台詞の空行

5-5)形にならない単語

「あの異常な行動をガキはなんの躊躇いも無くやっている。今はまだ新山の指示を受けた延長だが、当たり前のように自分のものとして使っているのも事実だ。全部自己判断になったらもうどうしようもないが――今はまだ、お前を見てる。話を聞いて理解まではしなくても、自分の判断で行動したことに対してなら中断することもわかった」

 山田のサングラスから、首元に視線を動かす。するりとしたきれいな首には、まだ鬱血の痕が薄く残っている。

 横須賀がいじめられていると思って行ったことは確かに横須賀の言葉で止まった。しかし、すんなり止まったわけでもない。

「説得はあとでいい。お前の体格ならあのガキくらいは持ち上げて逃げられるだろう。無理ならそのままでいいが、可能なら連れていったほうが無難だ。化け物が出てくる場所がひとつ減る」

 山田がアイロンのきいた襟をネクタイと一緒に持ち上げるようにして少し直した。元々乱れはほとんどなかったのだが、結果鬱血の痕が影に隠れる。

「命じる側から一度離せば、あとはどうだってなる。なにも考えんじゃねぇぞ」

 考えようにも、何を考えればいいのだろうか。叶子の求めるものを横須賀は渡せない。引き離すことは恐ろしい。けれども、あの場所が危ういだろうことはわかる。

 横須賀には、考えてどうにかすることは出来ない。父親に褒めてもらえるという叶子の喜びを台無しにしてしまうと思いながらも離せと命じられる以上を横須賀は提示できないのだから、考えたところで意味はないのだろう。

「秋の手術手前がおそらくタイムリミットだ。あのガキが出てくるだろうから、テメェはガキを連れて行け。秋については隠してしまえればとりあえずはいいだろう、病状からして移動はさせられない。薬になるには、あのガキでも黒いやつでも、おそらくその瞬間に必要なフックがある。だとしたら、とりあえずガキがいなくなれば時間稼ぎにはなるだろう。終わらせるんだ、それで十二分だ」

 終わらせる。先に告げられた仕舞いにするという言葉が、頭の中で声に重なる。横須賀は左手の親指をねじるように右手を小さく回した。

 終わり、とはどういう状態なのだろうか。叶子を移動するだけなら、先ほどの命令で終わっている。だから山田の頭には、別のことが入っているはずだ。新山を捕まえるのだろうか。それとも他に何かあるのだろうか。伺い見る横須賀を見ず、山田は手術の日程をなぞる。

「手術だが、設備の関係で新山病院では行わないことになっている。事前に移動。担当である新山が同行し、引き受け先の病院で手術をする。――表向きはそういう予定だ」

「おもてむき」

 横須賀は山田の言葉をそのままなぞるようにして繰り返した。メモを取らない為つるつると滑ってしまう言葉の端をどうにか捕まえようとし、しかし結局なぞる言葉は幼子が意味もわからず復唱するように空っぽだ。

 思考するためではなくはっきりと情報を流すようにして言葉をあふれさせる山田の語調は、教えるためのものではない。けれども、声に出される情報であることは確かだった。

「赤月の件でわかりきっているが、新山は自身の病院にケチが付かないように動いている。脳外科に設備が増えたがそれでは足りなかった、が当人の言い分だな。治療の為外部施設を利用すると決定、移動の際に『なんらかの不幸』で秋が死んだことにしてしまえば担当医に責任はないだろう。もっと言えば、母親は溶けて死んでる。死体が見つかってない現状、扱いは行方不明だ。孤立した母子家庭だから他の心配もない。本当都合のいいカモだったんだろうよ」

 記載されている移動日は二十九日夕方十七時。手術の前日。つまり明日だ。

「テメェは地図だけ頭につっこんであとはついてくればいい。今言った以上のことは必要ないし、もしやばくなったら退け。あのガキが例のものを吐き出したら俺たちにはどうしようもできない。逃げろ」

「山田さん、は」

 山田の言葉に、細い声で横須賀が尋ねた。眉間の皺が少し寄り、しかし吐き出された息と共に元に戻る。

「俺は仕舞いにする。テメェがいようがいまいが変わらネェ。ガキを抱える分、お前の方がヤバい可能性があるってだけだ」

 仕舞い。複数回口に出される言葉なのに、その基準は未だに提示されない。山田の手元で、ペンが一度隠れる。持ち直されたペンと一緒に紙が動き、病院の見取り図が広げられた。

「午後から病院に乗り込む。奴らと接触予定は十六時頃。こちらから指示をしない限り、十七時にはリンから特例隊に連絡する手筈となっている」

「とくれいたい?」

 聞き慣れない単語に、横須賀はペン先から山田に視線を持ち上げた。ああ、と山田が頷き、ふとペンを回す。手術の概要が書かれた先ほどの紙を引き寄せると、山田は特例隊という文字を書き記した。ペンを立てるようにして書かれた細い文字は、一角一角がまっすぐとしていて引っ掻くように鋭い。

