台詞の空行

X-2)のばしぼう

「横須賀、ってそういや親戚にいなかったっけ」

 テレビの旅番組から聞こえた地名に、ふとうらは呟いた。ため息を落としていた三浦の母が、びくりと驚いたように顔を上げる。

「あら、アンタ覚えてたの」

「幼稚園くらい? の時に名前聞いて、地名だーって思ったの覚えてる」

「三浦も地名でしょ」

「俺の中では名字だったんだよ」

 笑う母親に三浦がむっとした様子で答える。母親はふふふと笑い、それからまたため息をついた。

 テレビでは、リポーターが楽しそうに笑っている。

「けどそれきり聞いてない気がして、勘違いかなんかだと思ってたけどやっぱ居たのか」

「あー、うん、そうねえ」

 どことなく歯切れの悪い声に、部屋を通りかかっただけの三浦は座布団に座った。母親はもう賑やかなテレビを見ていない。

 あぐらをかいてじっと見据えてくる息子の視線が居心地悪いのか動いた目は、ふと、棚のアルバムの背表紙で止まった。

「葬式とかでも見ないよな。なんかあったの?」

「ううん、子供に聞かせる話じゃないのよねえ」

「俺はもう二十七だぞ」

 躊躇う母親に三浦はあきれたように言った。今更子供もなにもないだろう、と言う三浦を、母親は先ほどとは違う色のため息でもって見返した。

「親にとってはいつまでも子供なのよ。そう言うなら嫁でもなんでもいいから連れてきなさい」

「ぐっ」

 三浦が呻く。まったくアンタはいつまでも一人で好き勝手して、などと続きだした言葉は経験上非常に面倒くさい。帰省するたび言われるようなことがないのでまだましだろうが、聞いてもどうにも出来ないことなので最後まで聞く気はなかった。

 そういう縁は、もう自分には随分遠い。

「そんなことより! マジで何でだよ。気になる」

 ごまかすように上がった声に、母親は悩むように頬に手をあてた。またあんたはごまかして、の一言がないので本当に言いづらいのだろう。三浦は好奇心と不可思議さで母親の顔を見、待った。

 ふう、とまたため息をついてから、母親はううんと背筋をそらし、もう一度ため息を吐いた。そうしてからようやく三浦を見返す。

「ええと、まずアンタが聞いた横須賀は本当なんだけど、嫁ぎ先、なのよね。サチちゃんが嫁いだ先。県外だしこっちに来なくてもまあ普通、よ」

「香典帳データ化した時もなかったな」

「あんたは本当無駄に覚えがいいわよね……誰に似たのかしら」

「手間かけた分は覚えるだろ普通」

 ううん、と母親がもう一度唸る。ええと、ううんと、などと言いながらよく手や視線を動かすのが三浦の母親の癖ではあるが、思い出せないのではなく言葉を選んでいるからだ、と判断して三浦は言葉を待った。

「サチちゃん、ね。サチちゃんの親はもう親戚集まりにでないんじゃないかしら。だからサチちゃん自身も来ないと言うか……」

「なんかあったのか」

「やなことが、ちょっとね」

 それが言いづらいことなのだろう。母親は顔をぎゅっと歪めた後、誰にも言っちゃだめよ、とささやいた。

「頼りにならないとは言え一応長男だしまあアンタが聞いたから言うけど。サチちゃんのご両親離婚しちゃってさ」

「? 珍しくねーだろそれくらい」

 昔と違い、そこまで離婚が珍しいような状況ではない。現に親戚連中でも、そういう話を聞く。たとえば父親がこちらの親戚で母親が縁のなくなったものというのなら確かにだが、言葉選びからそうではないと推察して三浦は首を傾げた。案の定、母親は癖になったかのようなため息でもって言葉を続ける。

「それだけならよかったんだけど。ええと、離婚の原因ね。あんまり言いづらいんだけど」

「おう」

「サチちゃんのおとうさんがね、……その、サチちゃんを、えーっと……サチちゃんに、子供、つくっちゃって」

「は!?」

 三浦がずるりと座布団と一緒に引く。体ごと分かり易い反応の息子に母親は少し苦笑った。

 苦笑ったが、しかし笑いにはならない。

「サチちゃんも言い出せなかったみたいね。おとうさん、ずいぶん大きな大きな人だったから余計怖かったんだと思う。家出して、それで堕ろすに堕ろせなくて……サチちゃんのお母さんがサチちゃんを見つけた時、もうずいぶんおなかが大きくて、というか」

