7-6)愛する人
「でも、駄目でした。『貴方と居ると駄目になるの』って言われました。俺はそれでもいいと思ったけれど彼女にとってはそれは本当に駄目なことだったみたいで、俺は彼女が大好きだったんだけれど、その感情でしてきたこと全部『駄目』になっちゃったみたいで。……正直途方に暮れました。格好悪く彼女に色々言いましたけれど彼女は駄目の一点ばりで、俺の気持ちは、愛は、好きって感情は良くなかったんだなって思って。――あれから俺は、恋がよくわかんないんです」
流れる言葉は、横須賀には難しい。愛という感情を随分尊いものに横須賀は思っているからだ。
それは自身から随分遠いから余計なのかもしれない。まるで誕生日のショートケーキのような、夜に飲む砂糖入りホットミルクのような、風邪の時に食べるうさぎのリンゴのような、物語の中でしか存在しないもの。
当たり前に存在しても自身だけでは得られない貴重なものを与え貰う側という三浦が酷く悔いたように顔を歪ませることは、なんだかとても落ち着かない。
それはもっと優しく、甘く、きらめいているはずなのに。
「すみません。ちょっと支離滅裂としていますね」
「大丈夫よ」
三浦の言葉に、そっと差し込むようにリンが声を落とした。眉を下げて笑った三浦は一度口を両手でふさぐと、肩を上下させた後背筋を伸ばした。グラスの手前で組まれた両手は、懺悔するようでもあった。
「彼女と結婚まで考えましたが、それが叶わなかったことは仕方ないと思っています。山田さんにも言いましたが、凄く信用無いかもしれないですが、俺は彼女とヨリを戻したい訳じゃないんです。忘れられない人、なのは確かです。けれども多分それは恋だったからと言うより、多分、多分それ以上に彼女の言葉が俺の中に残っているんです。彼女の他に付き合っていないのは彼女が未だ好きだからと言うより、俺はまた自分の気持ちで誰かを傷つけるのが怖いからだって、そんな自覚をしています。俺は凄く、本当に凄く彼女との時間が楽しくて、楽しくて幸せでした。気づかなかった、気づけなかったんです。好きって、愛しているって気持ちが、彼女を本当に追いつめていたことに。本当の『駄目』だったことに。俺は俺の楽しかった気持ちだけで、彼女には足りなかった。『駄目』だったからもう、どうにもできない。俺だけが幸せだった。それが残っている。だから」
三浦がそこで言葉を切る。組まれた両手が膝の上に置かれ、横須賀を黒い双眸が貫く。
酒に酔っているという目ではない。ただ静かで、むしろ飲んでいるものがアルコールであることが不思議になるくらい、酷く真っ直ぐだった。
「だからこそ、彼女の連絡をなかったことにしたくないんです。彼女はそんな相手だった俺に縋りにきた。駄目になりたくないという感情ですぐに電話を切ったかもしれない。でも、俺のあの彼女にとって駄目だったことでも、それがもし、それだからこそ彼女が逃げ場として浮かべるきっかけとなったのだとしたら、俺はそれだけで良い。彼女が俺をもう愛していないことはわかっています。ヨリを戻す気もない。戻したところで、俺はまた俺の気持ちで彼女を傷つけてしまう。ただ、ただ俺のしてきた感情が本当に駄目でしかなかったわけじゃないことを知れたらっていう、身勝手な感情です。そうだとしたら俺は少しだけ救われる。俺は欲しい答えが決まった状態で、彼女の答えを見つけるために動いています」
静かな言葉は、その瞳と同じ真っ直ぐさで連なる。なぜだろうか。全て自分の責とでもいう声を、この言葉の調子を横須賀はどこかでなにかと重ねている。なにかはわからないけれど、手のひらがざわつく。
「俺は身勝手です。でも、だからこそ動きます。縋ってくれたと信じて、足りない分貴方達に賭けるんです」
静かだがはっきりとした宣言。体を動かすことも出来ぬまま、横須賀は三浦を見続けている。
瞬きと言うには少し長く、しかし
「山田さんの判断によりますが、本当に、お願いします。俺は動くけれど足りないから。動けるだけで、本当、俺はただの凡人なんです。ヒーローにはなれない。彼女のヒーローになれなかった、ってことじゃない。ただ、俺はその救う側には足りないから、それでも諦められないから。形にならなかった『助けて』が有ったと、教えてください」
深く、頭が下げられる。つむじからくしゃりとしたやわらかい髪と、アイロンのかかった襟から離れる首筋。ぐ、と横隔膜当たりがひきつる。
息がうまく吸えない。
「そんなに必死に口説いても、結果は変わらないわよ」
リンが苦笑を吐き出して言った。三浦の拳が一度揺れる。持ち上がった顔は少し固かったが、それでもなんとか笑みを成していた。
「ま、うまく転がれば儲けものくらいのモンですよ」
リンを見て三浦が笑う。そうしてから隣の横須賀を伺い見て、眉を水平に寄せた。
「そんな顔しないで大丈夫です。俺のはまあ、うまく同情してくれたらいいなーくらいのずるいやつなんで」
そんな顔、とはどういう顔なのだろうか。鏡がないのでわからず、横須賀は拳を握った。ぎゅ、と小さくなった手を見て、指先からゆっくり引き剥がすように一本一本意識して開く。両手が開いたところで、ゆっくりと息が吐きだされる。ようやく、酸素が肺に取り込まれた。
「恋って言うより自分勝手。わかっていて、そういうところを伝えておいて。それ以上は悪いことしてないですよーって奴ですね。判断は山田さんですけど、話せば話した分、横須賀さんみたいな人は放っておけなくなるでしょう? ずるい理由ですよ」
「ずる、い」
喘ぐように横須賀が言葉を繰り返す。ずるい、というにはあまりに優しい顔で、申し訳なさそうに三浦は笑った。
「貴方がずるいと思うかは置いといて、話したモン勝ちなところがあります。後ろめたいことが何も無いという意思表示。言葉で晒すことは内側を見せること。貴方達に私は隠し事をしません、信頼しています。弱いものに多少なりとも心を砕くだろう人の心理に縋るような感じです。効果が無い人は無いですけど。
だからまあ、深く考えないで、俺のこと放っておけないなー彼女がちゃんと見つかって手助けできればいいなーくらいで考えてください」
はくり。なにか返そうとして横須賀は口を開いたが、吐き出されたのは声でなく酸素の粒だ。まるで水の中のあぶくのように小さいそれは、音も立てずに弾けてしまう。
空になったグラスを三浦がリンに渡す。ソルティドッグを、という言葉に、リンは頷いてグラスを取り出した。
カラン、と、透き通った音が響く。
「まあ、恋の話は鉄板よねぇ。恋心でなくても特別な人ってのは特別なままだし」
「リンさんもそういう人居るんです?」
リンの言葉に、三浦が尋ねた。先ほどまでの切迫感と決意の色は隠れており、楽しげな色は穏やかだ。
「そうね、特別。いつでもその時恋をしている相手が一番だけれど、それとは別に特別な人はいるわよ。恋心は終わっても、ずっと残っている人」
「リンさんが惚れるなら色男って感じでしょうね。すらっとしたイケメンかな」
三浦が目を細める。対してリンは少しだけ瞼を持ち上げ、あら、と意外そうに声を上げた。
「そんな印象だったの? 顔は関係ないわよ私。その人は小柄可愛い感じの外見だったし――だからといって可愛いから好きになったわけでもなかったわ」
「じゃあどんな人だったんです?」
首を傾げて三浦が問う。促されるようにして、リンは自身の頬をなでるようにゆるりと手を添えた。