台詞の空行

閑話

X-1-1)少女の回顧(前)

 鼻を通った空気が喉に引っかかって、ハジメはけほりとそれを吐き出した。

 独特の、カビのようなホコリのような臭い。陽があまり差さない部屋。電気をつけたハジメは、するするとそんな部屋の本棚の間を通り、奥に進む。目的の場所にたどり着くと、ハジメは子供の手には大きすぎる本を引っ張り出した。

 大きな百科事典は、ハジメの小さな膝に乗ることよりも床の上に広げられることを選んだ。ハジメは本棚の間の狭い通路で、膝を抱えて読み始める。

 そろそろこの本棚の列も終わってしまう。奥から順繰りに本を広げ読み進めていたハジメは、大きな本よりも小さい本の方を読む方が大変だとわかっていた。

 けれども、確かに絵を追いかける方が楽だけれど、大変な方がハジメの目的には合っているので、この本棚が読み終わることをハジメは嘆きもしなかった。ページをめくっては近づく終わりに残念がることもない。

 ハジメは今日も一人で、文字と共にいた。

「わざわざ有り難うございますねえ」

 しゃがれた優しい声が、廊下に響く。本の中にいるハジメは、気づかない。

「いえ、あいつの本は財産ですから。ご協力感謝します」

 続いたのは低いよく通る声。若さの張りはないが、しかし経験を積んだ男の声は実際の年齢よりもよほどはきはきとしていた。

「アタシはこのとおり目も頭も耄碌しているので、助かりますよ」

「まだお若いでしょう、そんなことおっしゃらないでください。私もまだまだ若者に負けるつもりではないです。……ああでも、もっと早くにお願いすれば良かったですね。読まれないとなかなか管理が大変でしょう」

「ええ、ええ。あの人の物なので大事にはしたいんですがいかんせんアタシは馬鹿だから」

 談笑の声と、扉を開ける音。やはりハジメは気づかず、顔を上げない。

「あら、あの子はどこにいるやら。すみませんねえ、えっと」

「いえこちらで見かけたら声をかけますよ。椿つばき、会ったら挨拶するんだよ」

「はい、おじいさま」

 ハジメを探そうとした女に、男は手と声で制して目を細める。男からの指示に、足下にいた椿は少女特有の愛らしい、しかしどこか子供にしては単調な声で答え、こくりと頷いた。

「では、私は先に行ったように作業に入る。椿はご好意に甘えて本を読ませていただきなさい。ここにあるものはすべて貴重だから、大事に扱うように」

「はい」

「お孫さんと会ったら挨拶をして、謝意を述べなさい」

「はい」

「では、わかったら行きなさい」

 男の言葉は、椿の背格好からすると向けるにふさわしくないような厳めしさがある。しかし椿はその堅苦しい言葉にひるむことなく、当たり前のように頷いていた。

 最後の男の言葉を受けて、きっちりと男の目を見て背筋を伸ばす。

「はい、おじいさま。ありがとうございます、よこすかおばあさま」

「いってらっしゃい、椿ちゃん」

 愛らしいが単調な声で椿が礼を述べ頭を下げると、女は嬉しそうに目を細めた。椿は顔を上げると、ゆっくりと本棚の中を物珍しそうにきょろきょろと目を動かしながら進んでいく。

「頭のいい子ですねぇ」

「いや、まだまだ足りてませんよ。それでは本をお借りします」

 男は中にはいると目的の本棚に行き、適当に見繕っては外に運び出すという作業を始めた。椿は一度振り返り男の方を見た後、また物珍しげに本棚の中を探索する。

 ふと、奥に行けば貧相な少年を椿は見つけた。

「こんにちは」

 挨拶をする。が、返事はない。

 椿は貧相な少年――ハジメの覗く百科事典に近づく。百科事典に影が差す。

「どくしょちゅう、すみません。こんにちは」

 ハジメは気づかない。じっと椿はハジメを見ている。

 ハジメの手が、ページをめくる。

「こんにちは」

「え、あ、え?」

 意識が文字から浮上する案配に声をかけられ、びくりとハジメは肩を揺らした。それから顔を上げて、のぞき込む少女と目を合わせて挙動不審に目をぱちくりさせる。

「え? そのこ?」

「ツバキ、ええと、わたしは時川椿ともうします。おじいさまが、あなたのおじいさまのごほんのむしぼし、をしにきました。そのあいだ、ごほんをみていいとあなたのおばあさまにおゆるしをいただいて、ここにいます。ありがとうございます」

