5-6)逃げ
「それなりの状況は経験している。退くのも策だが、宣言がないのは問題だろうってだけだ」
山田の声は静かだった。平坦な、事実をそのまま伝える声。さきほどの違和感を塗り潰すようで、その実差異が浮き上がる。
横須賀はあまり覚えることが得意でない。山田のように細かなことに聡くないし、出来るのは見ることだけだ。ただ、だからこそその小さな声になりきらなかったものが逃げだとして――そこまで考え、横須賀は俯いた。
逃、だとして、何になるだろうか。山田は逃げるという単語を横須賀や他の人物に対しては使ってきている。もしかすると覚えていないだけで山田自身にも使っているかも知れない。それに、たとえ今横須賀が浮き上がらせた妄想が正しいとしたところで、横須賀はその先を尋ねられない。山田自身にとってその言葉がどうであるかなどという疑問を口にするのは、横須賀がしていいことではないと思えたからだ。
どうしても使うことが苦しくなる言葉があることを、横須賀は知っている。日常にそのまま存在して、けれど使わなくても誰も気にも止めなくて。そういう言葉を使わないと選んだ心情に特別な背景の有無は関係なく、ただ使えない。たとえ誰かに言及されても、困ってしまう言葉。使っていなかったのは偶然だ、そういい切れてしまう程度のものが山田にあるのかどうかも確かでないまま、自身の妄想のようなことを横須賀は飲み込んだ。
「……イカれる、って言っているだろ」
黙した横須賀を見ることなく、山田が言葉を落とす。山田の手元で、ペンの頭がゆらゆらと揺れている。
「テメェが痒みだけで腕を切り落とそうと盲執しかけたように、とっさに判断がイカレることがある。そのままダメになるケースもあるが、異常な状態でその一時だけイカレる場合もあんだよ。そういう場合は普通の病気だとかその手の症状と違って痛みやなにか外的要因で我に返る場合があるから、殴れ、だ」
とすとすと重ねられたゆっくりとした言葉を、横須賀はなぞる。山田が浅く息を吐いた。
「テメェが逃げる場合は報告できなくてもいい。お前の仕事自体がガキを連れ出すことだから、そこに問題はない。問題は俺が宣言無く、の時だ。ヘマやる気はないがそこだけ覚えとけ」
直臣の時も山田は殴れと言っていた。だからきっと、そうなったときに横須賀が出来る唯一がそれなのだろう。人を殴るなんて横須賀はしたことがないのだが。
けれども目以外で山田が横須賀に命じる、数少ないことでもある。
「わかり、ました」
神妙に頷く横須賀に、おう、と山田が返す。短い声から感情を読みとることは難しい。
「俺はどうしても新山に確認することがある。だからあのガキをテメェが捕まえて問題がなければ、新山のとこには俺一人でいく。さっきも言ったようにおそらく一番ヤバいのはガキだ。それがいなきゃなんとかなるだろ」
山田の言葉に、横須賀は頷きかけて止まった。横須賀は新山の姿を見ていない。見ていないが、山田の体躯は暴力的な状況に向いていないのではないだろうか。
秋山の時は相手が高齢の女性だったが、新山は男性だ。それに、そばにいなければ殴ることすら出来なくなる。
山田が、やや強く息を吐き捨てた。
「ガキの前で父親を追求して見ろ。今度こそ『悪いおじちゃん』でおさらばになりかねねぇよ」
横須賀の視線が、山田の首元に向く。襟で隠れているが未だに残る跡は記憶と重なるようにして浮かんだ。体が竦む。横須賀は手のひらがじわりと掻痒感に震えるのを左手親指で押し誤魔化そうとし、しかし叶わなかった。
「テメェがガキを連れ出せば、それなりになんとかなる。何度も言うが、新山はそこまでヤバいもんじゃねぇ。媒体になっているガキがヤバいんだ」
「媒体」
復唱すると、山田が頷いた。コンコンとペン先でテーブルを叩き、これは推測の域をでないが、と眉をしかめながら前置きをする。
