4-18)汚泥の声*
「ぐ、」
「山田さん!」
ぎちりと締め上げる黒を山田の指がひっかく。だが、その隙間にすら入り込めない。
身体を跳ね上げるように起こして、横須賀が駆け寄る。黒は明確な意志を持っているように、引きはがそうとする横須賀に構うことなく山田の首にめり込んだ。
「止めて叶子ちゃん!」
「なんで?」
きょとり、と叶子が瞬いた。ほんの少しだけ黒が緩んだのか、ひゅ、ひゅ、と微かに呼吸音が漏れた。それでも無事とはほど遠い山田の腕を、横須賀が掴む。
「だめ、だめだよ、こんな」
「だっておじちゃん、おにーちゃんいじめた。わるいこ。だめなこ」
いけないの。拗ねたように言う叶子に、横須賀はかぶりを振った。それでも黒は離れない。
「だめ。だめ、だよ。いじめてない。だめ、やめて」
「いじめてないの? でもおにーちゃん、いたいいたいしているよ」
「これは、しかたなく、て」
「わかんない」
むう。叶子が唇をとがらせたのと、山田が痙攣したのはほとんど同時だった。ひゅ、と横須賀が息を呑む。黒ははがれず、呼吸音すら消えた。
どうすれば、どうすればいい。なにもないのに、息が苦しい。こめかみが痛む。
掴んでいた腕から、山田の背に手を回す。横須賀の長身で抱え込むようにしているのに、黒は山田だけを選んでいる。
「ひとのものいたいいたい、めーでしょ?」
叶子が首を傾げて同意を促した。はくり。呼吸すら出来ず間抜けな形で口を開けた横須賀は、ぎゅ、と引き結んで一度目を閉じた。心臓が痛い。ひどく口内が乾く。
縋るように、横須賀は山田を抱きすくめた。
「おれ、の」
ひゅ、ひゅ、ひゅ。乾く、乾く、乾く。にもかかわらず背に回した左手はじとりと汗で濡れている。叶子の真っ黒い星をたたえた瞳が、横須賀を貫く。
「おれの、だから」
だめ。吐き出す息と一緒に漏れた声はか細い。山田の息が、小さく鳴った。
「おにーちゃんの?」
ゆっくりと問い返され、横須賀は頷く。喉に酸がこみ上げる。鼻奥が痛い。
山田の背が、浅く痙攣を繰り返す。
「でも、ひどいよ?」
「危なかったから、だめだよ、ってしてくれたんだ、よ」
「あぶない」
「俺の、だから、ね?」
縋るように、なだめるように声をかける。ううん、とうなった叶子に、黒いそれは少しだけ身を引いた。
離れはしないが、それでも山田の背の動きが少しだけ緩む。ず、という音と少し緩んだ隙間に、細い指が食い込んだ。せめて隙間を作ろうとする指の間で、首が赤く鬱血を見せつける。
「おにーちゃんはきょーこの。きょーこのだいじ。おにーちゃんなんにもない、おじちゃんおにーちゃんの」
繰り返した叶子が、うん、と頷いた。震える手のひらで拳を作った横須賀は、少しだけ安堵の息を吐く。
けれどまだ、黒はぽっかりと山田の首を隠したままだ。
「叶子ちゃん」
「だいじょうぶ。おじちゃんちょっとこわいから、まっててね。おにーちゃんいたいいたい、なおしてあげたらにする」
革手袋をはずして、足下の黄色い液体を叶子がすくい上げる。ぎゅ、と喉が呻いた。
横須賀は愚鈍だ。山田と違ってたくさんのことがわからない。
けれども、横須賀は見てしまった。知ってしまった。
その透明な液体は、そうたやすく持ち出せない。それはどこにでもあり、どこにでもない。すぐそこにあるけれどもすぐそこに見えない。探し出しても持ち出せるかどうか。相応しい入れ物が必要。
肉塊に入り込んだのは黒だが、それでも結果、今ここにある黄色い液体に可能性が浮かぶ。呼び水、という単語が可能性に重なった。それが正しいかはわからない。でも。
肉塊は黄色くなった。色が、ついた。おそらく混ざることはないし――叶子の緑色の爪は、宵闇でも鮮やかで。黄色が、ずるり、とその白い手を滑る。
「うで、だして」
肘から下、いつもの長袖は先ほどの行為で消え去っている。露出した腕は、火傷で爛れている。黄色の効果は何だったろうか。そこまでは思い出せないが、そんなことはさほど問題にならなかった。
「おにいちゃん?」
震える横須賀の胸を、腕の中の山田が右手で掴んだ。力は強くない。それでも引くその意図がなにか、山田の言葉は声にならない為わからない。悩む時間も、選択肢も存在しない。
右腕を伸ばす。ぜっぜっぜ、と山田の息が聞こえた。耳の中で心臓の音がする。
叶子が、笑った。
「いたいのいたいの、ないないね」
