台詞の空行

5-9)眼孔

 言いながらも横須賀はどうすればいいかわからず動けなかった。瞼の裏にあれがある。脈はあると山田が言った。呼吸も。

 でも、目の中。あの中を黒が満ちていて、それでどうして、

「どうすれば、あれ、中から、」

 ださなきゃ。漏れ落ちた呟きに、手がぐんと下に向かって引かれた。え、とそちらを追うように横須賀が視線を向けると、山田の白い顔がある。

「山田さ、」

「諦めろ」

 はっきりとした言い切りに、ひゅ、と喉が鳴った。頭の中で肉塊がごぼりと変形する。息苦しさで秋を見れば、秋はまだ変形していない。

 まだ。

「どういう状況かわかんネェが、俺たちにはまだアレへの対応するすべがないのは事実だ。来る前に話した通り新山は移動先を狙うだろうからまだ死ぬことはないだろうが、ああなってどうにかできる方法も浮かばないし、その為に調査内容を変えることは出来ない」

 静かに山田が告げる。横須賀が動き出さないように握る手が、横須賀の手の中の心臓と重なる。横須賀ははくりと口を開け、しかし言葉を出せずに喘ぐように呼吸をしただけだった。

「テメェに任せるのは新山のガキだ。俺は、俺の目的のためにコイツを捨てろと言っている。命令だ」

 区切るようにして山田が言う。でも。そう声に出そうとして、横須賀は歪んだ顔を更にぎゅっとしかめた。

「聞けないなら帰れ。お前は、いい」

「行きません」

 横須賀が断じ、山田が手の力を緩める。山田を押さえようと握っていた手をそれに従うように横須賀は離した。強く握ったせいで白い手を山田が軽く握っては開く所作で直し、秋を見る。

 秋は目を覚まさない。

「……もし可能なら本かノート。見ただろうお前」

 山田の呟きに横須賀が小さく「え」と声を漏らした。山田は横須賀を見ていない。

「呪文」

 唇の動きが小さく、最低限で落とされた声はかろうじて横須賀の耳に届いた。こくり、と横須賀は頷き――山田が見ていないのであわてて口を開く。

「み、ました」

「おんなじようなものがあればそれを。新山のガキが優先だが、もし、もしも偶然見つけたらそうしろ」

「はい」

 山田が息を吐いた。秋のストレッチャーがある足下にしゃがみ指先で床を撫でる。なにもない床を見る山田の背に落ち着かずそばに行こうとすると、扉を指し示された。

 今更のようだが指示に従う。ただ、秋の中からいつあの黒がこぼれるのか、下を見るためにさらしたその首筋にまた黒が伸びないのか不安で、後ろ歩きのような形で横須賀は動いた。

「秋、眼孔に『子途こず』有。口内未確認、外部に流出無し。秋のいるストレッチャー下の床、視認及び手で触った感覚では異常無し」

 こず。震える手で鞄の外側にあるポケットに手を入れる。手探りで見つけた付箋に短い手帳用のペンで書き殴った。名前を書いて何になるわけでもないが、横須賀にとってそれが出来る唯一だ。

 山田が立ち上がる。壁を確認しに動いたので、秋から少し離れる形になった。そこまですればあとは調べる物もさほど多くないだろう。安堵し、扉に向き直る。閉まっていた扉を薄く開けようと手を掛け――

「っ」

 大きくて真っ黒い夜色の瞳が、扉の隙間から横須賀を見上げ微笑んだ。

 心臓が喉奥で跳ねる。

 きょうこちゃん。名前を呼ぼうとして、口元で立てられた人差し指に横須賀は反射で息を呑んだ。言わなきゃ、行かなきゃ。バクバクとうるさい心臓が内側で浮いている。

 叶子は指を立てたまま、扉の隙間から左手を伸ばした。細い手がぬるりと伸び、横須賀のシャツの裾を掴む。そのまま下に向かって引くような力につられるようにして、横須賀は膝を曲げて叶子に顔を寄せた。

 声が出ない。少しだけ、扉の隙間が広がる。

「おじちゃん、わるいこ?」

 ひゅ、と喉を鳴らし、横須賀は首を横に振った。潜めた声は山田の方まで届かないようで、心臓に体が揺らされるような拍動が横須賀をさいなむ。

「きょーこ、おにーちゃんのおじちゃんは、あんまりすきじゃない」

 むぅ。とがった唇は子供らしい不満だろう。しかし横須賀はその愛らしさに微笑むよりも、表情を固くした。

 鞄のベルトが捻れる。はく、はく、はく。三度喘ぐように動いた唇から、細く息が漏れた。外に出した分の酸素を、同じように横須賀は吸い込んで口を開く。

「じゃ、あ」

 漏れた声は小石につっかえて転んでしまいそうなほどままならない細い声だった。ひきつって裏返る声が心臓を揺らす。ぱちくりと横須賀を見つめる叶子に、そのことを責める様子が無いのは幸いだった。