「愛知県警察刑事部地域安全対策特例隊。最初に合わせた刑事どもの部署だ。警察の中でも立証が難しい、俺がやっているようなオカルトじみた案件を扱っている。幽霊探しって言うよりは被害者の把握、対策、事件の捜査。警察に直接投げるよりかは、奴らにたれ込んだ方が根拠無くても捜査に動くから都合がいい便利な連中だ」

「事前に、は」

 山田の言葉に、横須賀はリンを一度横目に見てから尋ねた。山田の伸びた背筋とサングラスが、横須賀を見る。

「俺の仕事には邪魔だ。後始末には便利だ」

 書いた文字と横須賀をまとめて見下ろすようにして、山田は言い切った。身長が高い横須賀を見下ろすように、というのも奇妙な表現かも知れないが、背を丸めた横須賀を見る山田には、見上げるよりも見下ろすという言葉が見合っている。

 山田の仕事。どうしても先ほどからそのことについて、横須賀は尋ねるのを躊躇った。ざわりと胸の内側が震える。なにもないのに、なにかが騒ぐ。

「新山病院を連中は注視している。一人はおそらくすぐ来るだろう。移動の日だからもう一人もくるかもな」

 まあ、人数は運だ。そう言い切って、山田は紙を右手側に置いた。そうして再度見取り図をなぞる。

「リンには逐一連絡を入れる。事件がどこかも含めて情報は流すつもりだ。病院内部だろうが地下だろうが、出口はある程度偏っているから問題ないだろう」

 よくよく見れば見取り図には出入り口に印が付けられていた。といっても箇所によって色が違う。病院の中でも受付をはじめとした外来棟は細いペンで印が付けられており、以前横須賀が叶子に連れられた場所は太いペンで分けられていた。

 地下は階段から移動するもので、駐車場は一階。個人病院にしては大きいとはいえ地下に駐車場がないのだから秋が出ていく場所は車さえ判明していれば一カ所と言えるし、人が出て行く場所もそこまで多くない。病院の受付時間も十七時までだ。

「一般人が出入りする時間だ、馬鹿な真似を考えない限り外来の出入り口は使いづらいだろう。使うなら身を隠すことは難しいだろうしな。たかが病院だ。何かあれば声上げて逃げろ」

 山田の唇がふと左右に引かれ、しかしすぐ引き結ぶようにして下がった。横須賀が山田を見る。浅く引かれた顎が、ややあって息を吐き出す為に揺れた。

「もし俺が何も言わずに、」

 開いた唇がそこで止まる。戻るにも戻らず、しかし言葉を吐き出さずに揺れた口元は閉じきるより先にうつむきによって読みづらくなった。見取り図に落ちたと言うには下がった視線は、手元のペンを見ているわけでもない。ペン先が紙から離れるのと同時に、山田の顔が持ち上がる。

 やや凹んだ紙を視界の端に見つけながらも、横須賀は山田を見ることを優先した。

「……退こうとしたら、殴れ」

 先ほどの口元が作った母音の形と、続いた言葉は同じ物だった。い。けれども先ほどの唇は、同じ形だが少し小さかった。半端なところで止めたからだ、と言い切るには横須賀にとって少し違和感のある程度に。

 もし山田がそう言い切れば横須賀は頷くだろう。けれども尋ねない横須賀は山田の宣言を聞くことがないし、聞くことがないからこそ違和を持った。

「殴る、んですか」

 理由のわからない自身の認識に疑問を持ちながらも、横須賀は山田の言葉を拾い上げるようにして訪ねた。山田が眉をしかめ、硬い表情で頷く。

「殴って止めろ。宣言がない場合、俺の頭がイカれた可能性がある」

 イカレる、という言葉をこれまで山田は繰り返してきた。ならばそれに類似した言葉だろうか。しかし、『イカレた』といった表現を今続けることはない気がする。横須賀には山田の感情、思想はわからないが、それでも言葉は不可思議な確信で違和のままだ。

「山田さんは」

 なにを言うつもりなのか。自分でもわからないまま、山田の名前が零れた。山田が横須賀を見返す。横須賀の右手指先は、まるで文字を追いかけるように横須賀のふくらはぎを押しなぞった。

 母音はい。しかしイでも退でもない。この確信は何か。

「逃げたことがあるんですか」

 つるりと思考が声になり、鼓膜に届いて脳に渡る。そうやってひらがなが頭の中で漢字になって、ようやっと横須賀は気づいた。

 単語が理由ではない。違うという確信じみた違和は、吐き出されなかった声の大きさを想像させた故のものだった。

 きっと吐き出されなかったあの声は、小さかった。