6-14)朝倉
「第九のこと、聞いたぞ」
更衣室前で待っていた割に、朝倉が口を開いたのは結局休憩室でコーヒーのプルタブを開けた時だった。静かな言葉に、日暮は右手の中にある缶を指先で叩く。
「お前が提案していた緊急時のシステムは実質通ったようなものだ。後追いになったがな、十二分練り込まれていたしとりあえず叩き台として通して、フィードバックで整える」
「そうか」
缶のラベル部分を、日暮の爪がなぞる。朝倉が日暮の背を押し、椅子に座った。倣うようにして日暮も座るのを確認して、朝倉はコーヒーを口に含む。
「不味い」
「自分で買ったんだろう」
確かに缶コーヒーは独特の味がするが、そういうものだろう。文句を言う朝倉に言い切ると、日暮もコーヒーを口に含んだ。甘い。普段はブラックなのだから当然だが、缶コーヒーでは甘みで誤魔化すくらいが丁度いいのだと日暮は考えている。
「そもそもお前は甘い方が好きだろ、なんでブラックにしてるんだ」
「缶は嫌なんだよ。飲めるメーカーがなかった」
「ならお茶にすればいいだろう」
普段飲むものと互いに反対を手の中に入れて、取り留めもない言葉を落とし合う。くるり、くるり。缶の縁で、指先が回る。
「お前いつになったら試験受ける」
ぽつり、と落ちたのは不純物だ。たとえばミルクの中に落ちたコーヒー。純粋すぎる苦みは、甘い雑談の中では不純物になる。
そうして白は、あっさり色を変えてしまう。いや、そもそも話の元はミルクではない、コーヒーだ。ならばこれは苦味から逃げた甘味を元に戻しただけのもの。
「今回の件、お前が警部だったらもう少し早く通っただろう」
するり。音も立てずに、缶を親指の腹が撫でる。日暮は首肯せず、対する朝倉は真っ直ぐと日暮を見据えている。
「とっととこっちまで来い」
「……買いかぶりすぎだ」
ぽつ、と落ちた言葉は無感動だ。ただ事実を言っただけにも聞こえる素っ気なさに、朝倉は剣呑を目つきに乗せる。
「お前の全体を見る目は十二分だ。今回のケースだって事前に憂慮していた。それが止まった理由はわかるだろう幽霊隊長」
「特例隊だ」
はっきりと返された言葉は、しかしそれだけでしかない。名称でしか答えない日暮に、朝倉は缶コーヒーの底でテーブルを鳴らした。
「特霊隊だろうが特例隊だろうが同じだ。お前たちの仕事を認めている連中はいる。知っている奴らはちゃんと認めている。けれども刑事部内ですらお前のとこは色物扱いだ。安全部と刑事部の一部が認めたって、お前たちの仕事は特殊すぎて伝えきれない。ならお前が直接伝える段階に来ているだろう」
朝倉の瞳は、怒りと言うよりも厳しさ、真っ直ぐさでもって日暮を貫いている。眼鏡の奥からその鋭い目に映る自身を見、日暮はコーヒーにもう一度口を付けた。
甘い。
「俺にはまだ早い。お前が居るからと任せているところがあるのは悪いとは思うがな。……頼りにしているんだ、ノンキャリの星」
「お前が居ればもっと動ける」
言い切る声も言葉も、ひたすら真っ直ぐだ。くるり。日暮の手の中で、缶のラベルが回る。
「ラブレターだかなんだか知らねぇが、お前が届けるんだったら届けやすいところで動くべきだろう」
ぴくり。ラベルが、止まる。
「自分で届けるのがモットーなら、もっと動けるようになれ」
「自分で届けるからこそ、これ以上は無理だ。現場から離れる訳にはいかない」
日暮は自身の手の中を見ながら、単調に言い切った。巡査部長と警部補はさほど大きな違いではない。警部補と警部が問題なのだ。現場で指揮を執るのは、基本的に警部補まで。
日暮は現場を選んできた。
「遅れても仕方ない、っつーのか」
その代償が、今回だ。日暮はじっと缶コーヒーを見る。入り口が狭い故に、中の色は見えない。甘くても甘くなくても一緒だ。真っ黒にしか見えない缶は、どう目を凝らしても変わらないだろう。
「今回の件は、確かに俺が足りなかった。この立場にいながら足りなかったんだ、買いかぶられるようなものじゃない。示すに足りなかった、それだけだ」
「なら」
「もっとやるしかない。反省は次に繋げてこそだ」
朝倉の言葉が繋がる前に、日暮は言い切った。真っ黒い瞳は無感動だが、その真っ直ぐさは朝倉と変わらない。だからこそ、朝倉は顔を歪めた。
