7-3)誘い
「あ、そうだ」
記入していたペンを止め、三浦がふと顔を上げた。会話を終えたとでも言うように足を組んでいた山田が、足を下ろして姿勢を正す。
「どうかしましたか」
「あ、いえ、今回のこととちょっとずれるんですけど」
改まった山田に少し申し訳なさそうに三浦は身を竦めた。山田が先を促すように頷くと、気の抜けたような笑みを返してペンを回す。
「リンさんにご紹介いただいたので、今日の報告も含めてお店に行こうかなと思いまして。山田さんたちは、今日は」
「私はやることがあるんで」
三浦の誘いを、素っ気なく山田は断った。拒絶と言うよりも当然を語る声に、三浦は頷く。
「よろしくお願いします」
本当に思いついただけだったのだろう。断られたことを嘆くこともなく三浦は頭を下げる。ペンがもう一度紙に乗った。
一文字一文字左手の指先でなぞりながら、三浦は視線を動かす。読み切るとその近くにある記入欄に指を滑らせ、押さえるようにしながらペンをゆっくりと記入していた。几帳面、と言うべき動きだろう。けれども几帳面よりもなんとなく丁寧という言葉の方が似合うように感じられる。指先が随分とゆっくり、優しく紙を撫でるからかもしれない。
筆圧は高くも低くもないようだ。ペンを押しつける瞬間は少し強いが、すぐに手首が角度を変えて文字をゆっくりと滑らせる。瞬きを何度か繰り返し、それが止んだ頃に文字がするすると紙に乗る。
時々最後の画で止まり、指先がペンを少し跳ねるように持ち上げる。親指、人差し指、中指に支えられたまま一度だけスピンするような独特の所作の後、ペン先が中指に立てられペンは九十度を保つ。おそらく紙を汚さないための行動なのだろうが、ボールペンで中指が汚れてしまっていた。
「デカブツ、お前はどーする」
「っ」
突然声をかけられ、横須賀は大げさに体を跳ねさせた。横須賀が息を呑む音に三浦は顔を上げる。
二秒ほど感情の見えない顔で横須賀を見上げていた山田は、眉間に皺を寄せてため息を吐いた。
「三浦さんがリンのとこに行く。俺は行かネェが、お前は残業ネェんだ。どうする」
「え、あ」
「ああ、横須賀さんは大丈夫なんですか? お嫌でなければ是非」
三浦が嬉しそうに笑う。上瞼を持ち上げはっきりと横須賀を見、それでいて下瞼は笑みに従って弧を作っている表情は非常に優しい。けれども行けでも行くなでもないどうするという言葉に、横須賀は体を竦めた。
「えっ、と」
「ああ、無理は言いませんよ。よろしければってだけですし、お気遣いはいりません」
三浦が眉を下げて横須賀を見る。山田を見、三浦を見、横須賀は書類に視線を落とした。ゆうじんのよしみ。山田の言葉を内側に繰り返す。
山田は前金をもらった上で仕事をする。友人のよしみ、という言葉は初めて聞いた。三浦が問題ないとわかったら、と言ったから特殊なケースなのだろう。赤月の時とは違う。また、電話で仕事を持ちかけた代田の時とも違う。
リンが仕事を持ってきたから――そこまで考えて、横須賀は息苦しさを感じた。なぜだろう。なんでリンが、仕事を持ってきたのだろうか。
赤月の時、当たり、と山田は言っていた。
「いき、ます」
「大丈夫ですか?」
「行きたいです」
三浦の言葉に、横須賀は少し早口で言葉を重ねた。山田は三浦を見ている。顔の向きからしか判断できないのでもし横須賀を見ていてもわからないが、どちらを見ていたとわかっても山田の内心を察することは出来ない。
「行きたい、と言っていただけてよかった。名刺のアドレスは仕事用なのでちょっと待ってください。山田さんの方には個人の方渡したけど、横須賀さんにはまだですもんね」
三浦が手帳の後ろページを開く。さらさらとペンを走らせた三浦が、ページを一度縦に折った。メモ用の場所で切取線がついているから、それに沿ってのことだろう。ぺりぺりと下の部分だけ切り分け、用紙の三分の一部分で今度は横にかかった切取線をなぞるように折り目をつけ、指先で慎重に切り剥がしていく。
