台詞の空行

7-11)ないものどうし

 * * *

 山田から得た情報は四つ。深山未久に関わっているだろう人間を山田が追うこと。深山家は『未来読み』と言われていたこと。未来読みには犠牲者がでること。そして深山家と深山未久の住所。

 一つ目は横須賀が触れられることではない。誰を追っているのかと横須賀は聞かなかった。山田も言わなかった。病院の光景が浮かぶものの、それを勝手に当てはめてはいけない、と横須賀は考えている。調べていないことになにかを当てはめるとき、仮説ならいいが思い込みは危険だ。それに、仮説を立てる時は調べる時でもある。

 横須賀は多分、まだそれを調べてはいけないと思うのだ。山田が教えないことを調べる理由は存在しない。頭の片隅に経験した情報として以上のものを、横須賀は入れない。

 二つ目はおそらく今回の事件が起こった理由として山田は挙げている。この点について横須賀が調べられることは多くないが、多くないだけで存在しないわけではない。

 誰かが利用したのだったらなにかしら深山家に関する書類が残っているかも知れない。また、三つ目の話。未来読みに犠牲者が存在するなら事件として探すことも出来るはずだ。たとえそれが荒唐無稽な話であろうとも、その犠牲者を見た人間が言葉を残している故のもの、と考えられる。深山家が捕まったという話を山田はしなかったので繋がる結果は見つけられないだろうが、調べられるフックではある。

 ただ問題があるのは、ひとつの家を調べるのは難しいということ。荒唐無稽な話なら地元の民話などから探したらどうだろうかと思うが、それがどの程度の手掛かりになるのか。民話、という理由も、以前あったうろ親子のことからの連想でしかない。しかし、自分に出来るのはそういった過去の積み重ねからの推測くらい、ともいえる。

 そもそも被害者が未来読みに協力したと考えてしまうと、三浦が姿を消したという事実が焦りに変わる。優先順位と山田が言った。調べる時間を使うことで三浦の希望を叶えられないのではということは、時間が無いということでもある。

 約束、という言葉を横須賀は繰り返す。約束をした。だから三浦がそんな形で彼女の思いを叶えるなんて、無いはずだ。

(だから、探さないと)

 息苦しさに胸を押さえるようにシャツを掴んで、横須賀は一度呼吸を整えた。だいじょうぶ。なにも大丈夫なことなどないのにそう内心で呟いて、手の力を緩める。胸にひびが入るように、皺が残った。

 四つ目は住所なだけで、今回の現場にはならないだろうと山田に言われている。もし過去の伝承が関わっているとして、残っている記録から見ると深山家で起きた事件ではないからだ。もしかすると消えた記録にあるかもしれないが、それでもその線は薄いだろうと言うのが山田の見解だ。それに意を唱えるつもりもなく、けれども手にした地図に場所だけは書き込んだ。

 三浦がメモした店の位置と深山未久の現住所を見る。山田が書き加えた円が、赤色で存在している。山田がしたのはそこまでで、ここから探すしかない。虱潰しにも近いが、今ある情報から行動範囲を探すのがいいだろうという山田の言葉がある。完全になにもないところから探すわけではない。

 ただ偶然出会う確率はほとんどないだろう。聞き込みをするにしても相手に知られる可能性がある。なにを選びなにをするか、と言ったときに、やはり山田は利が薄いと言い切った。

 横須賀は動ける。しかし動けるだけでもある。せめてなにかもうひとつ。図書館で調べる前に、なにか。なにか。なにか――

(え)

 ひゅ、と横須賀は息を呑んだ。ひびのようになった皺を集めるように、左手がシャツをもう一度掴む。右手は鞄の紐を固く握る。

 緊張を形にしたような両手の所作は、大きく足早に動いた両足に対してあべこべだった。

 視線の先にあるのは、整った横顔、長い睫。すっと真っ直ぐ下りる髪が、顔の動きに従って揺れる。スカートが揺らぎ、その柔らかさと反対の堅い革手袋の両手が下りている。睫が持ち上がる。開かれた瞳が、楕円に歪む。小さな唇が開き、口角が上がる。はく、となにかが音になりかけ、しかし楕円に引きずられるように細い眉が下がった。

 その睫が下がりきる前に横須賀の右手が伸びる。けれども寸前、空を切った。

「おにーちゃんごよーじ?」

 眉を下げたまま叶子が笑う。つかみ損ねた手を握ったり開いたりしながら、横須賀は叶子の言葉に首肯した。

「うん。叶子ちゃんも、ごよーじ?」

 叶子の独特な幼い口調を真似るようにして、横須賀が聞き返す。うん、と叶子も素直に頷いた。以前と違うのは距離と静かな表情くらいで、しかしその二つが横須賀をざわつかせる。

「なんの御用事?」

 狭くない歩道だが、立ちっぱなしでは邪魔になる。問いながらもそっと歩道の脇に移動した横須賀を見て、三十センチほどの距離で叶子も隣に立った。大きな文具店のショーケース前。手を伸ばせば届きそうで、けれどもきっとまた空を切るのだろうとも思う。

「みにきたの。かえるの」

「なにを見に来たの?」

 叶子の先ほど見ていた場所は、ケーキ屋だ。犬と兎のマークが書かれたメモにあった店の名前。ケーキ屋ならケーキを見に来たのだと思うが、それでも横須賀は叶子を覗き込むようにして、問いを重ねた。