 母親はそこで言葉を切る。さまよっていた手が机に落ち、右手が左手を祈るように掴んだ。

 男であり、子供がいない――というより意識することすらほとんどない三浦には恐らく想像できないような感情が、そこにある。

「サチちゃんのお母さんがサチちゃんを見つけた時サチちゃんは家にいて――水風呂で震えていたらしいわ」

「水風呂」

「母体も危ない状況、だったけど、運が良かったみたいで。母子ともになんとか無事だったらしいわ。アンタだったら死んでたわね」

「笑えないブラックジョーク無理に挟まなくていいっつーの」

 想像できない世界だ。しかし、サチちゃんと言っている母親はおそらくその女性を知っている。そして、子を産む苦労は言わずもがなだ。

 三浦には水風呂に入って死にそうになりながらも堕ろそうとする感情も、親に相談できずに家を出る感情もわからない。わからないからこそ、恐ろしく悲しいことだと、思う。

「まあそういうわけで、サチちゃんのご両親は離婚。サチちゃんは、サチちゃんの事ずーっと好きだった人がいて、それが横須賀さん。子供いてもいいって言ってくれたから嫁いだらしいわ。サチちゃんのお母さんは……ほら、そういうことあると結構周りの目、辛いでしょう? 心労もあってもう親戚集まりには顔出さないし、サチちゃんも嫁ぎ先から戻ることはないみたい」

「なんつーか……そういう話、あるんだなホントに」

 はああ、と三浦は息を吐く。なんだか随分もやもやとする話だ。だから話したくなかったのよ、と笑えないのに笑う母親に、三浦は頭を掻いた。

「変な噂も出るくらいだし、そんな思いするくらいなら戻らなくて正解だと思うけれどね私は」

「変な噂?」

 はあ、とそれでおしまいのように母親は息を吐いて机の上のせんべいをあけようとする。中々開かないそれを手を出して受け取ろうとし、しかしムキになって開けたのでパンと大きな音が響いた。三浦が笑い、しかし開けた母親は得意げだ。

 パリ、とせんべいを割る音が響く。

「まあ子供っていっても相手がアレでしょ? 堕ろせなかったけど書類出すのが嫌でえーっとなんていうんだっけ。伸ばし棒。なにも書いてないって記号で出した、だとか、子供育てはしているけど全然面倒見てないとかそういう心無い噂があったのよ」

「のばしぼう」

 同じようにせんべいに手を伸ばした三浦は、しかしせんべいを開けずに呟く。母親はもごもごと口を動かしながら、ひどく不愉快だという眉間にしわを寄せていた。

「連絡なんてとれてない、ほとんど親戚から絶縁状態なのにわかるわけない適当なコト言うの、おかーさん本当嫌いよ。しかも記号とか申請通るわけないじゃない。それに旦那さんだって奥さんの事愛しているから奥さんが大事な子なら傷つけないって言うような人だったし、サチちゃんだって半分は自分の血繋がってるんだしさ。私だって子供嫌いで不安だったけどアンタ生んだらなんてことなかったし。子供ってそういうことなのよ」

「へえ」

 手の中のせんべい袋をぐしゅぐしゅといじりながら、三浦は同意なのかなんなのかわかりづらい声で返した。母親はせんべいを咀嚼して、二枚目だ。

「まー、子供についてはもう言わないけど。アンタも相手見つけてどうにかしなさいよ。正直アンタが一人で老後ってのが一番心配なのよね私。誰かいないとアンタの不運どうにもならないでしょう……ってちょっと」

「耳タコデース。邪魔したなー」

 開けないせんべいを手に持ったまま、すたすたと部屋から出る。呆れたような母親の声を背に、三浦は肩をすくめる。

「んなの、本当遠い世界の話、だと思ったんだけどなあ」

 そんなやつ親戚にいるのか、と呟いて、せんべいをポケットに入れる。

「のばしぼう、か」

 浮かんだ可能性はあまりに気分の良くないものだ。母親の考えるように、ありえない根も葉もない噂とするのがいいのだろう。

 三浦はそれ以上なにも言わず、ただなんとも言えない息を吐いた。

(閑話「のばしぼう」 了)

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