ぺり、と最後の音で、離れたメモをもう一度指先で整えるようにならしてから、三浦はその紙を横須賀に差し出した。
「こちらが俺の連絡先です。お仕事が終わる頃にもう一度伺いますが、いつ頃になりますか?」
「少しお待ちいただければ、今日はすぐ終わらせますよ」
三浦の問いに言葉を返したのは山田だった。特に仕事が入らない限りあまり忙しいことはないし、山田が横須賀に仕事を命じないのならそれでいいだろうが、しかしいつもより一時間半もはやい。戸惑うように時計を見た横須賀に、山田がこん、と机を鳴らした。
「リンには連絡しておくので、三浦さんに急ぎの用がないならそのまま行くといいでしょう。デカブツも次の日があるんで、夜遅くまで呑ませるのは止めてくださいよ」
「勿論です。彼女の件もありますし」
「貴方の家には早速明日伺っても大丈夫ですかね」
「はい、お願いします」
とんとんと話が進む。会話の度三浦は一度ペン先を中指で押さえ、途切れるとゆっくり指で文字をなぞりペンを動かした。二人を見ながら、横須賀はメモを整理する。
しばらくして記入を終えた三浦は裏面をめくり丁寧に用紙を数え直し、山田に差し出した。
「記入用紙三枚、他二枚で間違いないですか?」
「間違いないです。どうも」
山田も用紙を数え直し、受け取る。顔を上げた三浦の視線が横須賀とかちあうと、三浦はにっこりとわかりやすく笑みを浮かべた。
「そのまま座って待っていてください」
山田が立ち上がり、書類を一度自身の机に置いた。山田の言葉に三浦はぱちくりと瞬いてから、一度扉の方を見る。
「外に出なくて大丈夫でしょうか」
「隠すようなこともありませんよ。おいデカブツ、メモ寄越せ」
山田は肩を竦めて三浦に返すと、横須賀を見上げて横柄に言った。え、と小さく声を漏らした横須賀は、申し訳なさそうに元々下がった眉をさらに下げる。
少し書き直したとは言え、手の中のメモは散乱としていた。この状態を見せるのは、横須賀にとっては落ち着かない。なんだか色々足りていないように思えて不安になるからだ。
「あの、走り書き、で」
「前見たときも十分だった。整理されてりゃそりゃ見やすいがな、とりあえず今日はいい。そこの水だけ片付けて終わりにしろ」
ぱらぱらとメモ帳に目を通した山田は、三浦が記入した書類を一度だし同じように目を通した。ええと、と声を漏らす横須賀を追い払うように右手を中から外に向けて動かす山田を見、横須賀は首後ろに手を置いた。
「えっと、じゃあ、お下げしてもよろしいですか」
「はい、有り難うございます」
三浦の言葉に横須賀は頭を下げる。どうにもはきはきと礼を言う人で、あまり言われ慣れない横須賀は戸惑ってしまう。どう答えればいいか、と考え内側に浮かんだ快活な声に、横須賀は困ったように瞬いた。
どういたしまして、と言う言葉は、教わってもとっさに出ずらい。首を竦めた横須賀は、もごり、と口の中で言葉を丸めた。
「……あ、掃除は」
「一日くらい気にすんな」
ふと思い出して声を出すと、山田は書類から顔を上げずに言い切った。すみません、と返事をして、横須賀はコップを片付ける。
考えてみれば、死体部屋は非常に雑然としていた割にこちらの部屋は綺麗だった。台所もそうだし、手洗い場も清潔だった。山田は片付けだけを面倒くさがるのだろうか、それとも客が来る場所だから気を使っているのか。ぐるり、とコップの中でスポンジを回して、横須賀は息を吐いた。
考えても答えはないし、考える理由もない。山田はそういう人だ、でいいのに、なぜかぐるぐると考えることが増えている。横須賀の頭で山田を理解できるわけでもないのに。
ため息を流すように洗剤を落とす。きゅ、とガラスが鳴った。
茶葉どころか氷すらない台所で水気を払う。生活感がないモデルルームのような部屋が浮かんだ。
管理されない部屋はもっと埃っぽくなることを、横須賀は知っている。馴染みのない清潔感は、だからこそ違和だ。
グラスを置けば、それだけが浮いて見える。横須賀はもう一度息を吐いて、台所を出た。