6-10)対話
軽くなった扉に、平塚が不思議そうに振り返った。扉を押し支えるようにしている横須賀の顔は、背が曲がっているからか平塚が見上げているからか影が多い。
元々顔色が良いわけではないがそこからさらに色を失くしたその表情に、平塚は少しだけ訝しむように顔をしかめた。
「……いえ」
短く返して、横須賀はじっと扉の先に視線を向ける。秋が寝ているだけで、何も変わらない。窓だって開いていない。先ほどから浮かぶ妄はあまりに無駄だろう。山田が居たらきっと一蹴される。下手をしたら帰れと言われるかもしれない。いけない、と思いながらも、同時に妄想だったことに小さな安堵をしている自覚もあった。
平塚が、自身の右耳裏あたりを中指でさりさりと撫でる。
「押さえてくれて有り難う」
ぽんと横須賀の左肘を軽く叩き、平塚は笑った。軽く押されるような感覚に身をすくめた横須賀だったが、釣られるように潜めた眉を下げて笑みを返す。
「すみません」
「有り難うにはどういたしまして、だよ」
ふ、と小さく漏れ笑った平塚の表情は先ほどの訝しむ色をあっさり無くしている。ころころと変わる表情はどれも真っ直ぐとしていて、横須賀は透かし見るように目を細めた。
「すみません。どうたしまし、て」
「謝らなくていいんだがなぁ」
困ったように平塚が笑う。横須賀は首後ろをとんとんと指先で叩いて、隠すように細い息を吐いた。ふ、と扉が少しだけ重くなる。
失礼しますと入った平塚の背筋は綺麗に伸びていた。横須賀も扉から手を離し、同じように挨拶をすると続いて中に入る。
「本当に眠っているんだな」
ベッドの右隣、窓際にある椅子に腰掛けながら平塚が言った。窓はカーテンが閉められていて、少し開いた隙間から見れば鍵も掛けられていた。風が鳴るはずなどないことを改めて確認して、横須賀は平塚から示された椅子に座る。
平塚の言葉通り、秋はただ眠っているだけのようだった。初めて見たときと違い、なにやらわからないチューブや機械などは多くなかった。一目見てわかるのは栄養の為だろう点滴と、カテーテル、心電図くらいなので随分減ったと言えるだろう。
「秋君、おにーさんが来たぞ」
優しい笑みを含んだ声で、平塚が寝ている秋に声を掛ける。機械にも秋自身にも変化はない。
「こんにちは、秋君」
声、という藤沢の言葉を思い出し、出来るだけひきつらないように意識しながら横須賀は秋の名を呼んだ。やはり反応はない。触って良いか悩んだものの、横須賀はそっと手を伸ばした。布団の中に隠れた手は、小さい。
「俺のことわからないと思うけど、サングラスのおじちゃんと前会いに行って、」
意識した声は、しかし最後の方になると結局細まってしまった。秋にとって望ましいことではないという思考に、横須賀は小さく
秋が知りえないことを理由に罪悪感を持ったところで秋が目を覚ますわけでもない。細く深呼吸をすると、もう一度意識して喉を開く。
「……おじちゃんが君を心配しているよ」
返事はない。じりじりとした
中腰で瞼に触れる横須賀を平塚は無言で見つめていた。手を離そうとは思うが、親指の腹はその意思と逆にほんの少し強く瞼を押す。
隙間から見えるのは黒。けれどもあのなにもかも存在しないような
ぐるりと黒がはみ出すような妄想もこちらをぎょろりと見るような妄想もすべて馬鹿馬鹿しいものだと言うように、先ほどから事実ばかりが重なる。これが当たり前なのだ。横須賀は息を吐いて、ようやっと瞼から手を離した。
「山田が心配しているのか」
椅子に座り直した横須賀に、ぽつりとした呟きが落ちる。平塚を見れば秋の顔を見つめている。横須賀を見ないままの言葉に、横須賀はその端正な横顔をじっと見つめた。
首肯はしない、が、否定とは違う。
「山田さんは、刑事さんたちに任せればいい、と、言っています」
