7-2)三浦仁
「心当たりはない、んですが、彼女が俺に連絡をしたということが俺にとって重要なんです」
山田が頷き、先を促す。それに返すように三浦は一度目を閉じると、携帯端末を閉じこめるように両手を合わせてその縁を撫でた。そうして撫でる指の腹同士を合わせる。祈るように携帯端末を手の中に隠したまま、三浦は口を開いた。
「彼女が俺になにかを言おうとして、止めた。それが俺には随分大事なことなんです。彼女は人に頼るのが苦手な人でした。自分で何でもしなければって思いこんでしまう人が、別れた男に連絡をしようとした。結局止めてしまったけれど――俺が頼るに足りないとしたのかどうなのかわかりませんが、それでも俺は彼女を放っておけない。俺は彼女の声を、聞かなかったことに出来ません」
背を曲げ手を合わせ、かみしめるように落とされる言葉は山田に届くと言うよりは三浦の内側に積もるような声だった。説明をしているにも関わらず、三浦は自身の手をじっと見ている。手、というよりはおそらく携帯端末をだろう。まるでそこだけが唯一繋がる場所とでもいうような所作は、息を吐く動作で一度途切れた。
伏せた瞼が持ち上がり、黒い瞳が山田を映す。
「彼女に未練があるわけではありません。でも、彼女がどうでもいいわけでもない。恋を終えても彼女の幸せを祈る気持ちはある。――ただ、判断が難しいこともわかっています。ストーカーの妄執に見られるだろう自覚もある」
三浦の言葉に山田は答えない。否定も肯定もしないまま、三浦を見返している。
小さく、三浦は息を吐いた。ため息と言うよりも控えめな音は、するりと吸気で飲み込まれる。
「最初にお話ししたように、リンさんにお声かけいただかなければ貴方に頼ることも考えませんでした。宛てがあるわけでもなく、非常に偶然の出会いに感謝して依頼に伺った次第です。その程度には、自分の言葉が他人からすると危ういと思っています」
「貴方の言葉は聞きやすい。それはお伝えしておきます」
三浦の言葉に、山田が静かに答えた。三浦はポケットに端末をしまうと、先ほどと同じように姿勢を正す。山田の言葉に安堵したと言うよりは、寧ろその言葉を受けたからこそ真っ直ぐと自身を律するような所作。
「俺から話せることは以上です。俺の連絡先や個人情報、元恋人から連絡があったこと、連絡が通じないこと。着信履歴は見ての通りですが、登録番号や表示が偽装と思われたら証明のしようもない。あとは山田さんの判断に任せます」
背中に芯が入ったかのような一礼。いち、に、さん。きっちり三秒で上げられた瞳はまっすぐ山田を見据えていた。
山田が指先でこつりと机を鳴らす。
「確かに、貴方の言葉を証明するものはありませんね。ただ貴方はリンからの紹介だ。あれはそれなりに人を見てきているし、そもそも調査で法規に触れないようにするのはこちらの仕事ですので、判断を間違えたかどうかは貴方に委ねられない」
山田の言葉に、三浦が視線を山田の後ろ側にやった。山田の後ろには棚があり、ちょうどガラス戸となっている。あちらの棚は横須賀が整理する前からきちりと並べられていた。
並んでいるのは全体的に法律関係のものだ。六法全書、福祉小六法、医療法、建築法、家庭裁判というような単語もある。横須賀は法律に詳しくないのでどれも内容が想像できないが、法という文字でおそらく三浦が確認したのはそちらだとわかった。
「ただ貴方に委ねないが、だからこそ判断をする前に時間をください。友人からの相談として最初は伺います。ある程度調べて依頼として扱うことを決めたら前金をいただきましょう。それまではお金や書類は必要ありません」
「いいんですか?」
「私は私の頭を信用しているんでね」
山田が口角の端を片方だけ上げて笑う。少々揶揄するような表情に、三浦は不愉快を見せるどころか寧ろ少し気弱そうに眉を下げて笑った。気弱と言っても怯えるとは違うだろう。ただ自身を下に見せるような柔らかい笑み。どちらかと言うと、犬が腹を見せるようなゆるさとも言えるかもしれない。
