7-10)行動
短く、山田が言い切った。横須賀の眉が下がり、目が見開かれる。分かっていたのにどうしようもない言葉を受け止めきれないというような表情を見ても、山田は態度を変えない。それが何よりの答えでもあった。
「金銭のやり取りは重要だ。知人友人関係なく、依頼を受けるならその責任を負うという意味でも金を貰う必要がある。俺は俺の仕事に責任を持つためにも、それ相応の対価を得る。逆に言えば、これ以外の対価を求めないと示すものでもある。これが無いものほど面倒なモンはねぇ」
山田がまっすぐ横須賀を見据える。眉間に皺は無いので、サングラスで隠れている視線はそれほど強くないだろう。
それでも山田が言う事実は、横須賀の内側をざわつかせる。
「リンが俺にあの男を紹介したのは、俺にとって益があるからだ。俺はあの男が来た時点で、あの男から益を得ていた。逆に言えば俺が対価を払うべきかもしれネェが、契約にはしていない。運が良ければ考えておく、くらいだな」
山田の顔が下がる。といっても、顔を伏せたわけではない。山田が横須賀を見続けるのは自然な顔の位置でないだけだ。横須賀は猫背だからよく山田の頭を見下ろすが、山田が顔を上げなければまっすぐ見る事が難しくなってしまう。
山田の肩が少しだけ揺れた。呼吸よりも少し大きい息は、しかしため息にしては静かだった。ややあって、もう一度山田が顔を上げる。
「単刀直入に言う。今回の事件、俺は調べなければならないことがある。その為には、あの男の依頼内容を優先できない。対処できそうなら考える。犠牲に使うつもりはない。ただ、たとえそういう結果になったとしても、俺は優先順位を変えないとも決めている。だからここはこれで終いだ」
はくり、と薄く開いていた横須賀の唇が揺れた。横須賀は山田を見下ろす為でなく自身を見下ろす為に首をすくめ顔を伏せた。鞄の紐が絡んだ指先が、また白んでいる。
唇を引き結んだ横須賀は、肩口あたりで握っていた指を腰付近にまで紐を伸ばすように下ろして、もう一度握った。
「俺は何ができますか」
ゆっくりと、横須賀が声を落とした。消え入るような声とは違い、喉がすぼまっていない低音。揺れる瞳はそれでも山田を見ていて、山田は右下を見るように少しだけ顎を引いた。
「……今回、リンが調べて見つけた案件だ。正直テメェの力はさほど必要ない。これは俺がやることで、この男の部屋を見た時点でもうお前はいらねぇんだ。調べる場所がわかっていて、探すものもわかっている。何が必要かどこを調べるかって段階ではお前の観察力や情報能力は貴重だが、人手がいるもんでもない。この間の病院みたいにヤバいものがあった時には単独行動じゃない方がいいが、その危険もほとんどない。タイミングが違うんだ。もし本当にヤバくなったら二人でもどうにもならないし――まあ、入用になったら刑事に話をしてもいいくらいのモンだ」
山田がそこで言葉を切った。返事にはなっているだろうが、断言には足りない。いつもなら結論を言う山田がそのまま横須賀を見上げて黙る。その理由を横須賀は理解できない。
けれども、横須賀は息を吐いた。ゆっくりと吐いた分の息を吸って、呼吸に合わせて緩んだ手をもう一度固く握りしめる。
「俺を使ってくれませんか」
山田は答えない。それでも見上げる視線はそのままだ。紐がねじれる。
「山田さんのことで俺にできることがないのなら、三浦さんのことで俺を使ってください」
約束、と言った三浦が浮かぶ。秋を抱きかかえた山田が浮かぶ。
三浦は信じているし、山田はきっと、切り捨ててしまえるだけで切り捨てることを本当に望んでいるわけではない。横須賀はわかることがほとんどないが、それでもその二つは確かだと思っている。
現に山田は、対処できればと言った。できれば、という言葉は、出来ればいいという願いにも似ている。無理だと分かりながらも捨てきれない、願い。
山田が大きく息を吐いた。今度のは先程と違い、音が聞こえるくらい大げさな溜息であるとわかる。そうしてから書斎机に山田が近づくのを横須賀は目で追った。
「店の名前をメモしとけ」
「え」
言葉に横須賀はティッシュの上に置き放しだったメモを見る。こつ、と山田の細い指が机を叩いた。
「あ、はいっ」
慌てて声を上げて横須賀はメモ帳を開いた。山田の顔がコルクボードに向けられる。ちょうどそこにあるのは、本のタイトルと犬の絵が描かれたメモだ。
「『僕の本棚』は寝室にあった。メモが挟まっていて、ちょいちょい熊の絵が描かれてコメントが差し込まれていた。『よしくん』という表記もあったから、おそらく弟にあてたもの。そこのメモから考えて犬がよしくん、熊が当人、兎は妹だろうな。だからどうってわけじゃねーが、行動範囲としては使える。ゴミを溜め込んでいる様子はないから、まだ捨てられてないってことはこのメモもそこまで古くないだろうし、普段いかない場所で誰かに見られたかもしれない、の候補程度にはなる」
弟妹には甘やかすし甘えると言っていた三浦の顔が浮かぶ。きっと案じるだろう家族を思い、横須賀は胸を押さえるように鞄の紐をまた肩口で握り直した。
「今回の件、俺が追うのはあの男が言っていた女であり、女に声をかけた人間だ」
「声を、かけた」
横須賀が静かに復唱する。病院のことが、頭に浮かぶ。
「深山
なぜ、という言葉はでなかった。黙する横須賀に、山田はいつのまにか寄っていた眉間の皺を親指の腹で直す。
「『未来読み』には常に被害者がいる。馬鹿みたいな話だが未来に行って、その情報を得た人間は死ぬ。消える。生きていたとしても、自分と出会って溶け死ぬなんて話があるくらいだ。ドッペルゲンガーみたいな話だが……溶ける、についてはテメェもそこそこ覚えがあるだろう。アレと同じとは言い切れない。薬になるみたいな話はないし、色薬自体未来がわかるものでもない。ただ、そうなる人間がいると知ってる側にとって、溶ける、は、比喩や与太話とはいいがたいもんなのは確かだ。
ただ、そもそも被害者は深山家の人間でないのに、なぜ得た情報を渡すのかという謎がある。……まあこれについては仮説がいくつかあるし、仮説でしかないってのもある。とにかく今回の被害者は、あの男ってことなんだろう」
ひどく遠い、嘘みたいな話を笑うことは出来ない。元々横須賀は人の言葉を笑えないというのもあるが、それ以上に有り得ないと言えないものを見てきた。山田が言うように、溶ける、にあたるものが、浮かんでしまう。
山田のサングラスに映る横須賀の顔は、酷く静かだった。
「どこにいるかも不明、どうやって被害者を利用しているかも不明。そもそも俺が考える奴が関わっているなら、深山未久があの男を解放する可能性は低い。それはわかっておけ。テメェごときにできなくたって当たり前だ。俺が諦めるって意味くらいは分かるだろう」
首肯はしない。けれども否定もしない横須賀に、山田は息を吐いた。
「……絶対じゃネェよ。事務所の掃除みたいなもんだ。出来るならやれ、出来ないなら別に良い。結果がどうであれ、俺が先に選んでいる。そこを間違えないのなら」
わざとらしく、言葉が切れる。眉間にしわを寄せ片眉を上げ、それにつられるように唇を片方だけ持ち上げて山田は笑みを作った。
「やりたきゃ勝手にやれよ、ワトスン」
嘲笑じみた声に混ざった色が何色なのか、横須賀は知らない。