台詞の空行

5-11)嫌悪*

 新山が叶子をくるりと反転させ、後ろから肩を抱く。横須賀の方を向いているのに、叶子の表情が見えない。

 子供に聞かせる話ではない。女性に聞かせる話でもない。娘に聞かせるなんて、そんな。なんで。心配ならせめてこんな形でなく、いや突然来てさらおうとした点では横須賀は何もかも言い切れないが、それでもこんな、

「もう随分古いが、腐っちゃいない。まさかお前がこんな、なあ!」

 ははははは。響く笑いに、喉にこみ上げた酸味の奥、肺の内側が強く掴まれた。手のひらが震える。ざわつく。慕う父親に肩を抱かれても、叶子は身じろぎしない。

 首筋の裏を虫が這う。絞られた肺が狭くて呼吸が苦しい。酸素が足りない。胃の内側が重い。頭がぐわぐわと揺れる。

「貴方、は」

 笑い声の中に紛れた横須賀の声は、意外にも低く静かだった。新山が横須賀を見下ろす。

『横、考えるな』

 耳元で声が反響する。リンの固い声が、ぐわり、ぐわりと歪む。内側にある山田の声と重なる。

 はくり。酸素が足りない。酸素が。

 新山が笑う。

「知らないで抱いたのか? もう十年以上の使い古しだ。まあすぐ終わるような奴では気付かないか。は、はは。お前もただのクズなのによく捕まえたなァ」

 リンがなにか言っている。けれど新山の声と、耳の中の心臓が騒いでよく聞こえない。頭が痛い。

 横須賀は愚鈍だ。自覚している。けれども愚鈍であり続けるには、見てしまった。知ってしまった。

『ごはんにすればおくすりになるの。またさいしょから、はいたいいたいなの。ぎゅーでずーんでやーなの』

 叶子の声が、くるりと反転する。

 なぜ自分はあのとき気付かなかったのか。何故自分は手を取らなかったのか。子供なりに彼女は言っていた。助けてが言えない子供の声を、自分は。

「ただの道具が面倒に色気付いたもの、」

 声が出ない。どうすればいいかわからない。新山の胸ぐらを掴んだ横須賀の手は震えていた。長身の横須賀に突然見下ろされ、ひくり、と新山が口角を歪める。

 肺が苦しい。

「は、はは、止めろよ」

 ひきつった声。整った顔が歪んで、その瞳に色の失せた誰かがいる。だめだ。この人はだめだ。わからないけれど、そこだけはわかる。

「つ、かうなら使えばいい。このガキに執着はない。これがあるだけでいいんだ。論文と薬を得るためだけだ。貸してや……ぅ」

 捻れた布が指に食い込む。鬱血する。指先が冷える。でも駄目だ。駄目だ。吐き気がする。直臣の部屋で見た文字が踊る。

 神子懐胎の儀式。血縁者の姦淫により神と通じ通り子を成す儀式。その細かい意味も、どのような結果を呼ぶかもわからない。けれども、それを成すための行為が、姦淫、というなじみ無い言葉が、目の前をぐらぐらと揺らす。

 何のためかわからなくとも、それでも、おそらくただそれだけの為にこの男は、娘を。こんな。こんな非道なこと。こんなやつがいるから、そいつはずっとひとりだった。たかだかそれだけの欲望で。

「おにーちゃん」

 これを無くさないと、駄目だ、これは駄目なんだ。これがあるからそいつはずっと、ずっと、こんなのが

「おにいちゃんっ」

「……あ」

 叶子の声で、横須賀は目を見開いた。一緒に、その白んだ手も開かれる。どさりと落ちた音に視線を落とせば、新山が喉を押さえてぜえぜえと呼吸を荒くしていた。

 指先がしびれている。肩で息をする新山に、先日の山田が重なった。

 血の気が引く。

「お、おれ……」

「だいじょうぶ。ね」

 叶子が横須賀の近くに並ぶ。冷や汗が吹き出て、横須賀は揺れる視界をなんとかとどめた。

『横』

「あ、すみませ」

『落ち着いたなら良い。そのクズ野郎は放っておけ。向こうが』

 そこで言葉が切れた。理由がわからず不安になる。山田は横須賀と違いイヤホンをしていないので、連絡するためではないだろう。続きを問おうとして、しかし見上げる新山の目つきに横須賀は声を呑んだ。

「は、はは、馬鹿な奴」

 またあの話になるのなら、聞かせるわけにはいかない。横須賀は叶子の腕を引いて、視線を外す。

「……出ます。貴方の話を、俺は聞けない」

「そいつは化け物だぞ!!」

 叫んだ新山を、横須賀は見下ろした。何を言っているんだ、というのが正直な感情だろう。腹から出たあの異物を知っている。だからおそらくそれを言っているのだろうとは思うが――それでも横須賀にとって化け物は、新山の方だ。

