台詞の空行

6-15)妄執

「いい加減お前、結婚したらどうだ」

 日暮の眉間に皺が寄る。先ほどと表情に差異はなくただ皺があるだけなので浮いてすら見えるが、しかしそれがめいいっぱいの不満と不信を乗せていることは経験上朝倉はよくわかっていた。

「もう三十八だろ三十八。そろそろ四十路。お前の甥っ子成人してんだろふつー焦るもんじゃねぇのか」

「別に焦る理由はないだろう。あと甥は今年で社会人になった。かわいいぞ」

 のっぺりと日暮が言い切る。本当に焦りも何も無い平坦な言葉に、朝倉は額に手を当てた。

「歳離れてるとはいえ姉の子供が社会人。なのにお前結婚もまだとか、普通とか焦るもんだろーが。今から結婚して子供作ってもそいつら二十以上違うんだぞ」

「別に結婚する気はないし、子供は授かり物だし、姉が授かったからかわいいものは見た、見てる」

「よその子供で満足するな」

「というかこの話題はセクハラです朝倉警部」

 やだーこわーいと非常にのっぺりとした棒読みで言われ、朝倉は額に当てていた指を痙攣するこめかみにやる。わかってはいるし繰り返しているのだが、それで慣れるものでもない。

「男にセクハラも何もあるか」

「男女関係なく性的嫌がらせだ。勉強会するか?」

「堅物」

「警察が正しく把握しないでどうする」

 じとり、と朝倉が睨むのを日暮がのっぺりと見返す。このあたりで日暮は譲ることがないのを知っているし日暮が正しいのもわかっているが、相手が日暮だからこそ朝倉は不満を口にした。

 これが本当に部下を相手にして日暮から注意されたならそのまま謝罪して従うのだが、今朝倉が言っている相手は日暮である。その一点でどうにも納得いかない。友人としての忠告――お節介を自覚しているが、しかし朝倉にとっては自分が言わずしてというものでもあった――をごまかしている自覚が日暮にはあるだろうに、いつもの涼しい顔で日暮はじっと朝倉の視線を受ける。

「警察は正しさの指針だ。間違えもあるから弁護士や検事もいるが、俺たちは社会の正義を見える場所に掲げなければならない。だろう?」

 平坦な言葉は事実だ。日暮は事実を言う。それは知っている。

 朝倉が盛大にため息を吐くと、そもそも、と日暮は言葉を落とした。

「お前だって再婚しろって言われたら余計なお世話だろう」

「ぐ。……娘の為だ」

「自分の理由を子供に押しつけるのはあんまりよくないと思うぞ」

「ぐぐぐ」

 歯ぎしりをして呻く朝倉に、ほらみろ、と平坦な声のまま日暮が言う。結局この話題は先ほどの試験と同じく繰り返すもので、しかしどうしても引っかかって朝倉が口にするものでもあった。

 特に試験の理由でもあるし、あんまりにもあんまりだ、というのが朝倉の感想でもあった。朝倉にとって、日暮は生きている友人だ。先を、未来をいく、並び立っても遜色のない男。だからこそ惜しい。だからこそもどかしい。だからこそ。

「いくら昔の彼女って言っても、一家全滅。親の死体が上がってるんだ、子供も両方無理だろ。いい加減諦めろ」

「……彼女じゃない、クラスメイトだ」

「わかってるっつーの。中学のクラスメイト、たかだか一年もいなかった相手。……十分お前は想い続けているけど、そこまできたら妄執だぞ」

 日暮の表情は先ほどと違い眉間の皺を作らない。どころかまるで時間が止まってしまったかのように動きすらしない。

 朝倉が缶に口を付ける。不味いコーヒーはもう残っていなく、吐き出した息と一緒に机に置いた。

「普通に考えて、子供が身を隠せるわけない。いくら特例隊がその時期なかったとはいえ警察は警察として機能しているんだ。子供一人――例え二人だったところで、どうやって身を隠す。助かっているわけ無いだろ、そもそも親の死に方だって」

「決まってない」

 遮る言葉は言葉として足りない。会話にしては朝倉の言葉に向かっておらず、日暮の内心にしてはあまりにも端的すぎた。平坦で感情の見えない声。朝倉の声にかぶる形で音量こそ少し大きくなっていたものの、それだけでしかない。表情も能面で、日暮の感情は外に出ない。

 しかし日暮は無感動で心ない男でないと、朝倉は知っている。だからこそ、もどかしい。その内心をはっきりとわからないにせよ、目の前の男が自身と並ぶ未来を選ばないことが。

 本当は別に並ばなくてもいいのだ。他の形、道でも良い。届かないラブレターなど書かなくなれば、それで。ため息にしそこなった息を、朝倉は吐き出した。

「お前が終わってなくても終わらせなければいけないことがある。いくら今の法律では公訴時効無いって言ったって、警察の方では終わった案件だろ。遺族がそれ以上を望んでいない。家族すら残っちゃいない中、一応いる親族の希望が事件を終いにしてるんだ。終いになってなかったらお前は関係者で調査もできないし、終いになってるから仕事で触れることも出来ない。どっちにしろお前は部外者にしかなれない。なのにお前ばかりそのままで……いい加減整理した方がいいだろうと思うよ、俺は。
 こんなこと言いたかないがな、どうにもならないことがあって、力が及ばなくて。それでも先に行くために、時効がありもした。ずっと追い続けるなんて無理なんだよ。それは人や労力だけでなく、心の面でも。――ある意味被害者周辺の区切りのためだ」

