5-12)おじちゃん
「かみさまは、きょーこにごほうびをくれるの。おじちゃんは、いつもいいこいいこいってくれる。だからきょーこ、おとーさんいなくてもさみしくない、よ」
最後の言葉は本心だろうか。落とされた声と視線で、おそらく横須賀はその内心を悟る。しかし指摘しても意味はないだろう。新山はいない。そして居たところで、あんなことをしてきた人間に縋り続けることは不毛だ。
それよりも、引っかかることがある。
「おじちゃ、ん?」
「うん、おじちゃん。おにーちゃんのおじちゃんじゃなくて、かみさまのおじちゃん」
「神様ってこと?」
「ちがう、かみさまとおはなしするの」
誰だ。その疑問を口にする前に、横須賀は叶子の手首を掴んだ。叶子が長い睫をぱちりと揺らす。
「いかなきゃ」
「おにーちゃん、いっしょにいく?」
「え」
外に出る意味で言った横須賀に返った言葉は少しずれていた。一緒に。外に遊びに行く状況でないと叶子が理解しているかはわからないが、叶子の言う一緒には遊びにとは別だとわかる。遊びであれば、疑問で返す必要はない。先ほど約束したのだから。
ならばどこに。
「おにーちゃんいたいいたい。きょーこはお願い叶える。おじちゃんがね、いいこいいこしてくれる。おにーちゃんおなまえないない、かわいそーだからね、きょーこのだから、いっしょにお願い叶える子、する?」
叶子が反転する。するりと抜けた手首をあわてて握り直し、左手で踏まれたイヤホンを横須賀は拾い上げた。とにかく出来ることをするしかない。扉を出た横須賀は、しかし足を止めてしまった。
穴。いや、そんなはずはない。かぶりを振った横須賀は、それが汚れだと判断した。似たようなものを、巡り池でも見たじゃないか。黒い汚れだ。それがなぜ突然出来たのか、といったら横須賀にはわからない。あの先ほど見た光景が浮かぶが、しかしそれは可能性でしかない。ぬたり、と、黒がぬめりまた首をもたげるような気がして、横須賀は顔をしかめた。
逆側からと言った山田の声が浮かんで、しかし消える。逆もなにも、もうここは真正面だ。いや、ただの黒い染みで、とにかく今は。
「おにーちゃんも、いっしょ」
叶子が手を引く。ぐるぐると回り始めた思考はすぐに霧散した。慌てて横須賀は、引かれた手を引き返した。
「だ、めだ、よ」
当然の否定だ。けれどもそれは叶子にとっては当然ではないようで、きょとりと不思議そうなまあるい目が横須賀を捕まえる。
「だっておにーちゃん、ないない」
胃の内側にちくちくと針が刺さる。知っている。横須賀は、実感でもって知っている。叶子のような環境にはいなかった。それなのに横須賀は、叶子以上に求められなかった。
「きょーこといっしょ」
「一緒に、なら、こっちにいよう」
「だれもいないのに?」
真っ黒い瞳が、横須賀を映す。喉がはりつく。眼球が乾く。
「……俺は、目、だから」
喘ぐように横須賀は声を絞り出した。いなくても問題ない、肝心なときに使われない。それでもいたら便利だと、使ってやると、山田は言う。だから。
「きょーこは、目じゃない。叶えなきゃ、叶子じゃないの」
「ごめん」
身をよじる叶子を抱きあげる。逃げ出されたら追えない。山田がせっかく終わりにすると言ったのに。結局あれからどうなったのか。
「だっこはこんどでいーの、ね、おにーちゃん、おじちゃんが」
「ごめん、あとで」
「なにが?」
穏やかな声とともに、叶子が腕から抜け出した。横須賀が振り返ると、壮年の男が笑んでいる。
はくり。声を出せない横須賀に、男は首を傾げた。