「あ、う」

 座ったままだが丁寧に頭を下げられ、おずおずとハジメも倣うように頭を下げる。椿の真っ黒いこぼれそうな瞳がハジメをまっすぐ見据える。

「あなたのおなまえをきいてもよろしいですか?」

「え、う、そいつ、は、ハジメ、です」

 いまだ驚いてうまく頭が働かないのか、ハジメはつっかえながら答える。椿はその挙動を笑うこともあきれることもなく、ハジメ、と復唱した。それから続けて、そいつ?と首を傾げる。

「そいつ、ですか?」

「そいつ、です」

 椿はますます首を傾げた。さらさらと柔らかそうな髪が揺れる。

「なんだか、ふしぎですね」

 椿は表情を変えず、ぽつりと呟いた。傾げる椿につられるように、ハジメも小さく首を動かす。

「ぼく、とか、おれ、とかじゃないんですか?」

「? そのこ、というと、笑われるから、そいつ。おれ、は、そいつじゃない、から」

「ふつう、じぶんをいうときに、そのこ、とかそいつ、はつかいません。それ、は、ほかのこのことです。だからふしぎです」

 椿の言葉に、ハジメは困ったように眉を顰めた。よくわからない、という表情に、椿も困ったように眉を顰めて、二人でううんと唸る。

「ふしぎ、っていわれませんか」

「そのこ、というと、女みたいって笑われる。そいつ、は、変って笑われる。女じゃないからそいつって言ってた。変?」

「ふしぎです」

 椿は言い切る。不思議、と何度も繰り返されるが、ハジメにとってはふつうのことで困ってしまう。しばらくややあって、ハジメは百科事典に視線を落とした。

「そいつ、は、おれ、と言えるのかな」

「ことばはじゆうです」

 きぱり、と椿は言い切る。ハジメは眉を下げたまま、百科事典の上をくるくるとさまよい見る。

「そいつは皆と同じでいいの? 俺、は、お父さんたちの言葉じゃないの?」

「わたしのともだちもつかいますよ。みんなだいじょうぶです。だって、へんっていわれるんですよね? じゃあ、そいつ、は、おれ、とか、ぼく、のほうがふつうじゃないんですか」

「おれ」

 椿の言葉に、ハジメが反芻する。こくり、と椿は頷く。

「おれ、オレ、俺。俺は、ハジメです」

「はじめまして、ハジメさん。わたしはツバキです」

 もう一度為された自己紹介に、椿も律儀に返す。ええと、とハジメがきょろきょろと百科事典から本棚に視線を動かす。

「本は、自由に見ていいって俺、も、言われてる。ツバキさんも、自由に読んでいいけど」

「ツバキ、で、だいじょうぶです。としうえのひとはあんまりとししたをさんづけしないきがします。することもありますが、わたしはようちえんせいなので、ようちえんせいのひとにするひとは、ほとんどいない、です」

 ようちえん。確かに小さいがその言葉遣い似合わない言葉をハジメは反芻し、頭を掻いた。

「ええと、じゃあ、ツバキ、ちゃん」

「はい」

 真っ黒い瞳がやはりまっすぐハジメを貫く。ハジメは、見られることに慣れていない。だからやっぱり視線を本棚に逃がしてしまう。

「俺、も、別にいいよ。さん、は、合わないや」

 あまりハジメは知識を多く持たないが、敬称について一応少しはわかる。他人が言われることだ。ハジメは、俺という言葉を自分が使っていいというだけで十二分な収穫だったし、あんまり仰々しく言われるのに自分は見合わないと思ったのだ。

