台詞の空行

5-7)矢野

 * * *

 十五時三十二分。正面玄関のガラス越しに見える景色は、平時とあまり変わらない。病院を利用すること自体少ない横須賀だが、最初に訪れた時もその次も、人の数以外にあまり違いを見つけられなかった。

「いないとは思うが、あのガキがいたら言え」

「はい」

 念押しと言うよりはこれからの仕事を確認するように言った山田に、横須賀は頷いた。叶子と出会ったのはだいたい人気ひとけのない場所だった為、視線は植え込みなどに向く。

 山田の歩調は平時と変わらずまっすぐだ。中庭を見て、地下にいく手筈となっているので迷いはない。横須賀は付いて行くだけだし、山田はおそらくほとんどが決まっているから行動に時間をかけることはなかった。もう病室に秋が居ないことは連絡を受けていたし、搬送はまだとのことから居場所はほとんど絞られているのもある。

 案の定、中庭に叶子はいない。見上げた病棟から顔を出す姿もない。

「いません」

「ああ」

 横須賀の言葉に山田が頷き、一度あたりを見渡した。そうして少し息を吐くと、来た道を戻ろうと反転し――あの、とかけられた声に止まった。

「ああやっぱり」

 院内の廊下から中庭に繋がるドアを開いて声を漏らしたのは、看護師だった。びくりと身体を強ばらせた横須賀の背中に、山田が拳を軽く当てる。

 押すに満たないそれは看護師には見えないようになされ、山田は横須賀の前に立つようにして看護師に微笑んだ。

「どうかされましたか」

「ええと、秋君のお見舞いにいらしたご親戚の」

「山田です。その節はお世話になりました、矢野さん」

 二人の会話を聞いて、ようやく横須賀はその看護師が秋の見舞いに来たときに対応した人だ、と理解する。矢野は頭を下げた山田にいえそんなこと、と否定した後、少しだけ眉をひそめた。口元は笑んでいるので微苦笑といえるだろう表情のまま、矢野は山田をじっと見下ろしている。

「手術で移るからいらっしゃったんでしょうか? でも、もう面会は難しいんですよ」

「面会はいいんです。ここからだと彼の病室が見えるかな、と少し思っただけで、今日にそこまでは望んでません」

「そうですか」

 沈黙。頷いた矢野の視線は、右隅に落ちている。右手は胸元のボタンにゆるりと触れ、しかし言葉は続かない。

 横須賀が鞄のベルトを持つ手を肩口から胸のあたりまで滑らせたところで、山田が口を開いた。

「赤月さんからなにか聞きましたか」

「え、いえ、赤月さんからはなにも!」

「それじゃあどなたですかね」

 慌てたように声を上げた矢野に、山田は平坦に言葉を重ねた。矢野の視線が左右にさ迷い、伏せられる。

「いえ、その」

「担当医は新山先生でしたっけ」

 矢野の顎が小さく引かれた。伏せられた睫でわかりづらいが、視線がまた右隅に動いたような微かな振動。

 矢野が出てきた扉は閉まっており、人の気配は遠い。矢野の右手が下り、ゆるい拳を作るようにして裾を摘む。

「……親戚は居ないはず、とでも言われたのかな」

 山田は視線を外すと、静かに言葉を落とした。矢野が顔を上げる。その視線が山田をとらえるのとほぼ同時に、山田は眉を下げて笑みを浮かべた。

「すみません、もしかすると矢野さんにご迷惑をかけましたか」

「い、え」

 緊張したようなひきつった声が返る。山田は襟首に手を押くと、まいったなぁとのんびりした語調で呟いた。

「新山先生、赤月さんについてお詳しいんですね」

「担当医です、から」

「普段からそんなに患者さんを? 素晴らしい先生ですね」

 矢野が左手を右腕に置いた。肘の下のあたりを掴むようにして、視線は山田と合わない。

 山田はあくまで穏やかだった。

「確かに、親戚ではありません。とある理由があって秋君の様子を拝見しに来ただけで――でも、手術で移動されますし、病室にいないのならそれでいいんです」

 ゆっくり、区切るようにして山田が言葉を落とす。話しかけ言い聞かせるような語調で、最後は自身の満足を語るようにして。相手に告げる言葉は、その満足で押しつけられる前にするりと落ちて、矢野は伺うように山田を見た。

 かっちりとしたオールバックに、瞳を透かすことのない真っ黒いサングラス。赤いネクタイと喪服のように黒いジャケットの隙間から覗く白いワイシャツにうっすら透けるのは、肌の色ではなく別の生地の影。

 普通にしていれば目立つ外見は、しかし当人の個性を埋没させている。矢野は確かにその外見に気味の悪さを覚えたと言える。だがその気味の悪さは、山田のどこまでを示しているのだろうか。

「山田さん、は」

 躊躇うような声を、山田はじっと見返す。つり上がり気味の眉と矢野より小さい体は山田を物語るのだろうか。矢野は自身よりも小さく――しかし小さいと感じるにはまっすぐと伸びた姿勢に言葉を探す。

 山田は何も言わない。矢野の手が白むのを、横須賀は心配そうに見つめた。

「誰かに頼まれたのですか」

「申し訳ないのですが、答えられません」

 山田が言い切る。矢野の眉に皺が寄った。だが、いぶかしむとは違う。

 吐き出された息は一秒にも満たなかった。

「ですよね。……私も仕事柄言えないことはありますし」

 守秘義務はわかります。そう続けるが、矢野は会話を終えたわけではないようだった。

 一度視線が瞬きと共に右後ろに動き、すぐ山田に戻る。

「親戚じゃないんですよね」

「ええ。残念ながら」

「そして、理由がある」

「ええ」

 矢野の肩が上がった。肩、と言うより上半身が動いたと言うべきか。息を吸ったのだ、とわかる。

 続いて吐き出された息は、先ほどより長い。

「赤月さん……赤月研子さんの連絡先はご存じでしょうか」

「携帯番号でいいですか?」

 山田が静かに尋ねる。目を見開いた為か、一瞬矢野の瞳が煌めいて見えたが――山田は横須賀を見上げたものの、小さく苦笑した。

「繋がりませんけどね」

 ぎゅ、と矢野の眉間の皺が深くなる。メモを渡した方がいいかと胸ポケットに横須賀が手を押くのを、山田は小さく首を動かして止めた。

「勝手に教えるのはプライバシーとしてまずいとは思いますが、そもそも赤月さんと連絡はつきません。それは確認しています」

「だから、見に来た」

 矢野の言葉に、山田は是とも否とも答えなかった。しかし矢野は確信したのか、縋るように山田を見る。

「親戚はいない。新山先生はそう言っていましたけれど、貴方は秋君にひどいことをしには来ませんでした。そのあとも貴方の姿は見ませんでしたし、本当に見舞い以外に思いつきません。秋君はほとんどああでしたが、お見舞いの品はあるし、それに」

 下瞼が震える。痙攣のようなそれは矢野の目を細め、口の端が左右に引かれた。

「赤月さんはどこに」

「矢野さん」

 山田の声が重なった。歪んで細くなった瞳と平らになった唇が、ゆっくりと元の位置に戻る。山田の細い指が、子供に口を噤むのを促すように一つだけ唇に触れ、しかしすぐに下ろされる。端から見ればともすると顎に手が触れただけにも見える所作に、矢野は短く息を漏らした。

「赤月さんと連絡が取れない。それは共通認識で問題ないでしょう。私たちは、取る手段がない。――秋君の手術前日であっても」

 矢野は頷かない。もう一度歪んだ瞳は、ぎりぎりで閉じられない。

「新山先生はどちらに?」

「わかり、ません。移動するのに看護師が伴わないなんて……そんなの、なんで、向こうの病院から来るにしても、私は秋君の担当で」

「矢野さん」

 少しだけ鋭い声で山田がもう一度名前を呼んだ。山田を見ると、唇の右端が少しぴくりと動いたのがわかった。しかしそれはすぐに吐き出された息で消える。

「お仕事中ですね?」

「え、ええ、はい」

「院内に戻って、ここにはいないでください。貴方は今日、一人にならないこと。それだけが貴方の仕事です。貴方の妄想がどんなものか私は知りません、誰も知らない。今日はそうしておいてください。私と貴方は会話をしましたが、結果だけ言えば私は貴方に何も聞いていない。貴方も私に何も聞いていない」

 戸惑う矢野に、少し早口で山田は言葉を重ねた。返事を求めない言い切るような語調のあと、山田が横須賀を見上げる。

「デカブツ、紙寄越せ」

 二人を見守っていた横須賀は、びくりと肩を跳ね上げた。反射のようにはいと答えて、メモ帳とボールペンを山田に渡す。

 メモ帳を開いてすぐ、迷う様子も無くボールペンが踊った。

「なにかあったらこちらに電話を。誰かに聞かれた場合は、以前見たおかしな人間に声をかけたら、不審がるならこちらへと言われた、と説明してください。貴方が今日すべきことはそれだけです。秋君は移動するし、貴方はここに勤めるのだから」

 矢野の唇が一度開きかけ、しかし声にはならなかった。矢野は困惑するように山田を見つめながらも頷くと、メモを受け取る。

 矢野の指に挟まれた紙が、その部分だけ少しひしゃげた。

「それではお仕事頑張ってください、看護師さん」

「はい。……突然すみませんでした」

 答えて院内に戻る足取りはゆっくりで、振り返る矢野に山田が顎で先を示す。ひそめられた眉は、その後矢野が前を向いたので他の表情を伝えなかった。