5-15)山田太郎
横須賀の立ち去る足音が消えて、長い、長い息を吐く音が響いた。リンが立ち上がる。
「水、飲むよな」
「ああ」
横須賀の書いたメモを山田の右手がなぞる。指先で撫でるようにして見据える表情は険しい。
紙に近づき、山田の背が丸まった。唇が、小さく動く。声になりきらない呼吸とも言い難い音が文字を追うようにぶつぶつと落ちる。
リンがコップをテーブルに置いた。左手横側に置かれたというのに、山田はそちらを見ない。
山田の手の怪我は山田が言うようにそこまで心配するようなものではない。怪我の原因は山田のナイフだったから毒などはないだろうし、横須賀の手当で破傷風の心配もほとんどない。
問題は、そちらじゃない。
(大丈夫)
必要な指示は既に出している。何も意味がないとわかりながら、リンは自身を宥めるように内心で呟いた。ことが起きたら一瞬だ。今、山田は居る。だからこそ思考しているのだ。
左手の人差し指と中指が、こつこつと机を叩いている。音を聞きながら、リンは自身に入れた水を飲んだ。生ぬるい。
こつ、と指先の音が止まる。左手が拳を作る。山田の背筋が、更に曲がる。
小さい。山田は上背がないのだから当然だが、丸くなった体は一等小ささを際出たせた。下がりそうになる眉をリンは寄せ、やや強いため息を吐いた。
「どうした?」
返事はない。髪を耳に掛けるようにして頭をかくと、リンはもう一度息を吐く。
「太郎」
動かない。じり、と胸の内側で、アバラが神経をひっかく。わざと大きめに足音を立てるが、山田の顔はメモを見ているだけだ。
リンの大きな手が、山田の肩を掴む。強く左肩を押すようにして紙からリンに顔を向けさせると、山田の眉が驚いたように持ち上がっていた。
「名前は言える?」
緩く開いた唇が少しだけ大きく開きかけ――しかし、すぐに閉じ、左頬がくつりと歪む。眉間にぎゅっと皺が寄り、その片方の眉尻も口角と一緒に持ち上がった。
軽薄な笑みと一緒に、山田の右手がリンの左手に触れる。
「俺は壊れちゃいない」
力が入らない手で払われ、リンは手を離した。右手の包帯の白さが肌に染み込む。深い傷ではないが、かといって放って良いものでもない故にリンは顔をしかめた。
「探偵、山田太郎。ソイツに目を付けられたんだから、アイツも運が悪いよな」
はは、と笑う声にどう返せばいいのか、リンはわからない。ただ否定も肯定もしなかった。横須賀のことを案じる気持ちはあるが、リンの優先順位は山田だ。
「……仕舞いにはならなかった。それどころかこのザマだ」
「うん。でも、掴んだ」
「ああ。あっちもこっちも、同じだ」
山田の視線が、紙に移る。リンもそちらを見た。神経質な強い筆圧で書き殴られた文字は、横須賀の平時の穏やかさよりも悲鳴じみた声を思わせる。遠目では何が書かれているのか読めない、近づいて近づいてようやく届く悲鳴。
「リンの方でやってもらうことが増える。俺も動くが――問題はアイツだ。ガキに気に入られている。今辞めさせてもまずいだろうな」
「うん」
「情報を得たら予定通り切り捨てる。十二分すぎるほど働いたし、次の仕事はうまく見つけてやってくれ」
「うん、そういう話だったしな。……どうした?」
既にしている話をもう一度することに、リンが問いを返した。山田が紙を撫でる。
「……あのガキも、アイツも。惚れた腫れたならまだマシだったんだろうがな。どうにも違いそうだ」
「どういうことだ?」
「勝手な予想だが、なんつーか同一視してんじゃねぇかって感じだな。適当に使い潰したし後は時間まで放っておくのも有りかと思ったが、このままだと寝覚めが悪い。うまく使えりゃいいが」
山田が息を吐く。感情を押し殺したようなそれに、リンが眉を下げた。
「わかった。そっちの結果がどうであれ、横に次の仕事渡すときはそのへんも考えておく」
