女の腹から出てくるものとは別なのか。なにを思って、それを求めているのか。そうして尋ねたのは、横須賀の愚かさだ。
叶子の楕円が、うっとりと笑む。光のない、黒。
「なんにもないの。神様の傍でないない、ね」
横須賀は、愚かで、愚鈍だ。けれども、だからこそ理解した。息を呑む、というのはこういうことなのだろうか。柔らかい楕円の黒。それが唯一の幸いのように叶子は言う。叶子は、神様のもと、なにもない、を望んでいるのだ。
うっとりと、死に安寧を見る、甘い笑みがそこにある。
言葉を出せない横須賀に、叶子はその長い睫毛を伏せた。楕円が、蔭る。
「いかないなら、きょーこ、まだがんばんなきゃいけないの」
「まだ?」
するりと一歩引いた叶子に、横須賀が一歩踏み出す。睫が持ち上がる。夜が、拒絶する。
「おじちゃんのおてつだい。ないないならかみさまのとこだけど、叶子でいるなら叶えなきゃなの」
「そんなことしなくても」
「叶子でいるの。叶子はおなまえないないじゃない。叶子なの」
はっきりと言い切った叶子に、横須賀は顔を歪めたまま歩を進めた。歩道を歩く人がちらちらと横須賀たちを見ている。けれども今、彼女を掴めば。焦燥と共に近づくと、叶子が先ほど見ていた店に顔を向けた。
「おじちゃん、みてきたの」
「おじちゃん」
叶子の言うおじちゃんという言葉は、病院の男と、山田。山田はこの場所にいない。叶子の今に居るのなら余計横須賀は叶子をそちらにいかせるわけにはいかず――しかし、足が止まった。
叶子は視線と反対にいく。
視線の先には、男女が二人。
「いっしょにいく?」
横須賀はぎゅ、と表情を歪めた。どうすればいいかわからない。それでも。
「きょうは、だめ」
視線の先、見知った二人――藤沢と三浦から視線を外さぬまま、横須賀は短く答えた。
叶子は、うん、と頷いた。
「ばいばい」
叶子がするりと歩道を行く。美しい少女に振り返る人が居ても、声をかける人は居ない。
「おにーちゃん、ないないなのにいつもいたいいたいするね」
後ろで落ちた声に、横須賀は唇を引き結んだ。返す言葉は浮かばない。だから、横須賀は黙って進むしかない。
三浦が居た、ということはいいことのはずだ。同時になぜとも思う。なぜ、の中身は複数だ。なぜ約束の時間にこなかったのか。なぜこんなところにいるのか。なぜ深山未久ではなく藤沢といるのか。
三浦の両手にある袋はケーキ屋のものではない。ひとつは本屋のもの、もう一つは量販店のものだ。藤沢が本屋で買っただろう小型の折りたたみ地図を持っている。
なぜ。疑問に答えを導き出せるほど横須賀は聡くない。山田が居たら別だろうが、できることはあまりない。ただ、山田は三浦を被害者と言った。ならするべきことはそう複雑ではない、はずだ。
藤沢が顔を上げ、一瞬こわばった。目が細い為どこを見ているのかわかりづらいが、それでも山田と違って見ることが出来る。揺れた睫と少し引いた指先。三浦が藤沢を案じるように見る。
「三浦さん」
びくりと跳ねる肩と、ひそめられた眉。けれどもそれは一瞬で、困ったようなハの字眉の下浮かんだのはゆるい笑みだ。人が良さそうな三浦の表情に、横須賀は少しだけ息を吐いた。
「こちらにいらっしゃったんですか」
「あ、ああ」
短い相づちに横須賀は鞄の紐を握る。同時に、続ける言葉を見失った。なんで三浦が戸惑っているのかわからない。だからこそ、どう言葉を重ねればいいのかわからなくなる。
心配しました、と言っていいのか。当たり前に告げようとした言葉が、喉の奥でひっかかる。
「横須賀さん、三浦さんとお知り合いなんですか」
穏やかな声に、横須賀は視線を下げた。一歩前に出た藤沢の体は、右つま先は横須賀の方、左足はほんの少し三浦に寄っている。三浦は荷物と一緒に鞄を持っている。紺の肩掛け鞄で、生地は布。藤沢の荷物は手に持った地図くらいしかわからない。
「知り合い、です。藤沢さんは」
「知り合い……友人、ですね。偶然で少し驚いています」
言葉をうまく見つけられず、横須賀は眉を下げた。友人同士なら一緒にいても普通だ。藤沢の休みがいつかはわからないが、休日に出かけることはなにも問題ない。
ただ、三浦の休みは友人と過ごすためのものではなかったはずだ。困惑をどうにもできないまま、横須賀は結局素直に疑問をぶつけることにした。
「三浦さん、今日はなんで」
「随分会ってなかった友人に会って驚いて。ええとなにかありましたっけ」
ざわざわと胸が騒がしくなる。山田の姿が浮かぶ。けれど今はいない。
