台詞の空行

6-2)煙草

 コンビニから出てしばらく歩くと、ステンレスの灰皿台がある。近づけば煙草が香る。いわゆる残り香というべきか、それとも染み着いたモノなのかまでは、意識したことがないのでわからない。とはいえ頓着しない横須賀は、香り自体は特に気にするモノでもなかった。ただ、横須賀が知る範囲で山田からこの香りがしたことはないと思うのは、頓着しない故ではなくおそらく本当にそうだとは思うが。浮かんだ思考を吐き出すように、横須賀は息を吐いた。

 弁当の上にあった煙草は、移動中に端に寄ってしまっていた。とはいえわかりづらいようなほどではなく、手探りで取り出せる程度だ。横須賀の手にすっぽり収まる煙草は、弁当の熱がフィルムに少し移っている。すぐに消える熱だろうが、横須賀ははがしたフィルムをそのまま袋の中に戻してしまうので、また更に熱くなるのかもしれない。

 埋もれたガムも熱くなっているのだろうか。ふと浮かんだ思考は、しかし浮かぶだけだ。横須賀はあまりそういったところに頓着しない。

 持ったままの弁当が少し邪魔だ。地面ではあるが特に気にせず、横須賀は一度弁当を足下に置いた。他人にとなるとさすがに気を使うが、自分が食べる分にはどうでもいい。手の中にあるよく知らない煙草を、じっと見据える。

 これ以上頭が馬鹿になっても困る、だったか。山田の言葉が浮かび、しかし横須賀はそれでも煙草を選んだ。

 本当は、推奨されない煙草を吸うつもりはなかった。山田が言ったからではなく、そもそもの問題だ。依存物を利用すると言い切るほど、横須賀は強くない。麻薬ではなく煙草であり、コンビニで買えるようなものであっても横須賀にとっては少し恐ろしいものだった。

 依存する、という感覚を横須賀は知らない。ただ、してはいけないとだけ思う。

 喉に心臓が上ったような心地と肺を占める圧迫感に、横須賀は息を吐き出した。なんとなくあたりを見渡す。別に成人しているのだから悪いことでも何でもないのだが、誰もいないことを確認して煙草を傾けた。うまく一本がでない。

 とんとんと横を押すようにしてひしゃげさせ、二本並んで出た内の一本を摘み持つ。箱はそのまま袋に戻して、代わりにライターを取り出した。便利、という言葉が浮かぶ。横須賀は結局これを活用出来る気がしない。山田がこれまでどのように便利に使ってきたのかも、わからない。

 あの時山田に何があったのか横須賀はあまり聞けていない。山田が語ろうとしないから当然で、あの男がなんなのか、何故すぐ山田に大きな危害を加えないと言い切れるのか、知り合いなのか、いつからなのかもわかっていない。叶子のいうおじちゃんがどういう意味を成すのかも。

 あの支離滅裂な言葉を山田は横須賀のメモから読みとったはずだ。しかし山田はその件について口頭でさらに問いを重ねることはなかった。そのことが、ずっと引っかかっている。なんだったのか聞いても、ヤベェ男の言葉でしかネェよ、としか山田は言わず、取り合おうとしなかった。あの言葉から意味を見つけだすことは難しい。横須賀にはわからないことが多すぎる。

 けれども山田と男が知り合いとすると、言葉は山田に向いたものであり――恐ろしい、と思う。わからないからこそ、ぞわりと背筋が震える。

 男の言葉と、逃げると言わない山田と、秋を抱きしめた姿。それらが横須賀の中であの日からぐずぐずと廻っている。

 空っぽの横須賀はどうすればいいかわからないままで、雑用をこなすしかない。山田も叶子も男も、横須賀の外側で。それはずっと昔から当たり前なことでもあって、横須賀はその中に入れない。山田たち以外でも、いつも。声が届くことなどないと、知っている。

 親指に力を込める。少し固いが、ライターが火を灯した。煙草を近づけ、炙る。

 じじ、とフィルタが焼ける。といっても燃えるとは別の形だ。濃くなった煙草の香りに眉をひそめ、おずおずと横須賀は口に運んだ。

 フィルタを唇で挟んで、そっと息を吸う。じ、と音が鳴った。煙が内側に入り込むが、意外と噎せることはなかった。おいしいとは思えない、というより、わからないというのが正直な感想だろう。ライターを袋に入れ、息を吐く。白い煙がもうと眼前に停滞する。

 煙草の煙を吐き出すのとは別にもう一度息を吐いて、横須賀はフィルタを眺めた。それからもう一度、口に付ける。今度は先ほどよりも深く、深く、ぐずぐずと廻る妄想を煙で炙り、空っぽの肺を満たすように煙を吸い込む。

「っけほ」

 たっぷり吸い込んだ煙は、空っぽだった肺を揺らした。頭がすこし眩む。吸い込みすぎたのか、それともこれが正しいのか。おそらく後者だろう。煙に噎せながら、横須賀は顔を歪めた。

