6-8)藤沢
ガラス戸が開き、女性がにこりと笑んだ。看護室とあるが着ているのは看護服ではなく私服に白衣。薄手のやわらかそうな生地のシャツは淡いクリーム色で、焦げ茶色の髪と細い瞳が相まって随分穏やかな人柄を思わせる。
お待ちくださいの言葉の後一度ガラスが閉まった。そうして隣の扉から先ほどの女性が出てくる。身長は一六〇くらいだろうか。叶子より少し大きいように思えた。
「あなたが平塚茜さんですね」
「はい」
「私はフジサワです。よろしくお願いします」
フジサワが手を平塚に差し出す。ぱちりと瞬いた平塚が、ああ、と呟くと一度自身のズボンに手のひらを押しつけるようにした。それからきちりと伸ばした手で、フジサワの手を握る。フジサワは平塚の手首を包むようにして、両手で握り返した。
「よろしくお願いします」
「はい、お願いします。平塚さんの手首にこちらのバンドを付けさせていただきますね」
じっと平塚を見つめながら、フジサワは穏やかに笑んで言った。ああ、と平塚が頷くと、薄手のバンドを手首にくくる。右手だけを使ってのゆっくりとした所作ではあったが、十秒ほどでそれは終わった。
「有り難うございます」
フジサワが平塚に頭を下げる。それから今度は横須賀に向き直った。
「あなたが横須賀一さんですね」
「は、い」
「フジサワです。よろしくお願いします」
笑んだフジサワに手を差し出され、あ、と短くこぼした横須賀は一瞬視線をさまよわせたが、微笑んだままのフジサワに頭を下げた。それからシャツで手を拭くようにして、おずおずと手を差し出す。
握り返すにも足りないようなその手を、フジサワはするりと両手で手首ごと握った。
「よろしくおねがい、します」
「はい、お願いします。では横須賀さんの手首にも同じバンドを付けさせてもらいます」
「あ、はい、えと」
「どうかしましたか?」
頷いたものの言葉を探す横須賀に、フジサワが柔らかく問いかけた。睫に隠れた瞳はよく見えないが、優しさを形にしたような表情に横須賀は眉を下げる。
「その、自分でつけま、すか」
「ああいえ、こちらでつけることになっているんです。お気遣い有り難うございます。少し待ってくださいね」
「あ、すみません」
フジサワの言葉に申し訳なさそうに体を縮めた横須賀に、いーえ、とフジサワは穏やかに答えながら横須賀の手を優しく撫でた。
「では、失礼しますね」
フジサワの左手が手首に触れたまま、バンドがゆるりと巻かれる。落ち着かない心地で横須賀はフジサワを見下ろした。
髪は肩にかかるくらいだろうか。外に跳ねているので肩についてはいないが、平塚のように短い訳ではない。前髪は短くて、穏やかな眉がわかりやすい。睫は長いが下向きのようで、だからよけい目の色が見えづらいのかもしれない。
白衣の左胸に付けられた名札には、ふじさわと平仮名で文字が書かれているので漢字はわからない。ポケットには三色ボールペン。ガラス向こうの時わからなかった下部分は濃茶のスラックスで動きやすそうな柔らかめの生地、足下は真っ白い運動靴。イメージする看護師ではないので、医者だろうか。そんなことを考えている間に、バンドが巻き終わる。
「有り難うございます」
「あ、りがとうございます」
先ほどと同じようにフジサワは頭を下げ、二人を見上げた。じ、と平塚を見ているように見えたが、それを確認する前に逸らされる。
「ではご案内しますね。少し奥になりますので付いてきてください」
「お願いします」
フジサワが先を行く歩幅は大きすぎず小さすぎず、平塚が横に並んでも歩く速度を変えない。ちら、と振り返る平塚に横須賀は浅く頭を下げた。特に意味があるのではなく反射だったが、平塚は首肯で返すとフジサワに視線を向ける。
「赤月君の調子はどうですか」
「書類でお伝えしたのとさほど代わりはありません。検査によって異常は発見されていませんが、目が覚めないままなので」
「そうですか」
ふむ、と平塚が頷く。しかし聞いていた横須賀は、困惑したように眉をしかめた。
「発見されて、ない……?」
独り言にも満たないような呟きの音に、フジサワが振り返る。
