台詞の空行

5-10)誤解*

 先日の一件で叶子の持っているモノがあまりに恐ろしかったからこそ、山田から離れることに一つの安心が生まれたのだろう。秋の状況については危険だが、山田曰くここでは秋は死なない。横須賀にとってあのよくわからないモノは、死を招くものだ。そして、おそらく叶子自身も。直臣が赤黒い汚泥になった理由はわからず、それを襲ったものがなぜああなったのかも、同じように襲われながらなぜ山田は首を絞められるにとどまったのかも、横須賀にはわからない。けれども緑色に崩れた時にいた叶子、直臣を違う形に変えた叶子、そして叶子の腹から出たおぞましいもの。巡り池の話の時はさすがにいなかったが、それでも横須賀が遭遇した異様な光景に叶子がいたことが横須賀に不安を与え、だからこそ今安堵を運んでいたのだ。

 叶子が死を招くもので、黒も死を呼ぶ。それでも今秋の中にあるそれが死を作らないのならば山田は大丈夫だと思ったのだ。愚鈍な横須賀が見てきた故に導いた想像は、その正誤がどうであれ横須賀にとっては正しい。祈るような願望と、その実横須賀に出来ることがそれしかないからこその妄想だったとしても――その時横須賀は、とても珍しく自分が出来ることを確信して、命じられたことをまっすぐ信じ責務と思っていた。

 戻りたがったら可哀想だけれど、横須賀の体躯で止めることはできるはずだ。大丈夫、これでもう、あとは山田さんと、それから先はきっと刑事さんたちが。リンさんだっている。自分が何もしなくても、叶子を連れ出しさえすれば。それが出来るのは自分で、だから。

 だから、横須賀は愚鈍なのだろう。廊下に出た叶子が右手側に手を引いて、来た道を戻る事に安堵した。何も変わらない。第三安置室から山田の声は聞こえない。イヤホンからノイズも聞こえない。叶子の小さい手が、横須賀の手を握りしめる。

 思えば、手を引かれるなどいくつあったと言うだろうか。込められた力に、ふと横須賀は思考し、眩しそうに目を細めた。

 祖母は目が悪かったし、本に興味のない人だった。夫が愛したものだから厭うことはなかったが、管理の仕方もわからずあまり書庫には寄りつかなかった。書庫にいる横須賀の手を引いて外に出すこともなかった。

 亡き祖父の友人が、年に一度書庫を片付けにくる。連れられてきた孫娘はおそらく叶子と歳が近く、あの場所で横須賀に話しかけてきた貴重な人ではあった。しかし横須賀が彼女の手を引く必要はないくらい幼少時からしっかりしていたし、彼女も横須賀の手を引くことがなかった。祖父の友人の孫。お互いそれくらいで、知り合いなだけだ。だから当然、手を引く機会があるわけなど無い。

 人気ひとけのない道。叶子の手が、横須賀の手を握る。

 山田に雇われてからだ。手を握ると言うより掴むの方が適切かも知れないが、山田の手が横須賀を掴むし、横須賀も山田を掴んだ。叶子も、同じで。今この手に小さな心臓があるようだ。叶子の内側に恐ろしいものがあるとか、山田の終わりとか、横須賀にはわからずどうしようも出来ない。けれどせめて、この手だけは――

 くん、と、リネン室の前で叶子が立ち止まった。

「いってきます、だけ、してくる。まってて」

「え、あ」

 鍵が閉まっていた場所だ。中は見えない。けれど叶子の物言いからそこにいるのが誰か、はわかる。

 暖かな手がするりと離れた。

「すぐだか」

 最後の音は驚く声で消えた。ら、なのかわ、なのかわからない声で、開いた扉にそのまま叶子が転がる。

「叶子ちゃんっ」

 慌てて横須賀が駆け寄る。廊下の明かりが差し込んで、中を照らす。真っ黒な室内には香のかおりが満ちていた。

 けほ、と噎せた横須賀の上に、影がかかる。

「おとーさん」

 見上げた叶子の呟きに、横須賀ははっと顔を上げた。

 立っていたのは、痩身の男だ。眉間にある皺は深く、反対に眉尻が持ち上がっている。山田の眉は細く鋭いが、あの作ったように整った形とは違いその眉の形が見せるのは濃い激情のようだった。目の下に出来た皺が本来よりも深く強いだろうと察することの出来る表情と、それとは対照的に冷たい真っ黒な瞳。どうすればと考える前に、男は眼鏡を右手で覆うようにしてかけ直した。