 目尻に反射のような涙が溜まる。親指の腹で押すようにして水を誤魔化して、横須賀は煙草の煙から少し逃れるようにしながら呼吸を二度繰り返した。山田が利用すると言ってのけることすら、横須賀は満足に出来ない。噎せる苦しみとは別に、唇が歪む。

 この感情がなんなのか、横須賀にはよくわからなかった。山田やリンが勧めた病院とやらにいけば変わったのだろうか? その疑問は、まさか、という否定であっさり消える。

 他人に話すことなどない。横須賀はがらんどうなのだから、どう言えばいいかわからない。そこに金銭や時間を掛けようとは思わなかったし、医師に申し訳ない。

 自分が把握できない愚鈍さを他人に任せるわけにはいかないのだ。そう言えばリンが顔をしかめ諫めたかもしれないが、横須賀は黙したまま信じていた。使ってもらうことさえ出来れば十分で、その根本を解決するという考えが、横須賀には存在しない。

 呼吸を整えて、もう一度横須賀はフィルタに口を付けた。さきほどの噎せる心地から薄く吸いそうになるのを、意識して深く吸い込んで抑える。ぐわり、と歪む。内側を肺が巡る心地は、黄色い液体よりは薄く、しかしどこか似ていた。

 内側から横須賀をなにかが苛む。血液を煙が炙るような妄が、また目尻に涙を溜めた。こんなに苦しいことを山田は。いや、慣れてしまえば苦しくないのだろうか。考えながら煙を吐き、吸う。

 叶子のことをどうにもできなかったのに、山田がまた自分を追いていくのだと考えると落ち着かない。煙草さえ吸えればそんな時になにか出来るのではなどと思っても、この空っぽの内側を巡る煙が無理だと語るようだった。

 たかが煙を吸うことですら満足に出来ないのだ。そういう声を煙自体で隠すように、また横須賀は深く、深く吸い込んで。

 視界の端に、見知った顔を見つけた。

「っ」

 名前を声に出そうとして、また煙に噎せてしまう。情けない。げほげほと背を丸めて顔を逸らす横須賀に、足音が近づく。

「だ、だいじょうぶか!?」

 おろおろとした声は、以前聞いた声よりも高い。飾っていない調子だからきっと素の声なのだろう。背に触れる手は、撫でるには足りずしかし置くだけではない。控えめな労りに、横須賀は申し訳なさそうに身を縮こまらせながら煙草を灰皿に押しつけた。

 なんとか息を整え、平塚に視線を向ける。

「すみま、せ」

「いやこちらこそ驚かせてすまない! え、ええと」

 きょろきょろと平塚があたりを見渡した。探るのと視線を泳がせるのと両方を含んだような仕草に、横須賀がぱちりと瞬く。落ち着かなそうに首と顎の境あたりに手を置いて、平塚はんん、と喉を整えるような声を出した。

「山田太郎はいないのか」

「あ、はい。今日の仕事は終わった、ので」

「そうか、帰宅時分に失礼をした」

 声の調子はあの作ったような朗々としたものだが、視線がかち合わない。まっすぐ見据えた最初とは違う態度に、横須賀はその顔を見つめる。

「あー……」

 少し悩むように間延びした声が、左上に逃げていく。それた顔と伺い見るような視線はあべこべだ。

「どうかしました、か?」

「ああ、いや、君は悪くない。悪くないんだ!」

 そうだ、そうだとも。などと続いた声は言い聞かせるようだった。落ち着かない心地で、足下の鞄に踵を当てる。しばらく逸れていた視線が、左下に落ちた。

「ただその、君が煙草を吸うとは思わなくて、だな」

 言葉に横須賀は二度瞬き、顔を情けなく歪めた。申し訳なさそうな下がり眉のまま、灰皿を見る。

 まともに吸えたとはいえないだろうが、吸っていないわけでもない。未成年でもないのだし後ろめたく思う必要はないのだが、しかし山田のように利用することも依存すらも満足に出来ない自分を見抜かれたようで情けない。

 いや、見抜かれるのではなく元々そんなこと分かりきっているのだが――さきほどからくるくると動く自身の思考に、横須賀は一度強く目を瞑る。

 そうして開き直した先で同じように眉尻の下がった平塚の顔とかち合った。一瞬ゆるんだ表情だったが、平塚はすぐにその眉尻を持ち上げ意志の強い顔を作る。

「成人している人間に掛ける言葉ではなかったな、すまない。ただ君にはどうにも似合わないようで落ち着かず――結局これも掛ける言葉ではないな?」

 最後の疑問符は微苦笑も含んでいた。もう一度下がった眉尻は穏やかな平塚の人となりを見せるようで、つられるように横須賀も微苦笑する。

 覇気のない横須賀の小さな笑いに、ようやっと平塚は肩の力を抜いた。