非常に滑稽な想像だ。それでいて根拠が無く、言葉に出来ない。あり得ないといいきることもできず、しかしあり得る証明も出来ず――視界に入った文字に、横須賀は自身の胸ポケットに手を置いた。
「三浦さん、ケーキ、買わなかったんですか」
「ああ、今日はさすがに荷物があるんで。甘い物は好きですけど、毎日食べるわけでもないですよ」
少しだけ照れくさそうに三浦が苦笑する。藤沢の視線を感じながら、横須賀は浅く息を吸った。
「俺、ケーキ食べたことないんです」
「え?」
ぱちり、と三浦が瞬く。鞄からメモ帳とゲルインクのボールペンを横須賀は取り出した。
キャップを外して後ろにはめ込み、ペンを走らせる。出が悪くないことを確認して、破る。裏写りしやすい薄手のメモ帳は、くしゃりと横須賀の手の中で小さくなった。
「そこのお店、名前は知っていて。おすすめのケーキ、ありますか? どれがいいのか、なにも想像できなくて、でも気になって」
メモ帳とペンを添えて渡す。一瞬泳いだ瞳は、しかし伏せた瞼で隠れた。三浦の手が、メモ帳に触れる。
「荷物、持ちますか」
「え? ああいいですよ。これくらいなら持ち替えればいいだけなんで」
よいしょと荷物の取っ手に腕を通して、三浦がメモ帳を開いた。ペンをはねるように持ち、視線が藤沢に動く。
「なにかオススメある?」
「え? うーん、私はタルト系が好きだけれど」
三浦に尋ねられ、考えるように藤沢がううんと唸った。三浦も悩むようにきょろりと視線を動かし、ああ、と呟く。
「店の前に看板ありますし、ああいうのっておすすめが一番でかくかいてあるのでそれ食べてみるのもいいかと」
「はじめて、だから、なにか三浦さんがオススメあるといいな、って」
「うーん、どれもおいしいとは思うけど」
とん、とメモ帳にペン先を置いて、三浦が唸る。書くか書かないか揺れるペンの頭を見て、横須賀は眉を下げた。
「三浦さん、行ったことないんですか?」
「え、あーあんまり気にしないって言うか毎日行くもんでもないってさっき言ったでしょう? だから」
「妹さんたちのマーク、つけてたのに?」
三浦の眉間に皺が寄る。いびつな笑みと、一歩の距離。
「今度一緒に行こうと思ってメモしといたんです」
「そうですか」
横須賀はじっと三浦を見下ろしていた。正確には三浦の手元、メモ帳に触れたままのペン先。
薄手のメモ帳は力に従ってへこみを作っている。ゲルインクが少し滲む程度の、安いメモ帳だ。記せればいいだけのもの。残すと言うよりは他のノートと併用するための、横須賀が持っている中では一番それだけで機能しきれないメモ帳。
「……あの、変なこと言うとは思います、けど」
「どうかしましたか?」
「貴方は誰、ですか」
はくり。揺れた口元と見開かれた目。奇妙なことだと思う。それでも。
「貴方の、名前、は」
「みーちゃん行って!」
「え」
伸ばしかけた手が、衝撃で止まった。三浦が反転する。
「なん、で、藤沢さ」
「話をさせてください。追わないで」
「でも」
「……今私が悲鳴を上げて泣き喚いても、たぶん同じ結果になりますよ」
そんなことされたら追えなくなる。静かな言葉に、横須賀は体をこわばらせた。そうしてから縋るように腕に抱きついてきている藤沢を自覚し、ど、と脂汗が吹き出す。
「あの、はなし、離してくださ」
「まだだめです」
「でも、あの」
視線だけは三浦の消える姿を見失わないように固定させているが、全身で腕を捕まれている感触に横須賀の顔から血の気が引く。女性独特のやわらかさは胸をざわつかせ息苦しい。ひゅ、ひゅ、と浅く呼吸を繰り返す横須賀に、藤沢は息を吐いた。
「まだ他の人から見たらよくわからない状況ってだけです。これだけでなにか騒ぎにはなりません」
「ちが、あの」
「……すみません」
はくはくと喘ぐような横須賀に、藤沢は眉尻を下げた。三浦の姿が消えてややあって、とん、と距離があく。
ぜ、ぜ、ぜー、と息を吐き出して瞬きすらろくにできない横須賀を見上げ、藤沢は姿勢を正した。
「少しだけ、時間をください」
硬い静かな声。べとりとした汗を拭うように耳から首後ろにかけてなでつけた横須賀は、その細い瞳を見下ろす。睫で隠れて見えない瞳の色は、しかし横須賀を見据えている。
「なら、聞かせて、ください。藤沢さんが、なんで、三浦さんといたのか、なんで、三浦さんが、行ってしまったのか」
呼吸をなんとか整え直しながら、喘ぐように横須賀は言葉を並べる。対する藤沢の表情は硬い。
それでも、だからこそ横須賀は真っ直ぐと藤沢を見据えた。
「お願い、します」
神妙な横須賀の言葉に、藤沢は眉間に皺を寄せて頷く。胸を宥めるように右手で押さえ、横須賀はゆっくりと息を吸った。