「やれることはやっとくが、頼んだ。アイツは能力も高いし、心配する必要もねぇとは思うがな」
紙から山田が手を離す。ソファに預けた背は、もう丸まっていない。
「アイツの知り合いに少し探りは入れとく。今回の件はここで終わりだろう。赤月のガキは警察、新山のガキは向こうだ。準備ってあの野郎は言っていた。猶予はあるし、やるときはこっちにくる。その前にこっちが動けるかだ」
「うん」
沈黙。静かな呼吸音だけが、かろうじて届く。秒針の音が心臓よりもうるさい。
「アイツは」
ぽつり、と声が落ちた。とすん、と零れたそれは転がることなく、そのまま消える。
山田の声を、リンは追いかけない。ソファに預けた背を離して山田が膝の上に手を置いた。左手が右手の包帯を撫でる。
「太郎」
言葉の続かない奇妙な間を、リンの声が裂いた。静かと言うよりは少し沈んだ低い声に、山田が顔を上げる。
「俺もさ」
しかし、やはりそれ以上言葉が続かなかった。山田の表情を見て、リンは情けない顔で笑うしかできない。続けたかった言葉を飲み込んで、リンはついと視線を外した。
「……横のこと、なんとか頑張るよ」
続けたい言葉は違う。けれども横目で見た山田の表情が安堵を形作っているからこそ、リンは結局そうであるしかない。
「アレがいるというよりアレの情報の為だったから準備無くこうなっちまったが、次はもう大丈夫だ。任せた」
「ああ」
山田が水を口に含む。するりとした喉が上下するのを見て、リンは目を伏せた。
「何かあったら呼んでくれよ」
「デカブツと同じコト言ってるぞソレ」
「それじゃあ俺は呼ばれる前に添い寝のがいいかな」
山田の指摘に、リンが肩を竦める。言葉やその態度とあべこべの静かな声に、山田は小さく笑った。
「バァカ、いらねぇよ」
「知ってる」
笑い返したリンの表情が山田のサングラスに映り、消える。静かに立ち去る背中を見送り、山田は息を吐いた。
「だいじょうぶ、だ」
小さな声は、紙に染み込むようにして消えた。
* * *
2023年8月29日(火曜日)
新山病院にて事件発生。院長の新山
現場には少量の血液反応。第三安置室で発見した赤月秋に付着したものと同一。
非常ベルを鳴らした人間は不明。匿名にて事件の連絡を受けたため同じ人物かもしれないが、名乗り出る人間はいなかった。
看護師の矢野
山田探偵事務所に連絡したが時間外の為か応答なし。三階の電気がついていた為無事だとは思うが、明日もう一度確認する予定。
矢野の話、これまで調べた情報を整理すると新山敦は呪術的行為を行っていたと思われる。山田が怪我をしたのなら山田から逃げた可能性有り。新山叶子の保護について強行できないか手段を考える必要がある。急務。
推測の域をでないが、おそらく新山敦は受験の為儀式に手を出したのが最初だろう。新山の過去を記す情報はほとんど見つからなかったが、断片的に残った資料から推測するに実の母親と姦淫し「神子懐胎の儀式」を行っていたと思われる。新山叶子は実子の可能性が高い。神子として扱われていたと考え、調査を増やすこと。
新山の件、若草の廻魂祭りにおける子途の様子から推測すると、過去の事件は類似の怪異を崇拝したものか、それとも治療をもくろんだものか。再度考え直す必要あり。もし加害者が同じだとしたら事件は終わっておらず、通過儀式だった可能性が出てくる。
静岡の事件と山田の不在が重なっている為そちらも関係している可能性が高い。類似事件を含め、再度過去資料洗い直し。
刑事としての資料と個人の資料をもう一度分類し、過去の資料も区分けすること。赤月秋については診察結果によって処遇を。現在の管轄では赤月秋単独の保護は厳しいかもしれないが、最後のチャンスだと考えるように。
繰り返さない為に、刑事になったのだから。
(リメイク公開:)