「はい。異常はありません。目覚めない、が異常でしょうか」
「でも、その、目の中」
山田が瞼をめくった時の黒を、横須賀は忘れられない。あのなにもかも存在しない、黒と言うよりは無に近い黒。眼球に埋まったというよりそこからすべて失ってしまった、大きな穴の中で跳ねたそれを異常と言わずして何を異常というのか。まるで
医者の言葉だというのに横須賀は首肯できず、鞄の紐を握りしめた。
横須賀の様子に気づいたのだろうか。フジサワは歩みを止め、少し黙した。
「……確かにきた当初、異常はありました」
ややあって呟いたフジサワは少し俯いていた。暗いというより考えるような表情をのぞき込む前に、顔が持ち上がる。
平塚と同じか、それ以上だろうか。やけにまっすぐ見る人だ。睫で瞳がわかりづらい為圧迫感はないが、まるでそれが当たり前のような顔で、話し相手を見つめる人。
「ですが現在はありません。その傾向もなくて、目が覚めて落ち着けば彼はもう少し別の病院に移動できると思うんですが。脳の異常も、ほとんど良くなっていますし」
はくり、と横須賀は唇を動かした。平塚から赤月秋は無事であると聞いていたが、詳細は聞いていない。
目が覚めないこと、脳の病気については緊急と言えるものはなくなっていること、新山病院でのカルテがほとんど意味を成していないこと。聞いた話はそれくらいだろうか。だから、色々なことが追いつかない。
「彼の元々持っていた病気についてそれらしい症状はありません。目が覚めないと色々と確認が難しいですが、彼の脳の病気は不思議なことにほとんどよくなっていて……こちらが治療を行っているわけでもないのに、日を追うごとに病気の影が無くなっていくんです。だから病気も異常もない。言うなれば目覚めないことに加えて病気が治っていくことが異常でしょうか」
静かにフジサワが言葉を重ねる。つらつらと並んだ言葉は平塚の芝居がかった調子とも、山田の教師が答えを教えるような羅列とも違う。横須賀が聞いていることを確認するように、それでいて時間をかけすぎることがないような不思議な案配の声に、横須賀は鞄の紐をさらに強く握りしめた。
病気が治る異常についても、横須賀はひとつ心当たりがある。痒みと吐き気に腕を切り落としたくなる衝動を、横須賀は知っている。それでいてなぜ腕を切り落とすなどと言う恐ろしい妄想をしたのか実感でもって思い出すことが出来ないような奇妙な異常を。あれを薬と言っていいのかわからない。それでも色薬なのだから、薬だ。そしてきっとそれは、医者がわかるものとは別の道具に思えた。
ただひとつ、もし色薬が原因としても少し奇妙なことがある。いや、瞼の中の黒も同じく奇妙なのでふたつか。どちらも横須賀が見て、だからこその違和感だった。
「すみません、足が止まってしまいましたね。行きましょう」
フジサワが歩き出して、また同じように平塚が並び、横須賀が後ろを歩く。ねじれた鞄の紐を直すように撫でながら、ぐずり、と横須賀は思考するには足りない、それでいて無視するには見てきてしまったものを思う。
横須賀の後悔であり罪悪の形のひとつ、直臣の最後はあのなにものかに食べられる、いや無理矢理あの異常を口にねじ込まれるような、肉塊となった直臣に黒がめり込んでいくものだった。そして直臣が溶け溢れれるようにして黄色の薬が出来た。脳の薬が無いからこそ赤月は息子の為に新山に協力した。そして薬を作るために必要なものは――
「それにしても偶然ですね」
穏やかな声が思考を遮る。平塚と横須賀をまとめて見るようにして、フジサワがくるりと振り返り笑んだ。平塚が少しだけ無防備な顔で瞬く。
「偶然?」
「平塚さん、横須賀さんといったら地名ですよね? 私も同じ地名だなあと思って。ご縁でしょうか」
くすくすとフジサワが笑う。地名、と聞いてもとっさに出てこない。ただそうなのかと言葉をそのまま受け取って、横須賀はとりあえず笑った。
「ああ、フジサワさんは藤沢と同じ文字なんですね。それなら確かに偶然だ」
ふ、と平塚が目を細め笑う。
「ちょっとだけ珍しいなと思いまして。勝手にすみません」
「いや、縁があるのは良いことです」