6-13)道場
* * *
道場に響く声は、意外とうるさくない。それは完全なる主観だと考えながらも、日暮にとっては一つの事実だった。声量は大きい。かけ声もある。しかし雑然と起こりながらも統一されたと言える音を、日暮は好んでいた。
思考が霧散するのではない。音で一つに絞られる。音も、熱も、暑さも。全てが圧縮され、手の内から竹刀に延びる。
自分の体が竹刀一つ分大きくなったような感覚。それでいて、竹刀の先端でしかないような矮小さ。矛盾するようで同一となる神経を、振るい尖らせる。
これしかない。いや、これがあるから先が増える。だから。
耳を貫くような音と衝撃。痛みではなく振動が、音が脳を揺さぶった。相も変わらず表情を変えぬまま日暮は竹刀を強く握り、下ろす。
「有り難うございました!」
一礼。邪魔にならないようにすぐに下がり、壁を背にして座る。息を吸い、止め。背筋を伸ばし、日暮は面を外した。道場内は熱気があるとはいえ、面が無くなるだけで汗と熱が多少は風に晒される心地になる。長く、長く息を吐く。
息苦しさ、閉塞感。そういったものから解放されるには惜しく、しかし圧縮されたものを緩めるのは必要なことでもあった。巡らせ、霧散させ、足りなかったものを取り込み、もう一度形にする。
思考も停滞も流動も、全て自身の内側で巡らせる時間。声が、人が、熱が有れども個でしかない時間だ。
「日暮」
外が騒がしくとも確かにあった静寂を、男の声が遮った。自身の左手側から響いた音に、日暮は首だけでそちらを向く。
聞き慣れた声には親しみとそっけなさが含まれている。声をかけられた日暮は無表情のままだが、声をかけた男の眉間にはむっつりと皺が寄っていた。しかし日暮はそれを指摘しない。声が聞き慣れたものなら、男のその表情も見慣れたものであった。
ただ、胴着を着ている姿はあまり馴染みのあるものではない。といっても見たことがないわけではないのだが、男が自主的にこの場所を選ぶ人間でないのは事実だった。面を手に持ったまま汗もかいていない男を見て、日暮は立ち上がる。
「珍しいな」
ぱかり、と口を開くと、無感動な声で日暮は男に言った。横柄に頷く男は、しかし道場の隅から動こうとしない。声をかけただけで近づく様子のない男に言葉を重ねることなく、日暮は面と竹刀を持ってそちらに歩み寄った。元々表情が変わらないのはあるものの訝しむ様子を欠片も見せない日暮に、男は当然といった態度で近づくのを待つ。
男の背丈は小山と同じかやや小さいくらいだろう。どちらかというと細身の為か、日暮が側に並ぶと少し体格差が目立つ。のっぺりとした瞳で見下ろす日暮を見上げ、男は切れ長の瞳をすっと細めた。
「お前は相変わらずだな、日暮警部補」
「何の御用ですか
男の言葉に、日暮は無表情のまま平坦に尋ねた。は、と顔をしかめて男――朝倉は笑う。片方の口角が歪むように持ち上がり、それに伴い頬が下瞼を圧し、ぴくりと歪んだ瞳は睫に陰る。笑うにはいびつだがそれでも確かに笑い捨てるような表情に、日暮は手元の竹刀を見下ろした。
こん、と金属の音が響く。視界に入った拳は、日暮の胸元を軽くノックするようにしたあとはすぐに引っ込んでいった。それを合図に、日暮が顔を上げる。
「お前に用がなけりゃこっちにゃこねぇよ」
朝倉の表情はもうすでにむっつりとしたものに戻っていた。日暮も先ほどのことを指摘せず、手の内で竹刀を一度跳ねさせる。
「一本やるか?」
「負けるだけだ、嫌だね」
「それもそうだな」
はっきりと言い切った朝倉の言葉に、日暮はかくんと頷いた。大仰と言うべきか人形と言うべきかな動作と言葉に、朝倉が拳を胴着の隙間に入れる。入れると言うより殴る、殴ると言うよりは押すような半端な所作にも日暮は表情を変えず、頭の布を外して汗を拭きだした。
