台詞の空行

5-16)横須賀一

 * * *

「はい。時川です。……ああ、山田所長。どうかしたのか。……ハジメ君が。そうか。……ああ。それで私に話を。そうか。どう話せばいいか少し悩むが。……ああ、そうだ。よくわかったな。盆休みに、彼と話をさせてもらった。

 彼の祖父と私は友人だったが、彼と友人は血縁関係にない。それを知っているのはご両親と私だけだ。笑美子さん――彼のお婆様は知らない。私は友人から聞いていただけで、彼はご両親と話す機会が少なかったからな。知らないままでもよかったかもしれないが、彼が探偵事務所で働くと聞いたので伝えることにした。どちらがよかったかはわからないので、こちらの勝手な判断ではある。

 彼は母親と祖父の子、と言えば伝わるか。彼の母親は、実の父親に強姦されていたようだ。家から逃げたものの腹が大きくなり、下ろすにも下ろせず、怯えたまま家に帰ってきたらしい。水風呂に入っているところを発見された、と聞いている。既に安定期で母子ともに健康だったらしいが……彼女の両親は離婚して、彼女に惚れ込んでいた友人の息子が求婚した。彼女は家から逃げるように友人の息子に嫁いできて、結果彼はこの地で生まれた。そういう話をした。

 ……ああ、知らなくて良いこともある。だから悩みはしたが、探偵事務所なら様々なケースに出会うだろう。そういった時、彼が彼自身を知らずに不安定になるよりは、と言うのと……私もどうすればいいかわからなかったことがある。そうだな、言い訳かもしれん。仕事がどうなろうと、いつか言わねば、と思っていた。仕事はきっかけにすぎない。

 いや、私は彼の家に関与していない。しかし話を聞くに、彼は両親とろくに話をしていないようだった。彼の父親は彼の母親の心を癒すことに専念した。そちらは不安定ながらにも、なんとかなったように思う。あの二人はうまくやっているようだ。非情にデリケートな問題であるし、その点は良かったと思う。

 ……そうだな。彼の現状を見れば、良かったと言い切れはしないだろう。ただ、ご両親の件に関してだけの発言だ。私は友人の蔵書管理の為年に一度笑美子さんの家に伺ったが、たったそれだけの交流でも彼が孤独だったことは推察できた。

 何故医療機関や福祉サービスを考えなかったか? ……そうだな、正直私は部外者だった。友人の孫である彼に対して、ましてや恐ろしい目にあった彼の母親に対して言及するに私は遠すぎた。遠いからこそ出来たはず、というのはある意味では尤もで、ある意味では難しい。友人が死んで、友人の息子はだいぶ動揺した。それでも奥方のことがあり、必死に彼女のサポートをし、仕事と奥方、両方を気遣ったようだった。友人の妻、笑美子さんはそこまで動じる姿を見せなかったものの、それでも随分と沈んでいた。そんな友人の家庭に私のような部外者が何か出来るかなんて、当時は途方もなく難しく感じた。言い訳だろうが、事実の感情でもある。それに友人は妻にとっても大切な、私たちにとって特別な人間でもあった。友人を失ったこと、自分の妻のこと。私は自分が理性的であるよう律しているつもりだし感情的になるような人間ではないと自負しているが、それでも限界はあった。当時の精一杯だった。

 君の言葉は、一々どれも尤もだ。それでも、それだからこそ誰かがあの家庭に福祉サービスの介入を促すべきだったというのは正しい。当人達ではどうしようもないことがあるからこそ、医療、福祉の現場は存在する。特に彼に関しては、虐待の手前と言えるケースだっただろうし、当然だな。

 ――いや、この言い方は逃げか。彼は暴力を受けることも育児放棄をされることもなかったが、それでも彼は十二分なものを得てこなかった。もしかすると名前を呼ばれたことすらなかったのではないか、というほどの状況は、精神的虐待とも言えただろう。最低限の育児はあくまで最低限でしか無く、攻撃的言葉を向けられなかったとしても、彼は確かに難しい場所で育ったのだ。

 そういった意味では、私にも罪悪はあるだろう。私は友人の死、妻の動揺、デリケートな問題である友人息子の家庭になにも出来なかった。友人から話は聞いていたが、友人の息子たちの段階で精一杯だった。彼の母親は当時いつ死んでしまうのかというほど神経質な様子だったし、病院を利用せず家に閉じこもっていた。それでも彼を生んだのだからと育児放棄はしなかった。だから私は、生死が関わる彼女が落ち着くまでは、と思い、そのまま期を逃したと言える。

 年に一度蔵書の整理で、偶然彼が書庫に居たとき。私は彼の状態が芳しくないことを察したが、彼がそれでもなんとかやっているようだったのでそれだけにした。孫娘を連れてきたとき、二人が友人になればと期待しなかったわけではない。実際は友人と言うにはよそよそしく、しかし無関心ではなく、多少の期待に叶った程度だったが。

 そもそも孫娘も、私の躾が厳しすぎたか少々子供らしくなかったと言えるだろう。期待しすぎた感はある。自身の家庭すらどうにもならないのに何故人に出来ようか。――ああ、話がずれたな。忘れてくれ。孫娘と彼の関係は悪くはなかったし、その介入で彼の見目も多少はマシになったとは思う。わからないから、それなりになんとかやっていくだけのやり方を学んだと言うべきか。彼は自身を頭が良くないと言うが、一人で本を読み、文字を覚えるだけの根気がある。十二分に聡い、しかし愚鈍になるしかなかった子なのだろう。