 自分の欲望のために、十年以上も。考えたくもない。恐ろしい。吐き気がする。ひどくざわざわと肌が粟立つ強い感情がなにか横須賀にはわからない。息が詰まる。頭が痛い。

 新山が立ち上がる。赤い鬱血は横須賀の罪悪だが、案じるよりも警戒する心地の方が強かった。自身の非道さをこめかみが責める。

「そいつは化け物の入り口だ、箱だ、化け物の巣だ。俺はそいつの薬さえあればいい。化け物が神だとか俺はどうでもいいんだ、それさえあれば俺は認められる。化け物なんざ」

「おとーさん」

 叶子が静かな声で呼ぶ。新山の目は叶子を見ない。ふらりと近づいた新山から隠すように、横須賀が叶子を扉の端にやる。

 結局聞かせることではない。横須賀は扉に手をかけた。

「俺の道具を盗るのもいいが、どうせそいつは帰ってくる。アンタは化け物に突っ込んで食われるんだ、は、はは」

「おとーさん」

 諫めるような叶子の声は届いていないのだろう。横須賀はしかめた眉を申し訳なさそうに下げた。

「ごめんね叶子ちゃん」

 抱えてしまおう。そう考えて横須賀が叶子の腕を引くが、叶子は動かない。じっと新山を見上げる瞳は、真っ黒だった。

「時間になったら帰ってくるんだろう、叶子。お前は俺の為だけだからなあ。その為だけに生まれた、あのババアもよくやったよ。はは、化け物に会いに帰って」

「おとーさん、ちがう」

 はっきりと叶子が言い切った。新山がぴたりと笑いを止める。眉をひそめた叶子の瞳は、感情を語らない。

「ばけものじゃない。かみさま」

 叶子の言葉に、新山が顔を歪める。横須賀は扉に置いた手に力を込めた。

「ああ、神だ。それだけは正しいさ。化け物の神だ」

「だめだよおとーさん」

 新山が近づく。横須賀は叶子の手を強く掴んで、今度こそ引き寄せた。これ以上は不毛だ。山田のことだって気にかかる。さらったと騒ぎ立てるなら問題だが、帰ってくると言っている分には何とかなるはずだ。

 扉を開ける。ごう、と、風が吹く。

「俺に利用される為だけの神だ! お前もあの化け物も、俺の為に」

 黒が、新山の体を飲み込んだ。

「え」

 ひゅ、お、と。空間を裂く音と自身の呼吸音が重なった。瞬くことも出来ない。

 あの大きな、そこになにもかも残さないような黒が津波のように。それでいて絡む触手で補食するようにして新山に押し寄せた。黒が重なった場所から、色が混ざる。黒に染まる、ではない。新山の色が黒に混ざる。まるでそこから溶けていくようで、それでいてまるで戻っていくような。見開かれた瞳が横須賀から叶子に移る。ぐちゅ、ごり。音が遅れて聞こえた。

「だめっていったのに」

 叶子が横須賀の腕を引く。引かれるままに屈んだその体に手を置いて、叶子はコードを引っ張った。イヤホンが落ちる。リンが何かを言ったかもしれない。拾わなければと更に身を屈めると、真っ黒い大きな瞳が、新月の夜のように横須賀を見つめていた。

 黒い。ごず、ぐじゅ、ずる。ごり、じゅる、びちゃ。

 声が出ない。ぱきん、と、叶子がイヤホンを踏んだ。

「きょーこね、おとーさんのお願いを叶える子、だったの」

 ひゅ。勝手に浮かんだ恐ろしい妄想に息が苦しくなる。ぞわりと粟立つ肌と、鼻の奥に酸味が上る。

「おとーさん、きょーことあそんでくれなくてね、いそがしーの。でもね、お願い叶える子、きょーこはいいこなの。いいこ、いいこ。ずーんもげーげーもがまんできる、きょーこはつよいこ、叶える子」

 歌うように紡がれる言葉はあまりにも惨い。横須賀の表情を見て、叶子が眉を下げた。黒い瞳の中の情けない顔はひどく頼りない。

「おにーちゃん、やっぱりいたいいたいするのね」

 いいこ、いいこ。叶子が横須賀の胸を撫でた。ず、ず、ず。マーブル模様のように混ざり合った黒だったモノを、残りの黒が飲み込むようにさらに混ざる。

「きょーこはだいじょうぶ。おとーさん、かみさまおこらせた。おとーさんわるいこだったからだめ。かみさまはね、かみさまなの」

 横須賀の胸を撫でていた細い指が、心臓の上で止まる。

「おとーさん、たまにほめてくれるの。でもね、どんどんかみさまにひどいこというの、きょーこにばけものいうの。かみさまはかみさまで、きょーこは叶える子なのにね」

 黒が、ずるりと叶子の足下に這う。思わず叶子と黒の間に割り込もうとした横須賀に、叶子はそっと手で制した。首を横に振る表情は、幼さよりもまるで慈愛のようで。

「きょうこちゃん」

 叶子が黒に手を伸ばす。もう、新山の痕跡の色は消えていた。その液体は水と言うよりも粘性を持ったスライムのようでもあった。それでいて、もっと透明なような不可思議さ。叶子の手に首をもたげるように伸びたそれは、腕を這うことなく、そのままがこんと叶子の口を押し広げ、中に進む。ひ、と、横須賀の喉奥で、ひきつった悲鳴が漏れ損なった。

 びちゃ、ず、ぞぉ。明らかに異常な質量が、叶子の口内に収まる。いや、通過する。じゅる、びちゃ、ぐず。先日見た時とは異なり、腹に変化はない。それはつるんと収まり、顎が元に戻る。ぺたぺたと自身の顎関節を触る姿は幼い少女のようで、一瞬前の異常を幻のように思わせた。

「きょーこは叶子」

 化け物、と言った新山の声が、叶子の声で押しつぶされる。叶子は、叶子だ。それは確かで、だからこそ横須賀は理解できなかった。なんで、こんな子供が、こんなめに。

 いたいいたい、と叶子が称する表情をしているのか、叶子がまた眉を下げて笑んだ。それから横須賀の心臓の上、ポケットの異物を叶子が叩く。横須賀が体を強ばっても、叶子は気にした様子を見せなかった。