7-9)疑問
(あれ)
近くに行くと、平置きされた本の近くに明細があることに気付く。なんとなくだが、三浦が置きっぱなしにするのは不思議に感じられた。山田は平置きされた本を一冊ずつ確認している。いつもなら見ろ、と言われるのに、今日はない。
言われないのに見ているものを横から見るわけにもいかない。どうしようかと逡巡し、横須賀は結局明細に手を伸ばした。並んでいるのは本の名前で、通販で購入したものなのだろう。英語のタイトルのものと日本語のタイトルのものが有り、日本語はビジネス書や雑学新書が多いようだ。
ふと気になって視線を本棚に移す。CDは洋楽が多く、本棚に並んだ本は英語と日本語の二種類、本の種類や大きさはバラバラ。多読な人だ、と思いながら山田が見ている本を横目で確認すると、ちょうど明細のものと同じ名前が記載されていた。明細にある本と、明細にない本があるようだ。
明細にある本は『Lost cat』『Oracle』『寺と神社と社の違い』『Cowardl Photographer's Art』『名の無い人』『AIはどこまで出来るのか』『現在のロボット工学』『クオリアとゾンビ』の八冊、明細にない本は『The Little Prince』『なぜ商店街は存在するのか』の二冊。今山田が持っているのは『The Little Prince』だ。
固い表紙を、手のひらが覆う。それから小口を親指が押し開くと、ぱらぱらとページがめくられた。
読むと言うには早すぎる速度。時折指が止まりかけるが、結局すぐに次のページに移っていった。
そうして最後まで見た山田が、眉間に皺を寄せる。唇は閉じたままだが少しだけ動き、それを隠すように本を閉じて空いた手が口元に添えられた。
「さっきあったパソコン、どれも同じだったか?」
「え? あ、えっと……ちょっと待ってください」
山田の言葉で、寝室から出て先ほどのパソコンの場所に戻る。そうして眺めた横須賀は、一台のパソコンに手を置いた。
「これはネットワークに繋がっていませんね。他は繋がっているんですけれど」
分かりやすく、他のパソコンは有線でネットワークに繋がっている。この一台だけが浮いていて、それに山田は頷いた。その手には、先ほどの本を持ったままだ。
「……見るならそれか」
小さく呟くと、山田が本を置いてパソコンの電源を入れた。横須賀が画面を切り替えると、先ほどのアイコンとは違うシンプルなログイン画面が映る。
細い指先がキーボードを一つずつ確かめるように押す。
『The_Little_Prince96』
エラー。
『The_Little_Prince_96』
エラー。
『The_L1ttle_Pr1nce_96』
「あ」
ログインが進んだ画面を見て、横須賀が声を漏らした。山田は特に表情を変えず、そのままフォルダを開く。
「あの、どうし、て」
つい口からこぼれた疑問にも、山田は反応を見せることなくフォルダの階層を下りるように確認している。申し訳なさそうに体を竦める横須賀が画面に映った。
「当てずっぽうではあるが根拠がないわけじゃない。あからさますぎるだろこの本」
山田が顎で先ほどの本を示す。ぱちり、と瞬いた横須賀は、もう一度本を眺めた。
明細にある本はスリットが挟まっているが、こちらの本には挟まっていない。しかし見てわかるのはそれだけで、もう一冊の明細にない本も同じだからどう違うのかはわからない。
「『The Little Prince』、表紙を見れば英語を知らなくても想像付くだろう。『星の王子様』、作者はサン=テグジュペリ。原語はフランス語だ。こんだけの洋書を読む男が、今更お勉強に英語で童話を読む必要ないだろう。フランス語と英語の併記ならまだしも、英語で読むなんてあんまり意味ねぇよ。国による違いをみたいなら別かも知れないがな」
山田の言葉に、横須賀は本を見る。英語を勉強するにはちょうどいい切り口かもしれないが、しかし明細に乗っていなかった本だ。よく見ると小口にも色が付いている。管理は綺麗にされているようだが新しいわけではない。