隣で肺の内側を全部晒すようなため息が響く。
「なに一本取られてんだよ」
「仕方ない。相手は
まるで自分が負けたかのように不満を声に乗せる朝倉に、日暮は静かに言い切った。表情も声も日暮は変わらない。それは本来の日暮から当然と言えるが、隣の朝倉の表情がはっきりしている故にやけに目立った。
じとり、と朝倉が日暮を睨み上げる。
「あいつはごり押しパワー型。お前のが分はあるだろう、というかお前が負けるわけ無いだろう」
「お前が来る前にそれなりにやってたんだ。疲れた」
いい一撃だったという言葉は飲み込んで、日暮は淡々と答えた。抑揚はないもののそれ以上は続けさせないような言い切りに朝倉は口を噤む。
――噤んだもののどうにもなにか言いたげに口を動かした朝倉は眉間に寄った皺を親指と人差し指、中指で揉みほぐすと、言葉にする前に一度大きく息を吐いた。
「とりあえずここじゃやかましい。お前拾いに来たんだ、出るぞ。少しツラを貸せ」
やかましいと言われても日暮にとってはやかましいわけではない。むしろ好ましい場所で、その為にここに来たところもある。ただそれを言ったところで意味はないし、朝倉がしたい会話は別だろう。
こくりと頭を下げ、日暮は手に持っている面を差し出した。
「ん」
「面じゃねえよツラだツラ! そもそも面は持ってる!!」
「使わない癖にな」
叫ぶ朝倉の勢いに、日暮は肩をすくめて見せた。といっても表情も声もかわらないのでそれだけいびつに浮いているのだが、そのことを指摘されることはない。
朝倉はせっかくほぐした眉間に先ほどよりも深いしわを寄せ、口角を思いっきり左右に下げた。
「お前捕まえるのに使ったんだよっていうか本当親父くさい冗談止めろ」
「もう親父だしおっさんだろう」
「確かに俺は親父でお前はおっさんだがそういう問題じゃない。若さを見せろ若さを」
じろりと睨み上げる朝倉に、日暮はふむ、と首肯した。朝倉がもう一度ため息を吐いて前を向く少し手前で、ぱかり、と口を開く。
「きゃぴ」
「棒読みでわけわからん単語使うのも止めろ」
抑揚も何も無い低音での言葉に朝倉が面倒くさそうに言う。しかめた表情を見ながら、日暮がもう一度ふむ、と呟くと、顎に手を当てた。
「わがままだな」
どうとするわけでも無く落ちた言葉に、朝倉が顔を歪める。
「お前が相変わらずふざけた野郎だからだ。とっととシャワー浴びてこい」
「承知いたしました朝倉警部」
「やめろ」
ぎ、と睨む相手を見て日暮はこくりと頷いた。これ以上は無駄に時間がかかるだけだろう。先延ばしにしたいと思われても面倒だ。
(いや、思われている、か)
おそらく既に。その点に関しては半ば確信じみたものがあった。普段ならもっと軽口に対する言葉がきついし、それでいてもう少しそれなりに乗ってくる奴でもある。部署も階級も違うが付き合いだけは長い故に、目の前にいる至極単純な同期の思考は日暮にとってわかりやすいものがあった。
ふと、朝倉が日暮を見上げる。眉間のしわは少し減っていて、きつい目元は苛立ちと言うよりも探るためのものだ。
「どうした」
「休憩室で落ち合うか?」
疑問に疑問で返す。先ほどよりも静かな朝倉の声に、日暮の平坦な声が少し被さる。
早すぎたか。音で聞いて浮かんだ後悔は、しかし日暮の表情に乗ることはない。
朝倉の眼光が、和らいだ。それが微笑だとかそういうものでないことをわかっている日暮は、竹刀を持ち直して出口を見る。やることはもう無い。
「更衣室の外で待ってる。とっととしろ」
そっけない言葉とともに背中を押され、ああ、と日暮は淡泊に答える。朝倉はじっと日暮を見上げたが、しかしそれ以上は言わなかった。