「あの連中が出てくるってのは、大抵普通じゃない場所だ。あのガキの口から出てきたってことだからもしかすると飼っているのかもしれないが、アレを飼うって方法を俺は知らねぇ」
知らないからと言って有り得無いわけではない。そう断りながら、山田はペン先を押し込むように動かした。指先が白む。テーブルは固く、ペンはそれ以上沈まない。
「それでも知っている範囲に落とし込むなら、おそらくガキが出入り口だ。通り道をあのガキの中に作られた可能性がある」
山田の言葉に、ひゅ、と横須賀は息を細く吸った。ぼこり、ごぼり。膨らみ凹んだ叶子の腹と、黒と、音がぐわぐわと内側で巡る。山田が唇の端を引く。
「動けなくなるなら、俺一人でいい」
「っいえ」
ひゅ、と細い喉を通って高くなった声で、横須賀は否定した。重なるようなその音に山田の眉間の皺が少し深まり、ややあって小さく吐き出された息に沿って肩が下がった。
山田のペンが、左手の内に隠される。
「動けるなら使うが、俺はテメェのお守りはしない。テメェがガキのお守りをするなら便利で、都合がいいだけだ。テメェの身はテメェで守るんだな」
「はい」
喘ぐように横須賀が頷く。山田がふと視線を左側に動かした。それからついと横須賀を見上げ、左側をもう一度見てそのままコップに手を伸ばす。
氷の入ったコップには水滴が出来ている。一口含んだ山田を見て、つられるように横須賀もコップに手を伸ばした。
冷たい。くるむように両手で持って、ちびりと口を付ける。喉が乾いていたのか染みる水分に、こく、こく、と横須賀は三口続けて飲んだ。
は、と吐き出した息は、少し冷えている。
「新山からの情報で少しやることが変わる場合もあるが、その場合はリンから指示を出させる。道具の使い方はこのあと教える。テメェなら問題ないだろ」
見取り図の邪魔にならないようにコップを端に戻すと、山田は静かに言い切った。リン、という言葉にそちらを見れば、リンと目が合い微笑まれる。軽く手を上げた相手に会釈で横須賀は返すと、山田を見た。
「やること、って」
「テメェに急にやらせるようなことはそうないだろうし、あったとしても難しい事じゃねえだろ。そん時でいい。……場所さえわかればいいんだ」
最後の言葉は横須賀に言うというよりは呟くような色があった。事実、横須賀を見ていた視線は見取り図に下がっている。
ぱちり、と瞬いた横須賀は、首を傾げて山田を覗き見た。
「場所って」
叶子、新山のことは病院内という想定で話が進んでいる。秋についても同じくだ。透明な水の場所についてだろうか? だとして、山田が調べる理由がわからない。秋山は山田個人のと言っていたが結局色薬の関係だったし、これまでに山田は儀式を疎んじている様子しか見せていない。かつ、儀式を疎んじても、その透明な水をどうにかしようとすることは無かった。だから透明な水の場所とも考えにくい。
山田の顔は上がらない。
「新山に聞くことのひとつだ。テメェはガキと行くんだから関係ない」
山田がゆっくり言い切った。少し、ゆっくりすぎたようにも思えた。山田の語調は、普段まるで演説か何かのようにある意図を持って動く。そこまではわかるが、横須賀の頭では意図の中身まではわからない。
見取り図をみたところで山田が想像する当日の景色すら、わからない。
「何かあればリンが言うし、リンや俺と繋がらなくなったら逃げろ。言ったようにそうでかい場所じゃないし、あとから刑事たちも来る。策がないのに留まる理由はない」
仕舞いにする。先ほど繰り返された言葉が浮かんで残る。
「テメェは考えるな。ガキについても下手に執着しすぎるなよ。それさえ守れば、テメェは俺にとって十二分な手札になる」
山田の言い切りに、横須賀は俯くようにして首肯した。
疑問も、感情も、なにもかも。与えられなければ横須賀は掴めない。踏み入ることなど横須賀に出来る由もない。
だからそれは当たり前の結果で――使われる幸いだった。
(リメイク公開:)