蛇のような瞳は、叶子と同じ黒。それでいて夜空と言うよりはがらんどうの、まるであの気味の悪いなにかを思い出すような、ぐにゃりと歪んだ色。
「おじちゃん、ごめんなさい。おとーさん、おこられちゃった」
「ん? ああ、仕方ないよ。彼は君と違っていい子じゃなかったしね。はやく開けすぎちゃったこっちも悪いさ」
男が叶子の頭を撫でる。叶子が目を細め、男の首にしがみついた。
「君は誰だろう。誰だっけ」
「え」
男がううんと首をひねる。瞳は夜の蛇じみたものを感じさせるが、しかし美しい顔立ちだった。壮年であるということはわかるが、想定できる年齢よりも顔立ちは人形じみていて、皺ですら彫刻の芸術じみたものがあった。通った鼻筋の下、薄い唇が弧を描く。
「ああ、たっくん」
「へ? 違います」
「そうかそうか、じゃあ」
「おじちゃん」
なにやら勝手に合点いった様子で横須賀に手を伸ばした男に、叶子が声をかける。ん? と首を傾げる男は、穏やかなのになぜだか目を離しがたい。
笑っているのに、ずっと蛇の目がこちらを睨むような心地。
「おにーちゃんは、だめ」
「だめ?」
「だめ」
むい、と叶子が男の頬を摘む。男は笑いながら叶子を見ているのに、横須賀はまだ視線を外せない。
「一人は寂しいよ、治さなきゃ直さなきゃ、あの子が泣いている、なおしてかえさなきゃ、さみしいからつかわなきゃ、寂しいよ、準備しなきゃ、なおさなきゃ、そうだあのこがね」
穏やかに笑ったまま、男が繰り返す。だめーと言葉の合間合間に叶子が言うのだが、男はお構いなしに繰り返した。
駄目だ。叶子の言葉とは違った意味で、横須賀はその言葉を内側で呟いた。叶子に手を伸ばす。
「すみません、その子、俺が」
「君は誰?」
横須賀の手首を、男が掴む。笑っている、のに笑っていない。ぬとり、と手首を伝う。
「あ」
ぬらぬらとした液体に、黄色が重なる。ぶわ、と吹き出た情報が横須賀の肺を圧迫し――しかし、止まる。
これは違う。
「なに、が」
「なに? なにこれ、なに? ああ、ああ、準備がたりないんだった。準備しなきゃ、あれは誰だっけ? はやくしなきゃ、なくなっちゃう、なおしてかえすんだよ。さみしいからつかうんだよ。使う。使ったらなくなっちゃう。返す? 返すってどこだっけ。そう、そう寂しいからね」
「……叶子ちゃんを、返してください」
支離滅裂でどうしようもない。言葉を遮るように、横須賀が低く声を出した。返して、という言葉に叶子がぱちりと瞬く。
「この子は君のじゃないでしょう」
男の言葉は支離滅裂なのに、突然戻ってくる。はっきりと断じられ、横須賀は息を呑んだ。
「君のものなんてあるの?」
「おにーちゃんはきょーこので、きょーこのおにーちゃんのはおじちゃんなの」
叶子の言葉に横須賀は息を呑んだ。そうだ、山田は。新山と話をしようとした山田はどうなって。
「おじちゃん?」
「むこーの」
叶子が秋のいた場所を示す。ああ、と男は目を細めた。
「なおしてかえさなきゃ、みつけたんだよ。ようやくだ。寂しがるからね、泣いちゃうからね。その為には準備がいるんだ。寂しいのは可哀想だから、もう一度、今度こそ。使ってあげなきゃね。まだ準備が足りないんだ。つかったら返さなきゃ。返す? 誰に? 誰だっけ、誰だっけ。君は誰?」
男が横須賀を見上げて尋ねる。ぐじゃり、と手が離れ――
横須賀の手首にあるのは、赤。
「今度こそおしまいにしないと、泣いちゃうからね」
非常ベルの音、人の足音。そして。
「随分違ったからびっくりしたよ、――」
男と叶子が黒い世界に消え、横須賀は第三安置室に駆けだした。
カビ臭さに混じった鉄の香りを掴もうとするように。