5-14)変わらない事実
その後はなにもかもが早すぎた。慌てて駆け寄った横須賀が二人を確認すると血がべっとりとついているし、焦って声を出したところでリンの知人という男がやってきて、山田から秋をはがして元通りストレッチャーに乗せた。それから二人まとめて部屋から追い出すように引きずり出し、彼の車で事務所まで送り届けられた。
そんな車中で応急手当をしながら山田の怪我を案じる横須賀に、平気だと言い切る山田。結局出来ることは限られているので応急手当の後ろくに話もさせてもらえず書き殴ったのが今山田が持っているメモである。
そういえば彼の名前を聞いていなかったが、リンと山田はきっとわかっているのだろうから横須賀はそのままにすることにした。リンは事務所の前で待っていて、そのまま三階に三人で移動した結果が今である。自室というには随分とシンプルな部屋に生活感はない。
「病院っていうと俺よりお前じゃないのか」
「へ?」
ふと落ちた山田の言葉に横須賀は首を傾げた。強制的に終了させられた会話の浮上に、不思議そうに瞬く。山田の目線は横須賀の文字を見るままだ。
「正直テメェのがやばかっただろ。静岡の件でも言ったが、この仕事柄整理できる環境は持ってて損無いぞ。ツカサが多少見繕うから一度は」
「いりません」
はっきりと横須賀が断じた。一瞬山田の眉間に皺が寄る。困ったように笑ったのは、リンだ。
「そんな警戒しなくとも、今どき精神科なんて風邪ひいたら内科に行くのと同じくらい普通だよ。まあ、俺が見繕うのはちょっと違うタイプだけど」
「平気です」
横須賀の言葉に、ううん、とリンは頭をかく。必要な時に必要な場所へ行くのも大事だよ、と続けたうえで、リンは頭をかいた手を下ろし、膝の上で組んだ。
「そもそもさ、定期的に調整はいるもんなんだよ。この仕事柄。病院は勿論だけど、そのちょっと違うタイプの都合でさ」
硬い表情ではあるが、眉間にしわに乗った疑問の色にリンは笑みを深めた。なんともいいがたいんだけどね、と、そのまま言葉を続ける。
「横が何度かみているだろうおかしいもの。被害者の方っていうよりは、黒とかそういうやつのこと。あれをね、俺たちは『次元違い』って呼んでいる。『層が違う』、とも言うね」
ぱち、ぱちと瞬くことで言葉を噛み砕こうとするのは横須賀の癖だろう。聞く形に入ったのを見て取り、リンは横須賀の声なき疑問に答えるように首肯した。
「簡単に馴染む言葉で言えば化け物、怪異、異形。こちらの理屈では理解できない物。たとえば二次元のものが三次元をみることがあったとき、その厚みを決して理解できないように。正面から見た姿と側面から見た姿がまるで別物に見えてしまうように。決して理解できない『次元違い』。むこうからしたらこっちなんて理解する必要もないくらい些末なものかもしれないけれど、こっちが見続ければチャンネルが狂う」
「チャンネルが?」
横須賀の声から切迫感が抜け、言葉を咀嚼するような純朴な色が戻った。再度首肯し、リンは肩を竦める。
「単純な話、二次元のものが三次元になってしまったら、それは二次元に戻れないってことさ。俺たちの場合は三次元の存在って仮説だけど、いわゆるさ、四次元が時間軸じゃないかといわれているとかそういう問題じゃなくて、アレがなんの層にいるのかとか次元の数なんてまったくわからないまま、絶対的に理解できないものに触れすぎると人はそちらに順応しようとするらしいんだ。そうしてしまうともう元に戻れない。脳みその中なのか体のことなのかそういうのもはっきりいってぼんやりしたものだけど、とにかく頭の方に関してはそういうわけでこっち側にチャンネルを戻す必要がある。それを調整って言っているから、太郎が言っているのはそういうこと」
太郎だってそういう調整はするよ。穏やかにリンは続け、横須賀を見上げた。しかし先ほどのような反射のような拒絶はないものの、また緊張したような色がその顔に戻った故にリンは苦笑う。
リンが言葉を続ける前に、山田の溜息が雑に響いた。
「とりあえず今日はいい。帰れ。悪いが明日は仕事だ、休みじゃネェぞ」
「はい」
「あのガキとかやばいもんがあったら連絡しろ」
山田の言葉に、横須賀が眉をひそめた。視線を外していた山田が、横須賀を見上げる。
「なんかあったか」
「いえ。……ただ、その、秋くんの、こと、が」
そこで言葉が切れる。申し訳なさそうな横須賀を、山田はじっと見据えた。
「そっちは大丈夫だ。警察が保護している」
ゆらり、と横須賀の視線がさまよう。山田にとってそれでいいのだろうか。そうは思うが、言葉にして良いかわからない。山田の表情は見えず、サングラスの中には不安げな男の姿だけが映る。
は、と、山田が笑った。
「グレグソン、だったか」
「え?」
「物語のキャラクターを思い浮かべるってことは、それなりに信用しているんだろう。安心しろ、アイツ等は刑事だ。下手な連中に任せるよりまともな形は作るさ」
笑ったまま山田がソファに背を預ける。その名前は以前誤魔化すように横須賀がなんとか引っ張り出したものだったが、山田の言葉に横須賀は少しだけ笑んだ。
山田にとって信用に足りるなら、それでいい。便利と山田は言っていた。なら、この話をこれ以上案じたところで、意味はないだろう。
そもそも横須賀がどう考えようが、結果は変わらない。そんな事実がじくりと胃の内側に刺さり――しかし、横須賀は目を閉じなかった。
まっすぐと山田を見下ろす男の目を、見据える。わかっている。知っている。横須賀はなにもできない。手を掴むことすら、ろくに出来なかった。何をしても変わらないことも、知っている。
横須賀は今更ながらに自身の愚鈍さを、はっきりと思い知った。
「どうした」
「……俺、寝てても、すぐ起きます」
横須賀の言葉に、山田が眉間を寄せる。いぶかしむようなその動きを視界の端に入れて、それでも横須賀はサングラスに映る男を見る。
「だから、呼んでください。起きます、から」
「んな必要ねぇよ。俺は問題ない。テメェが、だ」
山田が面倒くさそうに言い切った。その左手は小さく握られている。横須賀は首肯した。
「いちおう、です」
「そーかよ」
「はい」
横須賀はそれだけ答えると、ようやく立ち上がった。部屋を見渡す。キッチンも食器棚もあるが、そこに入っているのはコップだけで箸すらない。フライパンどころか調味料も見つからず、蓋の閉じたゴミ箱が足下に。当然壁に貼ってある物はなにもない。テーブルにひとつだけある時計はシンプルなアナログ時計。ソファは広く、山田一人が横になれそうなサイズである。ベッドはないので隣の部屋だろうか。本当に何も無さすぎて、モデルルームのようだ。生活感がまるでない、死体部屋とは真逆の部屋。
「アパートに、居ます」
「おう、帰れ」
「失礼します」
ぎゅっと鞄を握りしめて、横須賀は深く頭を下げた。さっさといけ、と言う山田に、ようやく顔を上げる。
「横、気をつけて帰れよ」
リンの言葉に横須賀は眉を下げ、硬い表情で笑った。