「ではお言葉に甘えて、それでお願いします。必要になりましたら教えてください」
「はい、よろしくお願いします。お願いと質問に入りますね」
「はい」
三浦が手帳を開く。ペンを立てたのを見てから、山田がとん、と机を鳴らした。
「まずお願いとして貴方の家を確認させてください」
「俺の家、ですか?」
きょとんと三浦が目を丸くする。しかし疑問を続けるよりも早く、眉間に皺を寄せて歪に笑った。
「ああ、わかりました。いつでも構いません。話も通しておきます」
「申し訳ない、念のためです。もし本当に疑うのなら許可を得ようともしませんよ」
「わかってます」
山田と三浦の会話に、横須賀はペンをメモ帳に押しつけた。表情や所作に特別な違いはないので書くことはない。ただ、会話の意味がわからない故の押しつけだった。
疑問を口に挟むことは出来ないし、山田が分かっているのなら問題ないだろう。それでも不可思議で落ち着かず、芯を軸にペンがぐるりと回る。
「それと貴方に電話があった件ですが。なにか些細なことでいいので、他に異常はありませんでしたか?」
「異常、ですか。とりあえず思いつきませんが」
ううん、と三浦が顎に手を当てて俯く。無精ひげを指で三度ほど撫でると、うん、と小さく呟いて三浦は顔を上げた。
「特には思いつきません。……が、些細といえば、俺、寝ぼけて起きたのか何なのか、本が崩れてたんですよね」
「本が」
山田が復唱すると、三浦は手帳の日付を撫でた。
「ええ、電話に気付いてかけ直して、通じなくて寝直して……緊張してたんですかね。夢遊病みたいな
まあ平置きしてたからなんか崩れたのかなぁくらいな気持ちではあるんですけど、とはいえそこまでバランス悪かったかな? たまにとりあえずでやったことがうまくいかないのはよくあることなんで、そんな気にはならなかったんですけど」
こういう雑なところがダメなんですよねぇ、と三浦が笑う。たはは、と眉を下げて気恥ずかしそうに笑うさまには見ている側の笑みを誘うような気安さがあった。しかし、対する山田は表情を変えない。少しだけ下がった顔に三浦が笑みを引っ込める。
しかし、それは数秒だった。そうですか、と続いた山田の声は静かで平坦だ。
「他にはありませんか。知らない人間に声をかけられたとか」
「そういうのは特に」
「体調が悪い、とか」
「あー……」
山田の言葉に、三浦が少し視線を上に逸らした。首後ろから後頭部にかけてを掻くようにして右手を往復させると、やや大げさに肩を竦める。
「彼女からの電話が来て、色々考えてしまっているみたいですね。いつもより随分疲労感があります。今回彼女を探す為にまとまった休みをとったんですけど、その割にだるさが抜けません。お恥ずかしながら、俺はどちらかというとビビりだったり神経質なところがあるんです。こう見えて意外と小心といいますか……だからその関係かなっていう自認はしています」
「そうですか」
山田の指先が、三浦の名刺をなぞった。三秒ほどの沈黙の後、ありがとうございます、という山田の平坦な声が響く。
「取り敢えず彼女について貴方が知ることを書類に記載していただいて、あとは貴方のお部屋に伺うという形にしていきたいと思います。あなたの休暇についても記載願いたい。今日はそれで十二分です」
「ありがとうございます」
山田が立ち上がり、後ろの棚から書類を取り出した。そして自身の机からボールペンを取ると、揃えて三浦に差し出す。
「では記入をお願いします。あくまで参考資料なので、判子などは必要ないです。これは依頼ではない、友人のよしみですからね」
「はい、わかってます。有難いです。リンさんに感謝ですね」
三浦が穏やかに笑む。ええ、と頷く山田は笑みを浮かべておらず、少しだけ肩が上下していた。