「お前の立場じゃ十分だ。それ以上を求めるなら」
「足りなかった結果だ」
日暮の言葉に、朝倉は舌打ちをしてコーヒーを煽った。苦味と酸味、水っぽさ。それらに顔をしかめて、盛大にため息を吐く。
苛立ちに曲がった背筋を伸ばし、朝倉は視線を休憩室の外にやった。
「お前等の仕事をわかってない連中には、ガラクタ隊みたいに思われてる割によくやってるだろ。刑事オタクの小山を飼い慣らして、気障ったらしい宝塚をうまく使って。あいつらの評価を聞いてるだろ」
「能面上司によくついてきてくれている、というやつか?」
揶揄するような物言いに、日暮が返した。問うと言うには無機質で、揶揄や自嘲と言うには無感動。けれどもそれが警告じみたものだと知っている朝倉は、自身を見下ろす視線に肩を竦めた。
「小山も宝塚も潔癖じみたところがある。あの面倒な連中を使う手腕は見事だ」
「小山は調査も書類も申し分ない。それと平塚は宝塚じゃない。平塚、だ。あの正義感と自己理解は見事だ」
「なら、もう隊は奴らに任せろ」
ぴしゃり、と朝倉が言う。日暮が大仰に眉間に皺を寄せた。不満をはっきりと表現するための作った皺は他が無表情の為浮いているが、日暮の意志を伝えやすい。
だからこそ朝倉は面倒くさそうに息を吐いた。
「あいつらの評価をよくしたところで、お前が居るからだろうって思われているんだ。小山は少し潔癖じみているが警察がどうであるべきかという指針がはっきりしている。清濁併せ呑むにはまだ足りないが、あの理想論と仕事への真摯さは十二分だろう。平塚の精神面はまだ不安があるが、お花畑な松丘は体力的にも精神的にもバランスがいい。あいつらに任せて、奴らの評価は奴らの手で上げさせろ。それが潰されないようにするためにも、お前は上に来い」
朝倉の言葉に、日暮は眉間の皺をそのままにしていた。しかし言葉を返すには至らず、朝倉はじっと日暮を見る。
「わかってるんだろ、だからお前、今日はそんなんなんだ。選ばなかったツケが来た」
「……それでも、今はまだ駄目だ」
抑揚のない声が、しかめた顔から零れ落ちる。とん、と日暮の胸に拳が当たった。
「お前がどう考えようが、第九でまたお前の評価は上がった。上げざる得なかった。次を無くすためのフィードバックを考えるなら、お前はそのままでもいいんだろうさ」
「朝倉」
「次は俺がもっとうまくやってやるよ」
諦めたようなため息と笑いが一緒に吐き出され、日暮は視線を逸らした。眉間に寄った皺はそのままで、缶コーヒーを爪でひっかく。
「本当もったいない奴だなお前は」
「俺を構うお前ももったいない奴だ」
日暮の言葉に、朝倉が笑った。最後の一線、朝倉はいつもそこで結局引く。なんだかんだ文句を言う割に、日暮が動かない一線は飛び越えない。踏みつけない。
朝倉は日暮の言葉に返すことはなく、代わりに親指を日暮の眉間に押しつけ伸ばした。
「戻し忘れてるぞ能面野郎」
「どーも」
親指の圧で、日暮の眉間に作った皺はあっさり消える。表情に作ることが出来ないだけで、その内心から皺が消えたわけではないと朝倉は知っている。面倒なやつ、という言葉は内側に残したまま、しゃあねぇなあと朝倉は呟いた。
「まあ出世はお前がどうにもならなきゃどうしようもない。まだ言ってるのかアレ」
ちょうど缶コーヒーに口を付けたところだった日暮は、朝倉の言葉に瞼を開閉することで返した。ほとんど空になったコーヒーを手の中でぐるりと揺らし、朝倉が顔を歪めて笑う。
「もう終わってるだろう。どうしようもない。今更なにが変わるっていうんだ」
「……どうしようもなく、ない」
「変わんねぇな」
この件について、日暮はずっと変わらない。わかっていたことだ。朝倉は面倒くさそうにため息を吐いた。
「一家四人全滅なら、そもそももうどうにも出来ねぇだろうに相変わらずか」
「俺にとっては、まだ、だ」
これまで幾度となく繰り返された言葉に、朝倉もため息を繰り返す。日暮の部下を潔癖じみたと評したが、日暮自身の頑ななこだわりも、ある一点ではそれと似ている。
だからこそあのいびつな隊は浮いていて、しかしはっきりとした形を保っているのだ。