「読み返したって線もあるが、この新しい本の上に乗せとく必要はないだろ。これは推測だが、本が崩れたのを些細な事、としながら、「いつもと違う」と考えてなんとなくパスワードを変更した、ってのを可能性にした。そして変えるにあたって、どうしたかって話だ。
変更しても忘れないパスワード。あの性格なら「もしも」を考えて完全なメモ無しはしなさそうだ。かといって第三者にわかりやすいようなメモはしないだろう。本ってのは、どこにでもあるし、変更するにしても簡単に入れ替えられる。平置きの本が崩れた、とあの男は言っていた。もしそこにパスワードに使っていたものがあったら? まさか、気にしない。そうしながらもなんとなくパスワードを変更したんじゃネェか、までが俺の予想だ。アレは臆病なとこがあると考えて良い。
そこまで考えたら、この本が一番可能性が高いんだよ。これは浮いているからな」
至極当たり前のように山田が言い切る。まだ納得しがたい横須賀に、山田は今度は横須賀の鞄を見やった。
「パスワードを考えるときにある程度文章が予想できる時、面倒なのは文字選びの癖だ。まあ今回ラッキーだったのは、あの男のアドレスとさほど変わらない法則だったあたりだな」
「あどれす」
横須賀を見上げはしないものの、画面に視線を戻した山田は浅く首肯した。カーソルがメモ帳を開く。日付らしき数字と、改行の多い文字が並ぶ。
「
こん、こん、こん、と、スクロールバーの余白を一度クリックして文字を送りながら、山田が言った。ひどくあっさりとした断言に、横須賀は鞄を撫でる。
「あとは単純だ。特にメモのような書き込みはなかったし、あのやけに不運を嘆く男じゃしおりとか外れやすいものを使うこともないだろうからスリット類を使う可能性は低い。セキュリティ上英語大文字小文字、数字と記号を使うべきと考えて、本のタイトルとページ数。一応試しに記号なしにしたが無理だったのでアンダーバー、それでも駄目だったから名前に混じった数字から一番代用しやすそうなiを1で代用。ちょうどそれで当たりだったっつーだけだな。……よし」
山田が短く呟いて、メモ帳を閉じた。なにを探していたのだろうかわからないが、他のファイルも三つほど開いてはそれらはスクロールもせずに閉じているのを確認する。
ややあって、電源が落とされた。
「確認は終わった。出るぞ」
「え」
横須賀の困惑した声に、山田は振り返らない。いつものこととも言えるが、しかし横須賀は先ほどの机を振り返った。
「出るぞ」
もう一度、山田が言う。鞄の紐が、また指に食い込む。
「する事があるのか」
「……山田さん、は」
山田の言葉に、逡巡が喉からこぼれた。山田が振り返る。腕を組んで横須賀を見上げるその小さな体は相変わらず背筋が伸びていて、対する横須賀の長い上背は申し訳なさそうに縮こまっていた。
それでも横須賀は唇を引き結ぶことなく、山田を見る。
「する事がないんです、か」
横須賀の静かな言葉に、山田が小さく片眉を上げた。
「何が言いたい」
山田の表情の変化は一瞬だった。聞き返す声も静かで、責める調子はない。横須賀は鞄の紐をねじる指を止め、その縫い目を爪で押すようにしながら握る。
「山田さんは三浦さんから依頼を受けていない、です」
横須賀の言葉に、山田は口を開かない。先を促すこともしないでただ見返すだけの山田に、横須賀はぎゅっと一度目を瞑った。
山田は前金を受け取る。金銭は責任だ。だからこそ確認するまでは正規の依頼でなく扱うとしたのはわかっている。
けれども。
「確認した、と言いましたが、確認だけ、ですよね」
つっかえながらも、確かめるように横須賀が問いかける。腕を組んだ山田の右手人差し指が、袖の皺を引いた。
「調査をしないんですか」
次いで中指が袖を引いて、そのままするりと腕が解かれた。左手の親指がポケットに入り、右手の指先が大腿部を小さく叩く。中指の爪がポケットの縫い目を引っ掻いて、腕の動きに合わせて伏せられていた山田の顔が持ち上がる。
「必要なことは確認した。あの男は無害で、嘘はついていない。当人についても女についても。俺が欲しかった情報はそれだけだ」
「調査は」
「テメェの予想は間違ってねぇよ」