5-13)傷
* * *
「病院行かないってなんでですか!!」
横須賀が叫ぶ。酷く青ざめた顔で詰め寄る長身の男というと中々迫力がある光景かも知れないが、対する山田はただ面倒くさそうに顔を歪めた。それどころか呆れを含んだため息までおまけにつけて、横須賀を見据える。
「何度も言わせるな。病院で見てもらう必要があるほどでかい怪我じゃネェんだよ。ヤバかったらツカサのツテに頼む」
「でも、血、血が、」
「たかが血だ。アレは俺を殺さないし、そもそも俺たちが逃げ出したのも病院からだろ。落ち着け」
落ち着けと宥められても、見た光景は消えない。同じ病院に行けというわけではない。ただ治療をしてほしいのだ、横須賀は。刺されたというのにやけに飄々としている山田が恐ろしいとすら感じてしまう。非常ベルに紛れて逃げ出すのではなく、いっそ刑事達と合流すればよかったのではないかという後悔すら浮かび、視界を歪める。
「でも、だって」
「でももだっても無い。病院は行かない。これは決定事項だ」
山田に断じられ、横須賀の唇が戦慄く。閉じてはいるが閉じきらずなにか言いたげな様子に、山田はもう一度大きく息を吐いた。
こつん、と、山田の拳が自身の腹をノックするように叩く。
「多少透け見えるだろうから今更なことだが、ワイシャツの下に防刃ベストを着てる。シャツ下に着れる程度だが物は悪くないから頭が無事ならこっちの致命傷はない。つーかそもそも怪我は右手だ死ぬわけネェだろそれくらいもわかんネェのか馬鹿かお前は」
山田の言葉はすべて尤もだ。病院に行ったところで簡易の処置で終わる。横須賀だってそんなことはわかっている。それでも、恐ろしかった。これではまるで。
「……ツカサが知っている限り、俺一人ってことはネェよ」
横須賀の思考をなぞるように、山田が静かに告げた。顔を上げると、眉間に皺を寄せたまま山田が視線を外すところだった。声とはあべこべの表情を追うように、横須賀はその顔を見つめる。
「俺の怪我が俺だけで終わることは、無い。病院に行こうが行くまいがな。お前がどこまでなにを心配してんのかはお前が言わない限り俺にも把握しきれネェが、そういうことなら杞憂だ、とだけ言っておく」
はくり、と横須賀の唇が開き、閉じる。山田の肩が上下した。今度は音もなく息を吐いたのだとわかる。
「まあ、どっちにしろ俺は保険証もねえし、病院には行けないから諦めろ」
「え」
「残念ながらどっかに失くした」
酷く素っ気なく言い切った山田に、横須賀は部屋を見渡した。病院を出てすぐ訪れた山田の部屋は、非常に整理されていた――というより、正直なにもないと言えるような部屋で、物を無くすようには見えない。
「飯塚さんがいるから必要ないってのもあるんだよな。太郎は面倒くさがりだから」
椅子に座って二人を見ていたリンが笑って言うと、山田が肩を竦めた。二人の中では当たり前というような会話だが、横須賀の表情は晴れない。
それどころか先ほどまでの困惑や焦りから悲哀を色濃くさえした。
「それじゃあ何かあったら」
「なんもねーよ。言ったように、アレは俺を殺さない。傷だって深くねーよ、ほら」
ぐ、ぱ、と山田が手を閉じて開いてみせる。動くだろ、という山田の言葉と一緒に横須賀はその手を掴んだ。
「傷が」
「触んな」
短く山田が告げても、恐ろしい心地で横須賀は話せない。ぎゅっと歪められた表情に、山田は鼻を鳴らした。
「まあ、そりゃそんなすぐ閉じたら化け物だ。傷はある。でも動くし神経は繋がってる。本当軽い怪我なんだよ。これ以上心配するならどの程度動くかテメェの前でチェックするぞ」
「う」
半ば脅しだろう。横須賀が呻くと、山田はニヤリと笑う。そう言われてしまえばこれ以上言葉を重ねられるわけない。
「まあ、怪我を恐れるのは悪いことじゃない。多少過剰でもそうやってヤバいもんからは逃げろよ、俺はテメェに構ってられネェしな」
横須賀が離した右手をひらひらと振ってみせると、山田は怪我のない左手で紙を手に取った。横須賀が書き記したメモだ。車の中で横須賀がなんとか書いたものなので読みづらいだろうが、山田が書き直す手間は必要ないと断じたので精査しない文字が並んでいるのが見える。故に、少し落ち着かない。せめてもう少し見やすく書き直したいとも思うが、無理に実行するほどの意志はなかった。
叶子と男が消えてすぐ、横須賀は第三安置室に走った。叶子と男の会話から男が山田がいることを知っていたのは明確だったし、そして男の手にべっとりと血が付いていた。これは横須賀の手首についた血からの判断なので、その血が男のものと考えられたかも知れない。けれども男の掴む力から横須賀はもっと別の想像をした。横須賀の焦りは当然のものだったとも言える。
結論から言えば、山田の姿は第三安置室にあった。扉には血の痕。大きさからいっておそらく山田の手。廊下の奥から扉に向かってしたたり落ちる血の量は少ないが、怪我をしているのがわかる。ということは山田は一度部屋から出て外で怪我をしこちらに戻ったことになるのだが、山田が詳細を語らないので横須賀の想像でしかない。
実際見た光景だけを言うのなら扉に付いた小さな赤い血の跡、第三安置室より奥の廊下から続く赤。開けば内側、ストレッチャーの上に秋はいなく――その下の床で丸くなるようにして山田が秋を抱きしめていた。
山田のジャケットでくるむように抱かれた秋は目を覚まさず、扉を開けたときに横須賀を見上げた山田の瞳は、サングラスに隠れて見えなかった。はくり、と開いた唇からなにが零れたのかも、音にならなければわかるわけもない。扉を開けて固まった横須賀を見た後、山田はもう一度秋を覆うように抱きしめた。細い声がした、と思う。けれどそれが何という言葉だったのかまではやっぱり横須賀の耳には届かず、わからなかった。