「あ、すみませ、」

「誰だ君は」

 頭を下げると冷たい声が降り注ぐ。足下の革靴からもう一度見上げれば、スラックスに白衣。胸元には新山の文字。不機嫌に押しつぶされそうだが、それでも壮年だが整っているとわかる顔立ち。なにより、先ほどの叶子の呟きがすべてを語っている。

「お、れは」

 なんと答えればいいのだろうか。耳元でノイズ。声はない。喋るなという命令もないし、答えるべき事は一つだが――逡巡する横須賀の前に、叶子が立つ。

「きょーこのおにーちゃん、なの」

 叶子の体では横須賀を隠せるわけがない。それでも間に立つ叶子は、まっすぐと新山を見上げた。冷めた目が、叶子を見下ろす。

「何を言っている」

「きょーこのおにーちゃん、かくれんぼ。ちょっとだけ、あそびにいく、から。ごよーじはおぼえてるけどね、ちょっと、ちょっとだけ。だってまだおとーさん、おじちゃんとおはなしする、でしょ。ね、おとーさん、いい? きょーこ、おにーちゃんと、ちょっとだけあそぶ。お願いは、ちゃんと叶えるから、ちょっとだけ、いってきますするの。すぐおわる、かえる。だからいってきます」

 子供独特の、並べ立てるように流れる言葉。興味なさげに眼鏡の奥の瞳を細めた新山に、叶子が俯く。

「いってきます、するから」

「なにを馬鹿なことを言っているんだ」

 低い声が叶子の声を押しつぶすように重く落とされた。続いたのは短く強いため息。嘲笑にも似ていたが、新山は笑っていない。

「元々の阿呆が更にイカレたか。結局そいつはなんなんだ。お前の兄? 馬鹿なことを。お前は」

「あの!」

 遮るように出した声は横須賀が思ったよりも大きく出た。ひざを立てて、叶子の隣に並び見上げる。叶子が横須賀の腕の後ろをそっと掴んだ。

「俺、横須賀一、です。叶子ちゃんと前、かくれんぼ、して、今日も叶子ちゃんに会って、出来たら一緒にお話ししたくて、」

 新山が横須賀を見下ろす。見てくれる。だから大丈夫。叶子の父だ。叶子の求めた人なのだ。見ない人ではない。見ると言うことは、思うことだ。興味を持っていないわけではない。

 縋るように信じる横須賀は、ある意味で愚かだろう。それでも横須賀にとって見てくれることは、それだけの意味があった。

「勝手に入って申し訳ありません。お子さんがご心配かと思いますが、もしよければお時間、を、頂戴したく」

 最後の言葉が思いつかず、横須賀はそこでもう一度頭を下げた。叶子の髪が視界の端で揺れて、叶子も頭を下げたのがわかる。

 ふん、と鼻を鳴らす音に、横須賀は顔を上げた。上げた瞬間、新山が左側だけ歪めるようにして笑った。

「かくれんぼ、ね。おいしゃさんの方じゃないのか?」

「へ?」

 嘲るような言葉に、横須賀は間の抜けた声で返した。つい叶子を見る。叶子も顔を上げていたが、視線は新山に向いていた。

「おいしゃさんごっこが好きなんですか?」

 不可思議な違和感をそのまま疑問に乗せる。違和感ではあったが、少しだけ横須賀は安堵もしていた。子供が好きな遊びを言葉にできるのなら、思ったよりも悪い関係ではないかも知れない。――あの爪の件を考えると素直に肯定まではできないが。

 それでも叶子は父親を求めているのだ。ならば、かけらでもある好意は好ましい。

 ただ不可思議なのは、見下ろす新山の表情が明らかに嘲りを乗せていることだ。娘の好きな遊びを知らずに願う男が滑稽なのだろうか。きょとり、きょとりと瞬いて、横須賀は首を傾げる。

 新山が叶子の手首を掴んだ。一歩踏み出す叶子の手が、横須賀から離れる。後ろ姿で表情は見えない。

「この阿呆に近づく男がいるとは思わなかったが、まあこの見目だしな。誰にでも股を開く奴だったか、ははは」

 一瞬、理解に遅れた。しかしそれはたった一瞬で、横須賀は結局理解してしまった。

 目を見開いた横須賀から、血の気が引く。

「え、あ、違います!!」

 確かに年頃の少女だ。言葉遣いが幼いと言っても、見目だけで言えば叶子の体は十二分に成熟している。下卑げびた言葉選びに横須賀は自身の腕を掴んだ。気持ち悪い妄想に、自己嫌悪と吐き気が喉にのぼる。

「本当にただ俺はそんなことしなくて、ちがう、ちがいま」

「色気のある声を上げない奴だが、具合は良かっただろう?」