 ……ああ、そうだ。君が言うように、彼は母親を最初は求めていたし、おそらく今も求めているのだろう。求めたことを忘れているようではあるが。そういう中で、自身の欲求に愚鈍になり、わけもわからず怯えるように申し訳なさそうな顔をすることが多かった。なにがあったのかは知らないが、彼はよくもわからず異性に対する感情、関わることを恐れるところがあった。……知らないと言ったが、彼の出自から考えればそうなるのは当然のように思えるだろう。孫娘と話す姿から異性に対しての恐怖でないことは確かだ。あれは彼自身を恐れているのだろう。

 その理由がわからないままというのも、あの歳になってはなかなか難しいことが多いだろう。特に君の事務所で働いているのだ。探偵というのなら浮気調査を始め男女間のものがあるだろうし、それなりにそういった状況に関わることも多いと判断した。わからないよりもわかってコントロールする事が出来れば、と思っている。正しいかは、最初に言ったようにわからん。君はどう思う?

 ……そうだな、君に判断を求めることが私の贖罪じみていることは認めよう。君は正しい。そして正しい故に、君もわからないのだろう。彼への支援をすべきだったという過去の事実くらいで、君は聞くばかりだな。……いや、別にそれでいい。プライバシーについては今更だし、君が言葉を汚くするのを聞きたいわけではない。君の本質はそこではないだろう、君は義憤の人だ。……そう噛みつかなくて良い。私の言葉選びが悪かったか。すまない、忘れてくれ。

 そうだな、事実はこれくらいだ。……なぜ止めないか? 言ったように、私は彼にとってそこまで近しい場所ではない。それに、正直なところ君の場所で彼が働いてくれればとすら思う。彼は愚鈍を選びすぎた。多くの経験をするのがいいと思うし、その場所が君であることは幸いだな。

 信用しすぎている? 君が信用を求めていないのはわかるが、彼の周りを見ていて君が一番まっとうだからな。私とて、話す相手は選ぶ。……ああ、君は確かにそういうところはあるが、一度話したように、十二分だ。

 そうだな、正直に言えば君が信用に足るかどうかを社会性で判断はしていない。私が知りうる彼の生涯に置いて、君が一番マシだろう、というだけだ。

 ……使い捨て、か。そうだな、そういう可能性はあり得るだろう。ただ彼については、使い捨てるよりも使い潰す方が便利ではないか? 使い潰す? 君の基準がどこによるかだが、基本的に道義を捨てた会社では使い潰すイコールその社員の精神的または肉体的死だろう。機能できなくなるまで使うことを言う。そうなる可能性がある? そうなったらそれまでだろう。そこを選ぶのは私ではなく彼だ。それに君の言葉を聞くに――いや、ここは指摘しないで置こうか。

 そうだな。突然君が捨てれば彼はもしかすると苦しむかもしれない。それでも君は選択するだろう。だが、そうなる前に彼を適切な職場に移すなんて、それは彼が選択しない限りあり得ないことだし、私はその点を心配しない。君が彼を優先しないなんて、当然だろう? 君は彼の親ではない――その親も彼を優先しない。彼を優先するのは彼自身だし、君は雇い主なのだ。そんなこと今更だろう。

 そう、君が言うように彼は十二分な力を持っている。その力の場所として君が選ばれている。君が選んだとしても、彼はそこにいるのだから選んでいるはずなのだ。……希望的な言葉である自覚はあるが、しかしその点を論じるつもりはない。

 はっきり言おう。君に彼のことを伝えたのは、彼のその過去が君の仕事の邪魔にならないようにする為だ。君が電話を掛けてくれたように、彼はまだその点をコントロールできていない。君なら把握した上で『うまく使う』と私は思っている。私の勝手な判断だが、彼に仕事を続けてもらうための情報だ。君から引き剥がす為ではない。

 ああ、君がどういった形を選ぶかは自由だ。そうして君が捨てることも、前提として決まっているのなら自由だ。雇用形態について経営者なら把握しているだろうから私はそこを言うつもりはない。合法的選択でさえあれば、君は選べる立場だ。

 私は、いや、私以外もきっと、誰も何も言えないだろう。私は彼を選ばなかった。優先したことは別だ。君も別に優先があるのだろう? 言えるわけがない。笑美子さんですら、彼を選んでこなかった。笑美子さんは彼を愛していたが、息子夫婦の言葉をそのまま信じた。気付かず終わっていたし、私も気付かせなかった。

 彼は取り零され続けた人間だ。誰の一番にもなることがなく、捨てられはせずとも選択する度指の隙間から零れた人間。だから私は、君が選ぶことに何も言わない。彼の周りの人間はずっと彼を選ばなかった。彼はそのことを当然と思っている。彼が受容するのだから、誰も何も言えない。他人が言うことではない。

 もう一度言おう。君の自由だ。好きにしたまえ。私は彼の為という言葉を用いて君から彼を引き剥がさない。君が君の為に彼を使い潰すだろうと言うことに、期待すらするくらいだ。君は彼の為に私や笑美子さんの介入を望むのか?

 そうだろうな。君は必ず、そうは言わない。だから自由にしたまえ。

 君が彼を切り捨てる日までは、彼と共にいるといい。彼を使い潰しても、使い捨てても、それは君と彼の選択だ。

 話は仕舞いか? そうか。君たちの仕事が捗ることを祈っている。なにかあったら連絡してくれ。ああ、ああ。では。失礼する。


 ……寧ろ利用してでもと思っているのは、こちらの身勝手だ。結局私は、あいつの為に彼をどうにもできなかったのだから。あいつは血の繋がりが無くとも、彼の未来を案じていたのに、な」

(第五話「こども」 了)

(リメイク公開: