台詞の空行

5-8)地下

「病棟には誰もいないな?」

 矢野が出て行ってすぐ、山田が短く横須賀に尋ねた。もう一度見上げて、横須賀は頷く。影から見ていたら絶対とはいいきれないが、人影はない。カーテンが閉まったままなのでそれ以上はわからないが、出来る範囲の確認で良いと事前に山田は言っていた。

「いません」

「地下に動くぞ。階段下りるときにイヤホンつけろ。……伝えた電話番号は刑事の連絡先だ。以上」

 最後の言葉は横須賀にではなくリンに向けた言葉だろう。山田は盗聴器を身につけており、その音を聞くのはリンだ。

 横須賀も同じように端末を身につけているが、横須賀の場合は通信機だ。とはいえどちらの状態もリンが把握できるようになっていて、記録も残るとの事だった。

 実のところ、こういう状態は初めてだ。これまでの事件はすべてその場その場山田が判断し、調査は山田の頭の中が多い。仕事で得た情報の記録という形を、横須賀は横須賀自身のメモ以外であまり知らない。もしかすると山田がなにか記録媒体を持っていたかもしれないが、横須賀が見てきた中では思いつかなかった。なので左胸の重みに、少し落ち着かない。

「矢野さんは」

 階段を下りながら、横須賀はイヤホンをつける為に左側に頭を傾けた。小さな異物を押し込むと、ぞ、と血流が響く。

「矢野は知らないが知っている」

 横須賀の途切れた言葉を、山田が繋げた。どう聞けばいいのかわからなかったなにかを、山田はするりと形にしてしまう。

 どおお、と流れる左耳の低音は、心臓と言うには遠すぎて響きすぎる。肋骨の下で竦むなにかが、違う、と漢字を浮かべた。

 それは小さな切り絵のように千切れ胃の中に飲み込まれる。胃壁にはりついたそれは胃液に溶けずじとりと濡れるように違和を作った。

「中庭は外来と病棟をつなぐ割に、窓があるのは病棟側のみ。それも多くなく、壁に囲まれて閉鎖的。かといって溶けたもんを見なかったことにするには問題があるが――あの黒があり得るなら、なんとも言えなくなったな。病院ぐるみと言うには足りず、けれども何も知らないとも言い難い」

 山田の言葉を横須賀は否定しない。違う、など言うつもりは無い。だからこの違和は別の場所で――イヤホンをしない山田を、横須賀は見下ろす。

 階段の段差が、いつも以上に山田と横須賀に距離を作る。見下ろす頭髪はがっちりと固められていて、つむじすら見えない。

「無駄に時間を潰したが、だとするならやはり院内は無いだろう」

 少し横須賀が下りるリズムを早くすると、山田が一歩先を行く。歩を緩めれば、また元のリズムになる。

 ざ、と異音が左耳に混ざった。

『上に変化はない、以上』

「上に変化はない、らしいです」

 低い声を追うように横須賀が小さく告げる。山田が頷いた。

「了解、以上」

 病院にはリンの知り合いがいる、らしい。それが誰かどころか何人かすら横須賀は知らないが、知りすぎないことがコツなのよ、とリンに言われたことを思い出す。山田も把握していないとのことなので余計横須賀が知るわけ無いが、知りすぎないコツの理由が横須賀にはわからない。

 考えるな、と山田は多く言う。知らなくていい、とリンも言う。

 けれども今回の山田は、少し言葉が多い。リンの言葉と、山田の平時と、今。それらが揃え損なった本の小口のように、指の平に触れる。横須賀にわかるものは、その違和だけだった。


「この地下は、狭すぎる」

 二つ目の安置室を出たところで、山田が呟いた。前を行く山田の表情は横須賀には見えない。

「安置室と考えれば十二分な広さだろうが、地下病院の作りにしてはあまりに狭い。そもそも地下に秋をつれてきたと考えると異様だが――看護師にバレずに匿える程度の場所はある、ということだろう。それが見つかれば早いってだけだ」

 静かな言葉に、横須賀はジーパンを親指の爪で引っかいた。ポケットの固い縫い目に弾かれたそれは、音にはなりきらない。

 匿える程度の場所。わざわざ作られた密室の意味を、山田はわかっているのだろうか。とはいえ、横須賀に問えることではない。

 次に進むと隣にあるのは大きな扉で、リネン室、と書かれていた。

「地下にリネン室? しかも扉か」

 山田が眉をしかめて呟く。扉を押し開こうとするが、山田の身体は先に行かなかった。

「第二安置室、向かって右隣にリネン室。二枚扉。鍵までご丁寧に掛けている、以上」

 リネン室の扉は他の安置室と同じように中を見ることが出来ないものだ。故にそれ以上はどうしようもない。耳を扉に近づける山田の真似を横須賀もしたが、誰もいないからか音はなにもしなかった。扉の作りからして単純に音が漏れにくいのかもしれない。

 第三安置室の扉に山田が手をかけ、しかし止めた。見上げる山田に、横須賀は寄り添うように立つ。

「……デカブツ、もしおかしなことがあったら、リネン室を避けてエレベーター側でいいから院内に戻れ」

「え」

「警戒して損はないってことだ。開けるぞ」

 最後の言葉は黙れという意味だろう。横須賀は胸を押さえて頷いた。暗がり扉の隙間から叶子のあの笑顔が見えるようで、心臓が落ち着かない。山田の首に黒が絡む妄、緑の液体、叶子、黒。ぐるぐると巡る思考が、手のひらに心臓を作るように圧をもたらす。

 隙間から見えたのは、ストレッチャー。山田の肩が強ばり――ぐん、と扉が開いた。

「秋、くん」

 声の先、部屋の中央。管も何も付いていない赤月秋が、もうひとつのストレッチャーの上に裸で横たわっていた。

 あたりを見渡す。色薬や黒は見えない。他に人もいない。第一、第二安置室よりは広い第三安置室だが、あたりまえに医療器具は見つからなかった。そもそも夏とは言え患者を裸で放置していいような場所でもないだろう。ざ、とノイズが入る。

『異常はないか』

「秋君が裸で、寝てます」

『……他に』

 リンの言葉で横須賀はもう一度あたりを見渡す。あの日嗅いだ、むせかえるような香りはしない。

『いやいい、それより』

 少し奇妙な空白が空いた。音はない。

『なんでもない、以上』

 音が切れる。理由を思考するよりも先に、山田が秋が乗せられたストレッチャーに手を触れる。通常布地が掛けられるだろうに、それもない。膨らんだ腹が上下するのを見て、生きていることだけがかろうじてわかる。

 どうすればいいかわからず、しかし扉で待つには落ち着かなかった。他の部屋を見回ったときのようにすべきなのかもしれないが、山田は秋を見ていて指示はない。

 鞄のベルトが捻れる。一歩横須賀は内側に入った。制止はない。

「秋君」

 山田が名前を呼ぶ。目を覚ます様子はない。ぽこりと膨らんだ腹に、胸の内がざわつく。近くに居てなにが出来るわけではないが、しかし瞼の裏に浮かぶ妄が横須賀の背を押した。

 山田が人差し指と中指、薬指を揃えて、秋の手首に触れる。

「赤月秋。裸体で第三安置室中央ストレッチャーの上に仰臥位ぎょうがいで放置。呼吸有、脈は正常。意識無し」

 言いながら山田が空いている左手を秋の頭に添える。短い髪を生え際からゆっくり触り、そのまま頭を撫でるようにして透く。

「フケ無し、衛生状態は良好」

 山田の右手が手首から移動する。小さな秋の手を細い指が包むようにして覆い隠す。握るには足りず、しかし乗せたというには意図があるようだった。隣からのぞき込むようにして所作を眺める。

 並んだ横須賀を山田は一瞥したが、何も言わなかった。襟から覗く首筋と膨らんだ腹が、手のひらを騒ぎ立てる。

「外傷無し」

 左手が瞼に触れる。山田の右手にはなにも反応が無い。

 瞼がごろり、と動いた。左手が瞼をめくり、

 ――黒が、跳ねた。

「っ」

 反射で横須賀が山田の右手を掴み引く。左手の平が心臓になったようにバクバクと拍動した。呼吸が犬のように浅く繰り返される。喉がひきつる。

 自分の瞼が痙攣する。内側からあの黒が巡り眼球が潰れる妄が手を湿らせる。

 名前を呼ぼうにもひゅ、ひゅ、ひゅ、と細い吸気ばかりが形になる。握った左手で拍動するのが自分だけのようで怖い。山田は何も言わない。

 名前。名前、を。

「だ、さ」

 ひきつった声が漏れた。形になりきらない名前。山田はじっと視線を秋に向けている。動かない。

『どうした』

 リンの低い声が響く。ごぼり、とあの腹が動いたようで、横須賀は更に山田を引き寄せた。

『落ち着け。息を吐け』

 はくはくと喘ぎながら、言葉に従って息を吐く。瞼を閉じた今、黒いあれは出てこない。もしかすると恐ろしさにおびえた妄想がおかしなものを見せたのではないだろうかと思えるくらい、外に出る物は何もない。

 けれど山田の手を固く握っているのに、山田は何も言わない。殴りもしない。だからきっと、妄想ではない。

 秋の目があるはずの場所にはうろのようにぽっかりとした黒があり、瞼の裏を触手のように這う糸は、その血液の色と混ざりまた別の色になっていた。

「秋くんの目の中、に、黒いの、が」

『出てきたのか』

「出てきたんじゃ、なくて、瞼をめくって、今は無く、て」

『落ち着け、外には出てないんだろう』

「で、も、秋くん」