 こんなこと言ったのバレたら、叩かれるだろうけどな。そう言葉を続けて、朝倉は自嘲した。諭すような言葉は傷ついた被害者からしたら理不尽なものだろう。公訴時効だって、被害者の気持ちではなく冤罪を防ぐためのようなものだから最初からこの基準では成り立たない。それに、追いかけて捕まえられないことを刑事である自身も肯定したくはない。全て解決するつもりで取り組んでいるし、ふんぎれない遺族を思うからこそ殺人の控訴時効が無くなったのだろうとも分かる。故に自分の言葉が外で言えるものではないという自認は確かにある。

 それでも、それでもだ。朝倉は言い切る。もう終わっている。あの事件に至っては、区切りが付けられてしまっている。残った親族が望まないものを、終わった事件となったものを、扱うことはできない。その事実は変わらない。

 さらにいえば、警察という大きな組織が見続けたものを個人が追いかけられるものか。そして死んだ人間にどれだけ囚われても、思っても。生きているのだ、日暮は。生きて目の前にいて、慕われ、頼りにされる。それなのに日暮だけがそちらだなんて、あんまりにもあんまりだ。

 結婚でなくてもいい。恋という形でなくてもいい。ただ過去に置き去りにしたものがそれならば、と朝倉はいつもそんな言葉を重ねてしまう。

「長すぎるんだよ、日暮」

 言葉に、ようやく日暮がゆっくりと瞬いた。動いた時間を伝えるのはただそれだけ。表情の変わらない男は、見た目だけではなにもかもわからない。平然として見える。

「……中々なロマンスだろう?」

 ぱかり、と開いた口からこぼれた言葉はのっぺりとした抑揚のない言葉だ。表情が変わらない日暮と違い、朝倉の眉間に思いっきり皺が寄り、いらついたように口角が引き下がる。

「お前がそういう言葉選びするからふざけて見えんだよ!! そんなんだから他の連中がお前の動機を嘘って思うんだろーが!」

「俺はこんなに誠実なのにな」

「どの口が言うどの口が」

「ほのふひだ」

 ほほをねじるように摘む朝倉に日暮が答える。圧迫によって言葉になりきれていないが何を言っているかはわかるしそもそもその内容はどうでもいいことだ。怒りにまかせて日暮の伸びないほほをひねる下げるようにして思いっきり引っ張って手を離すと、朝倉はあーくそ、と声を上げた。

「お前の部下ですらお前の発言冗談だと思ってるだろ。信じてるの俺とごうさんくらいじゃないのか」

「あっはっは」

「笑ってごまかすなっつーの」

 笑ったと言っても相変わらず無表情の棒読みだったが、朝倉にとっては笑いだ。がりがりと頭を掻いて息を吐き、吸う。自身を抑えるように呼吸をする朝倉を眺めながら、日暮は残ったコーヒーに口を付けた。

 沈殿した甘さが広がる。本当に、甘い。

「俺の理由がなんであれ、誰にも関係ない。お前が言うように終わってはいる。たとえ俺にとっては終わっていなくとも、望まれていないのはわかってるさ。そもそもお前が言うように関係者に入る俺が出来る事ではないし、当然終わったものを仕事では調べていない。関係しそうなものは頭に入ってしまうけどな」

 日暮の言葉に朝倉は頭に添えていた手を下ろした。切れ長の瞳が静かに見据えるのを、日暮はその感情が乗らない真っ黒な瞳に映す。

「俺にとってはそれだけだ。お前にとっても」

「てめぇのそういうところ、嫌いだ」

 続かない言葉を知らない顔で朝倉が断じる。日暮の表情は変わらない。

 いつものことだ。病院の件で落ち込んでいる様子があっても、それ以上はない。仕事では調べていないという男の私生活が、甥や自身という来訪者の影以外なにもないような部屋で成り立っていることを、今指摘することもない。だから結局、朝倉は立ち上がることで仕舞いを選んだ。

「……病院の件、お前は失敗した思ってるんだろうが、目立った被害はない。それでいて兆候があるって形でお前の手柄だ。いい加減ラブレターなんて言ってごまかすのはやめて、腹くくれよ」

「お前だけだ、そんなこと言うのは」

「俺だけだから言ってんだよボケ」

 がしゃん。缶がゴミ箱の中で音を立てる。朝倉がこれで最後とでも言うように、大きく、大きく息を吐いた。

「待ってんぞ」

 言葉に、日暮は答えなかった。そもそも答えが返ると思っていないのか、朝倉は振り返りもせずに立ち去る。

 その背中を見送って、日暮は立ち上がった。先の朝倉の行動をなぞるように缶を捨て、部屋を出――振り返る。

 誰もいない。当然だ。当然すぎることに、日暮は目を伏せる。

「誤魔化してなんか」

 ぽつ。のっぺりとした声が落ちる。日暮はしかし否定を口にせず、なにも持たない右手を見下ろした。

「妄執、か」

 無表情、無感動。けれども朝倉の言葉をなぞるようにして呟いた単語に染みたなにかは確かにあって、ただ透明なそれは色にならない。

 だから結局、それは仕舞いとなった。

(第六話「けいじ」 了)

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