 椿はそんなハジメの内心を知ることはなかったが、まっすぐハジメを見上げたまま、神妙にこくりと頷いた。

「じゃあハジメくん、とお呼びします」

「うん」

 そこで話はしまいだ。ハジメがようやっと息を吐いて百科事典に視線を移そうとする。――が、椿はまだハジメを見ている。

「ええと、椿、ちゃん? どうしたの?」

「ハジメくんはいっぱいよめるんですね」

 いいなあ、という言葉は初めてみせた椿の素の色があった。だがハジメはそれには気づかず、ぱちくりと瞬く。

「これ、は、百科事典だし。あんまりむずかしくないけど――椿ちゃん、は、幼稚園、だっけ」

「よんさいです」

「よんさい」

 椿の言葉を反芻し、やはりハジメは瞬く。随分、随分とそれに見合わない言葉遣いだ。ハジメよりもよほど利発だが、しかし百科事典ですら眉をしかめているということはそういうこと、だろう。

「絵本、もあった気がする。ちょっとまってね」

 ハジメが立ち上がると、ちょこちょこと椿は後ろをついてくる。自分の後ろに人がつくなんてあまりにへんてこで、ハジメはむずむずと背中がくすぐったいような心地に顔を歪めた。

「ハジメくんは、なんさいですか」

「八歳」

「しょうがくせいですね。おにいさんです」

 お兄さん。その言葉も随分なじみがない。自分の外側で呼ばれる言葉で、ハジメは肩を竦めた。どうにも椿の言葉には、もぞもぞとなじまないことが多すぎる。

「ええと、これ。民話が多いから普通の絵本より文字が多かったりちょっと後味よくなかったりするかもだけど。この辺がまだひらがな多いかも」

「ありがとうございます」

 椿がきっちりと頭を下げる。有り難う。その言葉もむずがゆく、ハジメは落ち着かない様子で自身の手を撫でた。

「じゃあ、俺はまた向こうにいく、から」

「ハジメくんはいっぱいよむんですね」

 椿の言葉に、ハジメはまた頭をかく。ううん、と唸るハジメをじっと椿は見上げている。

「よむのにおいそがしいですか?」

「いや、俺、は、いつもここで読ませてもらっているだけ、だから……」

「じゃあハジメくん、おねがいがあります」

 神妙な顔で意を決したように言われ、ハジメはまたもぱちくりと瞬いた。


「ありがとうございますおばあさま」

 椿の声が廊下に響く。とすとすと走らないがすこし急いだ足音が近づいて、次いで扉を開ける音がする。

「ええと」

 縁側に座って待つように言われていたハジメは、困ったように眉を下げたまま椿を振り返った。椿の手には、ハジメの祖母から借りた櫛がある。

「しつれいします」

「あ、はい」

 深々と頭を下げられて、ハジメも頭を下げ返す。椿が後ろに回ったので、ハジメは正面を向いた。

「いたかったらおしえてください」

 おずおずと櫛がハジメの髪に差し込まれる。ハジメの髪は短いのだが、差してすぐに結び目のような引っかかりにぶつかって、実はすでに痛い。

 それでも椿は真剣な様子でそのこぶを小さく何度もつついて、出来るだけ痛くないようにほどこうとしているのがわかるので、ハジメはなにも言わなかった。

「椿ちゃんもしっかりして見えて、まだまだ子供ねぇ」

 再度扉を開けた音とともに、にこにことした女の声が響く。祖母の声だとわかったハジメが否定しようと口を開くも、しかしそれより先に少女のはっきりとした声が響く。

「おままごとにハジメくんをおつきあいさせてすみません」

 なんだか奇妙な謝罪だ。おままごとという幼さに似合わない堅い言葉遣い。しかし、ハジメの祖母はそれを聞いてふふふと笑う。

「いいのよぉ。かわいい妹みたいね、よかったわねハジメ」

 ハジメは拳を堅く作り、それには答えない。椿は再度ハジメの絡まった髪と格闘しだした。くすくすと笑いながら、ハジメの祖母は部屋を出る。おそらく、椿の祖父の元に行ったのだろう。

