第六話 けいじ
6-1)九月十四日
足下の落ち葉を、蟻が運んでいる。踏まないように一歩大きく足を動かし跨いで、横須賀は息を吐いた。
九月半ばとはいえ暑さはまだ残っているが、日が沈むのは早くなっている。運ばれてくる夜の音。昨日降った雨はもう名残なく、先の蟻が運んだ葉っぱも乾いていた。
雨が降る度、秋らしくなるという。その割にはまだ暑さは夏の名残で、日が落ちてようやく落ち着くくらいだ。
あと何度雨が降れば秋なのだろうか。暦上でないそういった感覚に、横須賀は疎い。
山田の包帯はだいぶ早い段階で外されてしまった。怪我が浅いからということと、山田自身が包帯を好まない故に確か二日ほどで外れたはずである。首の跡はとっくに消えたものの、浅い傷だったにも関わらず傷跡は包帯を外すペースと違って未だに少し残っている。
傷が目に入る度に胸が騒ぐ。そのざらついたものが表情に出るのか、山田は眉をしかめて横須賀のわき腹に拳を入れる。それも傷跡の残る右手で。
痛みはあまりないがそちらの手は流石に心配になってしまう。せめて左手でと言ったら、わざとやってるんだよボケと言われた。そう言い切られたらなにも言えず、なんとか表情に出ないようにと画策しては痛くない拳を受けるのを繰り返している。もう傷はふさがっているし痕だけだから痛みはないらしいが、どうにかこの連鎖を避けたいものと思いつつ結局ままならないのが現状だ。
赤月秋は現在警察病院で保護されているらしい。リンからの情報として聞いた数野市立第九病院は山田が依頼を受けるような事件の関係者が収容されるようで、連中に任せておけ、と山田から言われている。
秋はまだ目を覚まさないようだが、下手に個人病院にいるよりかは安心だし目が覚めた後の秋のこれからについても手厚いだろう、とのことだった。山田は刑事を利用しているだけだと言うが、話を聞いていると信頼しているのではないか、と横須賀は思う。山田の意見を否定するつもりはないので、思うだけで黙っているが。
横須賀は結局なにも出来なかった。口には出さないが、強く実感していた。ある意味では当然だとすら思いながら、その言葉がぐるりと内側を巡っている。
自分に何か出来たことなど無い、と横須賀は実感でもって理解している。横須賀は愚鈍だし、なんの能力も持たない。使ってもらうことでようやく人と関われる事実に感謝してきただけだ。だから、何も出来なかったなんて今更だ。使われなければ無理だ。そして山田の言った叶子の保護すら出来ない、役立たずだったのだからなにもかも当たり前だとすら思う。
叶子の姿はあの事件以降見ていない。日にちがまださほど経っていないのだから見つからないと決めるのは早計だろうが、しかし横須賀は何となく当然にも思えた。
事件が起きたのは八月二十九日で、今日は九月十四日。まだ半月と言えば半月。そう簡単に見つかるものでもないのだからその判断は早すぎるようでもあるが――ただ見つけたとしても、結局自分はどうするのか。自分の内心が、横須賀はわからない心地でもあった。
保護しろと言われていた当初から、今は変わってしまっている。山田はあの後、関わるなと明言した。叶子も横須賀を見かけたところでなにをするのか、なにか言うのか。横須賀にはわからない。だからこそ見つかると思えないのもある。
そんなわからない中でわかることはふたつある。叶子が横須賀の手を求めていないことと、横須賀はなにも持たないこと、だ。
変わらない。どう考えたところで変わるわけがない。だって横須賀は、足りていないことを理解し、諦め、愚鈍を選んできたのだから。
足下で、葉が潰れた音が鳴る。横須賀はぼんやりと顔を上げた。いつも通り過ぎるだけのコンビニエンスストア。足がそちらに動く。
あの日からずっと、考えていることがある。
「らっしゃーませー」
間延びした店員の声が響く。顔を上げれば短く刈り上げた髪の若い青年がレジ裏の煙草を補充していた。ちかちかとするフィルムの色は、横須賀にとってなじみがないものだ。何がどう違うのかわからない。山田が何を吸っているのかさえ、横須賀は知らない。目が良いと山田に言ってもらえていても、所詮提示されない情報を横須賀は知り得ないのだ。