「ああ、それは聞いているが」
むいと平塚は自身の唇を食むようにしてから口角をぎゅっと左右に引いた。小さくはくりと動く様子は、声に出すか出すまいかという逡巡を見せる。長い睫が一度二秒ほど閉じられ、は、とため息が漏れた。
「なんだろうな。私は君を勝手に思い込んでいるところがあるようだが、それを自覚し考え直してもやはり君が嘘を吐くようには見えない。気休めもあまりうまく言えないように見える」
平塚の言葉に横須賀は瞬く。決して褒めていないだろう声の調子は、しかし責めるようなものでもない。少しの緩慢としたどうしようもならない単なる事実を告げるような音を溜息と一緒に吐き出した平塚が、横須賀を見上げた。
「山田が赤月秋を心配している、と君は思っているんだろう」
横須賀が平塚の瞳を見下ろす。色素がほんの少しだけ薄い瞳が睫の影に隠れ、睫が持ち上がったころには逸らされていた。
「私にはそれがわからない。そのことについては山田太郎だけでなく君も不可思議に思う」
ぎ、がた。静かではあるが病室の中では少し響きすぎた椅子の音に、びくりと平塚が肩を揺らす。その様子を見て首後ろに置きかけた横須賀の右手は、しかしゆるい拳を作りながら左手と一緒に膝の上で握り直された。
平塚の少し歯切れの悪い言葉は、指示語が多くて横須賀では意図を読み切れない。けれども言葉を返さずに終わるのも違うように思えた。
山田が秋を心配しているという言葉にどう答えるのが正解かわからないまま、横須賀は口を開いた。
「秋くんが無事か確認したのは、山田さんです。……依頼人はもういなくても、山田さんは秋くんを気に掛けていました」
言いながら、あの晩を繰り返す。繰り返して繰り返して後悔ばかりで、この感情をどうすればいいのか横須賀には理解しきれない。後悔したところでなにか出来る訳でもなく、使われることだけで、それすらまともに叶わなくて。
それでも繰り返して、喉奥に引っかかったことがあった。形になりきらないそれが、ごり、ごり、と喉仏を内側から揺らす。
「調査の事とか、調べてる人とか、起こってしまうこととか。そういうことを考えて、必要で保護だとしても、でも」
考えるなと山田は言う。横須賀も横須賀自身が考えたところでなにもならないと知っている。
それでも繰り返されるのは、秋を抱きしめた山田の姿だ。秋の体を確認した山田の姿だ。もっというなれば、一番最初。病院で秋に声をかけた姿だ。
横須賀はあんなにやさしく名前を呼ばれることが当たり前だなんて思えない。作ったものだと言われても、横須賀にとっては渇望したような有り得ないような、それこそ嘘みたいな、それでも嘘でなくそこにあった柔らかい声で。
「……心を配っていた、って、思う、のは。おかしい、でしょうか」
つっかえながらも答えを求めるように、横須賀はまっすぐ平塚を見つめていた。茶化すことも訝しむこともなく、平塚はその目を見る。
ややあって、うん、と平塚はゆっくりと首肯した。
「うん、そう考えるのは、私もわかるよ」
平塚の言葉に、横須賀の瞳がゆっくりと見開かれる。驚きによる大げささというよりは穏やかで、しかしそのままというには確かに動いたその瞳は光を取り込む猫の目のようだった。
情報をめいいっぱい得ようとする貪欲さがたかだか自身の言葉を肯定されただけで見えたことに、平塚は眉を下げて笑う。
もっと自信を持てばいいのに、という言葉は声にならず、その笑う息に隠れた。平塚の両手が指先同士だけで重なる。
「わかるよ。共感は出来ないけれど、君の考えを君の思う以上に理解はできないけれど、でも、だからこそわかるし、それは大事にしていいことだとも思う」
はふり、と平塚が肩を下げる。うん、ともう一度続いた穏やかな同意は、横須賀に向けられているというよりも平塚の膝の上に落ちるような音だった。