「かみのけは、みだしなみでだいじなばしょなんです」

 椿がうんうんとハジメのこぶと戦いながら呟く。ハジメは答える言葉を見つけられず、所在なさげに目を揺らす。

「かお、を、ひとはみます。かお、といっしょに、かみもみえます」

 こぶがすこし解けたのか、櫛が一瞬だけするりと動く。けれどもすぐに次のこぶとぶつかって、ハジメは肩を強ばらせた。

「いたい、ですか? ごめんなさい」

「だいじょう、ぶ」

「きをつけます」

 こつこつこつ。髪のこぶをひとつずつひとつずつ、丁寧に椿はほどく。歳の割に利発で堅苦しい言葉と同じように、歳の割に随分と根気強い。

 ハジメは髪を引っ張られながら、こんなに近くで響くなんてひどく奇妙に感じる声を聞いていた。

「ハジメくん、あたま、かゆくないですか」

「かゆ、い?」

「さっきからなんども、あたま、さわってました」

 確かに言われてみると、ハジメは髪をいじる癖がある。頭を掻いたり、引っ張ったり。でも痒いからかといわれたら、正直無意識でもあった。

 けれども言われたとたん、なんでか首筋から上がもぞもぞとし出す。

「いっぱいかみがぐちゃぐちゃです。しろいこな、もあります。ハジメくんは、かみをあらったほうがいいです」

「髪」

「まいにちわたしはあらってもらってます」

「まいにち?」

 それはハジメにとって驚きだった。髪を何日に何回洗えばいいかなんてハジメはしらないし、よくわからないから気にしたこともなかった。一月に一回、みっともなくないようお金を持たされて床屋に行くのと、雨に濡れたときに自分で洗うくらいだった。

 驚いて瞬くハジメを椿は笑わず、神妙に頷く。

「しろいこなは、かゆいかゆいってからだがいってるんです。あらえばでません」

「そうなんだ」

「からだがかわいそうです」

 可哀想。その言葉はハジメにとっては遠く、首を竦める。からだがかわいそう。心内で復唱しても、なんらハジメの内側には響かない。それはとても遠い言葉だ。

「わたしはまだよんさいです」

 唐突に、椿が言った。四歳というのは先ほども聞いたので不思議に思いつつ、うん、とハジメは頷く。

 椿はハジメの髪と格闘しながらも、静かに、歳に見合わない単調な声で言葉を続ける。

「まだちいさいから、あたまのなかにはなにもかもたりてない、んです。でも、ことばづかいとか、そういうのはまねができます。なにもなくても、そとがわをつくればいつかそれにちょうどよくなれるとおじいさまがいってました」

 なにもない。この聡明な言葉を使う少女には似合わない言葉だ。否定しようとハジメは唇を動かし、しかし椿のおじいさまだとか椿の主張を覆せるほどのものをハジメの中に持たなかった故にそれは言葉にならない。

 椿の手が止まる。

「わたしのなかはなにもないので、ぜんぶ、しっかりできるようにそとがわをつくるんです」

「外側」

 むずむずしながらも否定できないまま、ハジメはその言葉だけ復唱した。椿はうなずき、また手を動かし出す。

「ハジメくんはいっぱいもじがよめます。えほんもみつけてくださいました。ハジメくんは、なかみがちゃんとしているから、こんどはそとがわです」

 ハジメの中身は、がらんどうだ。読んでも読んでも文字は蓄積されない。それでもこんな女の子にそんな告白はしかねたので、ハジメはやはり黙り込む。

「みだしなみ、は、ひとをきめます。ハジメくんは、もったいないです」

「でも」

 身だしなみを整えたところで、誰がハジメを見るだろうか。ハジメが何をしても、何もかも意味はない。

「ハジメくんをきれいにします。そしたらハジメくんは、きっとすてきになります」

 努力してもかなわないことがあるなんて、こんな小さな子供に言うのは流石に躊躇われた。だからハジメは、眉を下げ、困ったように笑う。

「きれいになれるかな」

「大丈夫です。みだしなみと、あと、あいさつです。そしたらみんななかよくなれます」

「挨拶。俺、が?」

「ハジメくんはわたしとしてくれました」

 だから挨拶はなんの心配もないですと続ける椿に、ハジメは頭を掻こうとしてその手を首筋にとどめた。椿が賢明にしているからか、首は確かに粉っぽい。

「あいさつは、したひともされたひともしあわせになるまほうなんですよ」

 そんな言葉を、昔、随分昔に聞いたような気がする。けれどもハジメはすぐに自分からする事を諦めた。

 何故だったろうか、なんて考える方が馬鹿馬鹿しい。

「……頑張ってみるね」

「ハジメくんは、きっとじょーずにいきます」

 それでも優しい少女に言える言葉もなくゆるゆると笑えば、ほとんど変わらない表情のまま椿が答えた。

 ハジメは中指で首筋を二回掻いて、笑った。