台詞の空行

6-9)扉

 穏やかに答えた平塚は、しかしややあって少し悪戯っぽく笑った。首を傾げて片目を細める様は、なんとなくリンを思い浮かべる。悪戯、というよりは剽軽と言うべきか、愛嬌と言うべきか。作った形に嫌みは無く、その整った顔に見合っていた。

「特にこういった場所で見つかるご縁は中々無い。非常に光栄ですよ」

 改まった様子で大仰に言う平塚に、藤沢はくすくすと笑みを零した。穏やかな歓談を聞きながら、横須賀はすんと鼻を鳴らす。消毒液の匂いが香る。病院だから当然なんだろうが、つい、なんだか体が身構える。

 落ち着かない心地をそのまま視線に乗せ、横須賀はあたりを見た。見渡すほどものがあるわけでもないが、病棟と言うにはどうにも人影が無さすぎるようだった、やはり同じ症状でまとまっているかなにかが理由なのだろうか。このフロアは静かな方だと平塚は言っていた。だとすれば他のフロアはもう少し人の気配がするだろうし――そこまで考えたところで、藤沢が足を止め振り返った。

「横須賀さんは赤月さんのことご存じなんですよね」

「え?」

 とっさに反応しきれず、きょとりと瞬いて横須賀は間抜けな声を返した。それを揶揄することも責めることもなく、藤沢は微笑む。

「赤月さんのこと、知ってらっしゃったと伺っていたので」

「え、あ、はい。……知っている、ってほどじゃない、ですけど」

 頷いて、しかしすぐに横須賀はしゅるしゅると背を丸めた。小さく呟きながら首に手をおいて指の腹で押す所作に、藤沢は眉尻を下げた。

「お知り合いがいらっしゃるのは良いことだと思います。声をかけてあげてください」

「でも」

 ぐるり、と浮かぶのは赤月の最期だ。秋の母親が手を伸ばしたとき、横須賀はなにもできなかった。水筒と一緒に落ちたあの手を、ろくに掴むことすら出来なかったのだ。

 浮かぶ後悔をどう言葉にしていいのか、そもそも言葉にしてしまっていいのかもわからないまま横須賀は落ちた水筒を追うように視線を下げる。

「声って、人によってだいぶ違いますよね」

 横須賀の躊躇いをそのままにして、藤沢が穏やかに言った。言葉にゆるりと顔を上げれば、相変わらずの糸目が笑みを作っている。

「高い声が聞き取りやすい人もいれば、低い声が聞き取りやすい人もいるんです。いろんな声があるってことは、それだけで魅力的ですね」

 同意を求めるような、常識を語るような調子は藤沢の落ち着いた声に合っているようだった。平塚の舞台役者のようなよく通る声や、山田のすごむ声とも違う。かといって山田が秋相手に作った優しい柔らかい声とも違っている。

 高くて、ゆっくりで、するりと頭に通る声。言い聞かせるほどの強さが無く、ともすれば抜け落ちてしまいそうなそれでいてそのまま残る声の藤沢は、特別などなにもないというように笑っている。

「横須賀さんは声が低いですし、丁度良いですよ」

「そうで、しょう、か」

 確かに女性よりは随分低い声だろう。ただ横須賀はその長身に見合った低い声を持つものの、どうにも戸惑ったり考えたりすると声がうまく出なくなりやすいところがある。そうしてほそまった声は低いとも高いとも違う奇妙なもので、それに意味があるかはわからなかった。

 それでも当たり前のように藤沢が頷くので、横須賀は首のあたりを押し撫でた。

「刺激って数でもありますしね。誰、でなくても、その機会だけで十二分なんですよ」

 居てくれるだけで。そう続けた藤沢に横須賀は眉を下げた。なんだがとても優しすぎて、どう答えればいいかわからなくなる。

 困惑する横須賀に藤沢も同じように眉を下げ口を開こうとし――しかしふと足を止めた。その視線が右手の扉に向く。扉の横には赤月の文字があり、消毒液の匂いはやはりしていた。