 うん、と叶子は頷いた。

「まちがえないか、みにきたの」

「間違えない?」

「おにーちゃん」

 復唱した横須賀を、真っ黒い瞳が見上げた。黒い、夜空の瞳。太陽の光を取り込んできらめく星のような夜。太陽があっても夜であり続ける瞳。

 以前よりも真っ直ぐと横須賀を貫く色を、横須賀はじっと見返した。

「きょーこ、じょーずにできる」

「……なにを」

「いまはね、いたいいたい、ないの」

 脈略が無いような言葉がぽつぽつと落ちる。叶子の言に、横須賀はぎくりと体をこわばらせた。いたいいたい、が告げる意味を思い、肺が圧迫される。

「きょーこ、おとーさん、だめだった。おとーさんわるいこ。かみさまにだめーしたから、しかたないの。だからね、いいの。いたいいたいなくなったし、でも、きょーこ、叶えられなかったから、叶えるの。じょーずにできるの」

「出来なくても」

「おにーちゃん、ないない」

 横須賀の言葉を、叶子が遮った。瞳には夜。けれどもその夜はがらんどうで、そこに写る横須賀もがらんどうに見える。

「おとーさん、いいこいいこしてくれない。きょーこ、いまね、ちょっとわかる。まえよりももあもあってあたまのなかしないから、ちょっと、わかる」

 支離滅裂と一笑出来る訳のない言葉の端を出来るだけ漏らさないように横須賀はじっと叶子の声を拾う。指先がジーンズをひっかくように摘み、幼い言葉をなぞる。

「きょーこ、かみさましかいないの」

 そんなこと無い。そう言いたいのに喉の奥で声が引っかかった。見透かすような歪めるような夜の瞳は、ただそこにある。

 おとーさん、という言葉が、別の物を横須賀の内側に浮かべ、それが声をとどめてしまう。おとーさんが見つけにこないことを正当化するようなかくれんぼ、上手にできれば褒めてもらえる。なにもかも最初から無理だった横須賀と違い、かすかにでも得られた叶子はただ父に縋った。

 横須賀は叶子と違い、

「おにーちゃんもおんなじ」

 思考を遮るように、叶子が静かに言った。ひゅ、と喉が鳴る。

「きょーこ、叶える子。叶えられなきゃ叶子じゃないの。おにーちゃんは、お名前無い子。ないないだから、なんにもない子。きょーこのおにーちゃん」

 はくり、と横須賀の唇が震えた。叶子の言葉は断じるよりも優しい。けれどもそれが当然だと言い切るもので、ぐずり、と内側が揺らぐ。横須賀の睫が伏せられる。

 名前はある。けれどもあったところで、呼ばれなければ意味がない。

 母に呼ばれなかった名前に意味など――

「ないない、ね」

 眉を下げたまま、叶子が言葉を重ねた。幼いつたない言葉だが、その声は憐憫にも似た、年齢よりもずいぶん上に見える色。横須賀の口角がわななき左右に引き結ばれ、伏せた睫が固く閉じられる。歯を食いしばるようにした横須賀を見る叶子の瞳は、零れそうに歪んだ楕円。

「ないこ、ないこ、ないないなの。かみさまだけ、いっしょなの。だからおにーちゃん、おにーちゃんね、きょーこの。ないないだけどきょーこのだから、おにーちゃん、いっしょにいこ」

 一緒に。叶子の言葉に、横須賀は眉間に皺を寄せたままそっと睫を持ち上げた。姉のように笑む、幼い少女を内側に残した女性。子供ではない、けれども大人には足りない人。

「だってだれもいない。きょーこ、もう、いいかなっておもうの。おにーちゃんがいるならいいよ。だって、だれもいないもん」

「いる、よ」

 ひきつった声で、怯えたような表情で。それでも横須賀は短く告げた。少しだけ叶子の瞳が丸くなる。それから困ったように、首を傾げた。

「ないない」

「いる、よ」

 横須賀の声は細い。表情だって先ほどから変わらずひどく頼りない。けれども横須賀は言葉を重ねた。

 母に呼ばれなくても、横須賀の名前を呼ぶ人は居た。それは本当に幸いだったのだろう、と今ならわかる。縋ることはなかったが、祖母や祖父の友人である人、その孫の女の子、自分を便利と使ってくれたクラスメイト。本当になにもかもなかったわけではない。呼んで欲しい人の声は無くとも、存在したものがある。

「ほんとう?」

 静かな黒い瞳は、細められて星が少ない。そのままうろに飲まれるような黒に、横須賀は鞄の紐を握る。

「ほんとうに、ないないじゃない? いっしょにくる? かみさまのとこ、いって、だれかくる? ためす?」

 横須賀は顔を歪めたまま、頷かなかった。試さないのは、ないからではない。そうするわけにはいかないからだ。

 試した結果を想像する前に、しなければいけないことがある。

「俺、は、目、だから」

 叶子への答えには足りない。けれども横須賀の内側にあるひとつをそのまま口にした。名前を呼ばない人。けれども母とは違う。名前を呼ばないだけで、横須賀を呼ぶ。それどころか横須賀だからだと言う。

 だから、叶子の誘いは横須賀の上を滑っていく。同時に気持ちが確かになる。

「だから叶子ちゃんも、ないないじゃない、よ」

「叶子は叶える子だもん」

 そうじゃない。叶えなくても大丈夫だと言いたいのに、言葉が互いに交わらない。叶子が長い睫を伏せる。黒が広がる。