 もう一度、横須賀は息を呑んで細まった喉から音を出す。

「おそとで、あそ、ぶ?」

 潜めた声。それでも叶子よりは大きめに出した声が、山田に届いたかわからない。叶子は大きい瞳を更に大きくして、横須賀を見上げた。

 届いて。けど、気付かないで。

 山田が横須賀の方を見ても叶子がそちらを見ることがないように、出来るだけ体で覆うようにして叶子の前に横須賀は立った。見上げてくる叶子の大きな瞳はなにもかも取り込むようで落ち着かないが、前のようにならないのならまだマシだろう。それに、横須賀の言葉で煌めいた瞳は無邪気な喜びを見せている。

 驚いた瞳を弧に変え、それからゆっくりと嬉しそうに持ち上がった叶子の唇が開く。あ、という音が零れ落ち、しかし『あそぶ』という言葉を形にしきる前に再び閉じていった。口の動きに従うように、煌めいた瞳もうつむきに変わる。

「……きょーこ、おてつだいあるから、だめ」

 悲しそうに呟いて、叶子が横須賀の裾を握りしめる。くしゃくしゃに歪んだシャツを叶子の手ごと右手でくるんで、横須賀はさらに身を屈めた。

 歪んだ口角を、笑みに変える。いびつな形は、祈るようでもあった。

「ちょっとだけ、ね」

 遊びたいな。宥めるように続けられたささやく声に、叶子は瞳を左右に巡らせた。それから考えるように長い睫が伏せられ、再び持ち上がる。

 夜空の中で、星が揺らめいている。

「じゅんび、とちゅう。おじちゃんも、きてる。おとーさんとおはなし。ちょっと、かかる。から」

 羅列する言葉。そうして続いた、いいかな、という言葉と煌めく瞳に、横須賀は首肯した。お父さんとお話という言葉が気になるが、なによりもまず叶子を山田に近づけたくないし、叶子を運べ、が山田の指示だ。

 これだけでも出来れば。首の後ろ側から秋のいる方がざわざわと粟立つ心地だが、山田に出来ないことを横須賀が出来るわけもない。黒は出てこない。秋を思えばあまりに非道な思考だと自覚しながらも、山田の首を思うと唯一の幸いとも言えて横須賀は自身の暗い感情に顔を歪めた。

 せめて、これだけでも。縋る心地で叶子の小さな手を握りしめる。いいかな、と期待に煌めく瞳で呟きながらも戸惑いが残る瞳に、青い顔をした非情な男の顔が映り込んでいて、横須賀は歪んだまま笑みを浮かべる。

 口にすることの無かった言葉が、唇からこぼれ落ちる。

「俺は叶子ちゃんと遊びたい、な」

 決して人に言うことの無かった言葉だが、きっと叶子が望むだろう言葉だと半ば確信じみた心地で横須賀は理解していた。馴染まない言葉は戸惑いに揺れていたが、その一文だけで十分だったのだろう。叶子の瞳が丸くなる。

 驚きののち、飲み込むにはその単語自体が大きすぎるような表情が長い睫を震わせる。きらきら、ゆらゆらと幸せに満ちた夜空は本当に零れてしまいそうなほどだった。

 くしゃり、と幸せの弧をいて、叶子が頷いた。

「あそぶ」

 声は潜めたままだが、言葉ははっきりとしていた。手を引く力は強い。そのまま外に出そうになるのを、横須賀は慌てて止めた。

「ちょっと、出ます」

 山田に声をかけると叶子が不満そうに眉をひそめたのがわかり、横須賀は先ほどの叶子を真似るように口元で人差し指を立てた。唇をとがらせた叶子が、倣うように空いた手でもう一度自分の唇の前で人差し指を立てる。横須賀が首肯すると、叶子も神妙な顔で首肯した。

「行ってこい」

 山田の短い返答が横須賀の背を押す。横須賀が出る理由は一つしかない。先ほど事務所に行くよう言われたが、はっきり横須賀は否定した。だからこそこの言葉の意味はひとつしか示さない。

 山田はきっとわかっている。だから、これで大丈夫。はねる心臓と一緒に横須賀は叶子と廊下に出た。とたん、叶子が嬉しそうに破顔する。

 叶子と外に出て、少しでいい。少しでいいから遊べばいいのだ。遊ぶなんて自分には馴染みがなくて何をすればいいかわからないけれど、かくれんぼは流石にどこに行かれるかわからないから無理だけれど、でもきっとなにか出来る。

 横須賀は愚鈍だ。見ることしか出来ない自覚もある。それ故に山田を一人にすることを憂いながらも、ほんの少しだけ安堵していた。