「誰かアルコール零したっていうのは聞いていないのだけれど」

 ぽつり、と藤沢が呟いた。首を傾げる様子につられて首をひねると、ああ、と微苦笑が返る。

「すみません。こちらが赤月秋さんのお部屋です」

 示されたのはシンプルな扉だ。首においていた手を鞄の紐に置き直し、横須賀は藤沢に頷いた。

 改めてここまでを振り返ると、看護室前と違い確かにこちらのほうはさほどカメラが無いと言えるだろう。ここに来るまでに必ずカメラの前を歩くことはあったものの、それでも施設利用者の活動域にはあまり目立つような形では存在しない。平塚が言ったように静かなフロアで、入ることに警戒はされているががんじがらめというほどでもないようだった。

 藤沢が控えめにノックを二回する。目覚めていないのだから当然だろうが返事はなく、そのまま扉は押し開けられた。ゆっくりと開く隙間に、あの目がこちらを見るような妄が浮かび掛け横須賀は眉と目を一緒にしかめ細める。

 ぎ、と扉が開いた。

「失礼します」

 藤沢が静かに言い、中に入る。当然少女がいることもあの異常があることもなく、横須賀は息を吐いた。その呼気の多さで、顔をしかめた時無意識に息を止めていたのだと悟る。

 これだけ管理されているのに浮かんだ妄は、馬鹿みたいなものかもしれない。少し情けなく眉を下げた横須賀は、平塚が扉の前で背筋を伸ばしたまま右手で左腕を掴んでいるのを見ておずおずとのぞき込んだ。

「あの」

 声をかけたが返事はない。藤沢は先に入って秋の容態を確認しているようだった。二人を見比べ、その視界に入るように身を屈める。

「平塚けい」

「っ!?」

 びく、と盛大に平塚の体が痙攣して、横須賀も同じように体を強ばらせた。屈んだ奇妙な姿勢で固まる横須賀とびくりと痙攣したまま身を引いた平塚の視線が合う。

「あ、」

 ぶわわ、と平塚の顔に熱が昇った。真っ赤に色づいた頬、見開かれた瞳、戦慄く唇。わかりやすい動揺に、横須賀は少し下がった。

「すみま」

「いや別に緊張しているわけではなく、これはあれだ、あれ、しゅ、集中していたんだ」

 横須賀の謝罪をかき消すようにあわあわと平塚が声を上げる。その様子に横須賀も落ち着かない様子で視線をさまよわせたが、集中という言葉にああ、と頷いた。心当たりがあるような声に、平塚が横須賀を見上げる。

「他の扉でもしてました、よね。刑事さんは凄いですね」

 確かに来る途中、扉の前で何度か平塚は止まっていた。それが集中なのだろうと納得して頷いたのだが、横須賀の言葉に平塚はひくり、と笑いにならない笑いを口元に浮かべる。

「いやうん、うん……ああーこれはグレさんを言えないなというかなんというかすまない」

「へ?」

 きょとり、と横須賀が瞬く。いやうんなんでもないんだ、と平塚が零すのと藤沢がええと、と声を掛けたのがほぼ同時だった。

「あ、すみません藤沢さん」

「いえ。秋君目を覚ましてませんが、声をかけてあげてください。先に約束されていたように三十分で大丈夫ですか?」

「はい、有り難うございます」

 右耳後ろに流した髪を撫で、平塚が笑う。藤沢はそれを追求せず、にこりと笑い返した。

「では、何かありましたら呼んでください。看護室に居ますので」

 頭を下げて藤沢が部屋から出る。閉じた扉は静かだ。藤沢を見送ると、平塚が扉に手を置いた。

 細くて長い指が、ぐ、と扉を押す。

「君が見て少しでも心労を軽くするといいんだが」

 横須賀を見上げながら、平塚が穏やかに言う。その微苦笑を見ながら横須賀は申し訳なさそうに頷きかけ――ばくり、と、風が飲み込む音が響いた気がして、横須賀は腕を伸ばした。

「? どうした」