煙草を交渉道具と山田は言う。依存物を利用すると言い切る。うまく使えば役に立つが、それを横須賀には求めないとも。
山田はいつも断言する。選ぶ。相応しいことを、出来ることを見極める。横須賀は使ってもらっているが、しかしそれだけだ。白、赤、緑、青、黒。色とりどりの煙草を選ぶことすら、横須賀には出来ない。選ぼうとしてこなかったし選ぶ必要など無いのだが、横須賀は小さく息を吐いた。
「どうかしたんスか」
ぼんやりとした頭の中で、ゆっくりと声が文字に変換された。文字となってようやく認識した横須賀は、ゆるりと顔を上げる。そして店員が横須賀を見上げていることに気付くと、びくりと肩を揺らした。
「え、あ」
「なんか探してるんスか」
店員が言葉を重ねる。はくはくと鈍い頭を動かす為に酸素を取り込む横須賀をみる瞳は、見据えると言うよりぼんやりと映す程度のものだった。横須賀のような三白眼ではないがはっきりと見開かれた瞳でもなく、最近で見かけた人物から探せばどちらかというと小山刑事に似ているような少し半眼にも似た瞳。
小山ほど小さくはないがそれでも特徴のなさが特徴とも言えるような瞳は、責めるわけでもなく優しく見守るものでもなかった。その単調さに救われるように、横須賀はなんとか息を吐き出して整える。
「すみませ、ん。見てただけ、で」
「あ、邪魔したか。サーセン」
軽い口調で店員が謝罪を口にする。頭を下げないままの声はまっすぐと横須賀に届いて、受けた横須賀が頭を下げる。
「いえ、俺も、お邪魔してすみません、でした」
「別に俺は邪魔じゃねーっスよ。客アンタ以外いねーし。用あったら声かけてください」
言葉に、横須賀は一度はくりと唇を開閉させた。けれどそれ以上はなにもせず、視線を逸らす。そのままレジから離れるように動くと、パンのコーナーに差し掛かった。
夕食を買っていくのもいいかもしれない。パンから目をそらして、横須賀は弁当のコーナーに目を向けた。食べたいものがある訳ではないので、値段と量から適当に選ぶ。だからいつも食べるものは同じようなものだった。
ただ今日は、それにプラスしてガムを選んだ。飴は買ったことがある。けれども、実のところガムは買った覚えがない。それだけでなんとなく落ち着かなくなって、横須賀は目を伏せた。
弁当とガムをレジの机に置けば、先ほどの店員が気付いて近づいてきた。レジの前にある百円ライターを、横須賀は弁当の影に置いた。
「十四番、ください」
「ん? ああ煙草っスか。了解です。一個?」
「はい」
店員が慣れた様子で煙草を取り出す。喉の下あたりが落ち着かず拍動して、横須賀は首を竦めた。なにも悪いことはしていないはずなのに、どうしてもそわそわしてしまう。
「弁当は温めますか」
「あ、お願いします」
「袋どうします? ガムと煙草」
レンジに弁当を入れると、温めた用の袋をとりだした店員が尋ねた。横須賀は少し瞬き、それから一拍遅れて「大丈夫です」と続ける。
「あったかいのと一緒に入れちゃっていい感じです? 持って行きます?」
「あ、すみません。えっと、一緒で大丈夫です、入れてください」
「リョーカイです。千百五十六円っす」
会話をしながらバーコードで金額を読みとった店員に、横須賀はあわてて財布を開いた。
画面の指示を確認して千二百六円を投入し、返ってきたお釣りをレシートと一緒にしまったところでレンジから音が響いた。
「あ、箸どうします?」
「くだ、さい」
レンジから弁当を取り出した店員が、袋に弁当を置く。そうして上に乗せられた箸とガム、煙草、百円ライターを見て、横須賀はなんとなく落ち着かない心地で鞄のひもを握り直してしまう。
「お待たせしました」
「ありがとうございま、す?」
受け取ろうとして、その手が離れないことに横須賀が首を傾げる。店員が横須賀を見上げた。
「煙草吸うんスね」
店員からしたら世間話程度だろう。しかしその言葉にぎくりと体を揺らした横須賀は、手に持った袋の紐をぐるりと捻った。
「す……こし、だけ」
すみませんと言い掛けた言葉をかろうじて飲み込んで、横須賀が答える。そうっスか、と答える店員はさほど興味がないようで、横須賀はほんの少しだけ安堵したように息を吐いた。