どろり。直臣の死が、横須賀の腕に這い染みた。液体と言うよりゲル状のそれは、こぽり、こぽり、とまだ何かが食べているような音を立てている。黄色に染み入る、肌の色。混ざり、呑む。
しゅるり。山田の首を絞めていた黒が離れ、山田の体重が横須賀にかかる。一瞬の安堵。
「じゃあね、おにーちゃん」
叶子がくるりと反転する。真っ黒い髪が踊り、黒が、
「あ」
ずぐ。ぎち。じ。ぞる。みち、ち、ち。ぎち。くちゅ、ず、ちゅ。
火傷痕を、何かが這う。液体ではない。これは。
爛れた皮膚の端を、小さく食い破りながら這う。
「、だ」
呻くように漏れた声が、脳を揺する。その言葉を口にする資格がないのに。後悔が腹の内からずるりと湧く。これは、だめだ。半ば本能のように、腕を高く上げる。これはだめだ、だめだ、だめだ。外から食い破る。内から這い回る。
「腕、を……っ」
山田の声がする。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。これは汚いんだ。そいつがわるいこだから。そいつだから、これは近づけちゃいけない。
横須賀が山田から逃げるように後ろに下がった。まだ圧迫感の残る喉をそのままに、山田が空いた距離を詰める。横須賀の長身で腕を隠されれば、山田に出来ることはない。舌打ちが響く。
「腕を見せやがれボケ!」
「だ、め」
山田の叫びに、横須賀が震える声で呟いた。焦点が合っていない。叶子を追うことは無理だ。あの黒もそうだし、なにより今の二人にその余裕はない。
山田が唇の端を噛む。
「問題あるかどうか簡易の確認だどうせ今出来ることなんてほとんどねぇだろうが」
「だめ、だめだ、そいつ、これ、は、こんど、こんどこそ」
ブツブツといいながら横須賀が腕を引っかく。爛れ焼けた腕を、乱暴に、力任せに。
「なに、やって」
「切らなきゃ、だめ、みっとも」
ず、と、横須賀の左手が山田に伸びる。爪の間の肉片、黄色い手。それが山田の服を掴もうとして――山田の顔から、血の気が引く。
「っ」
鳩尾に、山田の拳が打ち付けられた。痛みに身体を曲げた横須賀の右腕を、今度こそ掴む。ずるり、と黄色い液体が地面に落ちる。
「頭が回んネェなら事務所にでも帰れ」
凄む声は平時と変わらない。強く手に力を入れすぎたからか、その腕は小刻みに震えていた。ひゅ、と横須賀が息を呑む。
「イカレた奴は俺には必要ない。テメェは帰って全部忘れて眠ってろ。俺がいるのは俺の目だ」
ぐるり。小さな黒目が山田をとらえる。ひくつく口角が、はく、と言葉を探す。
「いきま、せん」
落ちた声に、山田が眉根を寄せたまま息を吐いた。歪んだ笑みを、横須賀の瞳が鈍く映す。
「使ってください」
「テメェは本当」
イカれてる。その言葉は山田の口の中に飲み込まれた。そうして飲み込んだ分、山田が細く息を吐く。
伸びた左手がもう一度横須賀の右腕に戻ろうとし、今度こそ、その手を山田が掴んだ。
「痒いんだな」
こくり、と横須賀が頷く。痒い。それに、汚い。ぐずりと横須賀の淀みがそこに貯まっている。今もじりじりと皮膚が噛みちぎられ、内側を吐瀉物がめぐる。熱い。
山田が横須賀の左手を握ったまま、右手指先を左手の先ですくい上げた。
「黄色は皮膚の病気。怪我に利くかはわからねぇし、どっちにしろ死人が出るような副作用から考えて治るだけなのかも不確かだが、あのガキはテメェを気に入ってた。治るにしても治らないにしても……そもそも治らないなら火傷を引っかくのは馬鹿だ。どっちにしろ耐えろ」
頷くよりも前に、横須賀が眉をひそめる。歪んだ顔を、山田が真っ直ぐ見上げた。
黒いサングラスは、その瞳を透かさない。それでも視線は横須賀を貫く。
「――切り落とすべきと判断したら俺がやる。テメェで判断するな。考えるのは俺の仕事だ」
ぎくり、と横須賀が身を縮めた。静かに諭す言葉が、指先から染みる。痒い。汚い。それを落としたいと望まれても出来なくて、その形が今だとして。それなのに山田は、山田が断じると言う。
綺麗な手が、汚れてしまって、
「手、」
「あ?」
「離し、てくださ」
「離したら引っかくだろ」
横須賀の言葉に山田が苛立った声で答えた。横須賀が首を横に振る。
「やまださ、やけど、俺の、きたない」
「汚れてんのは今更だ」
「ちがう、やけどから、はいっちゃ」
うう、とまた横須賀が首を振った。それでも簡単に離せるだろう手は山田から逃げない。
やや大仰に山田はため息を付いて、左手を離した。
「これでいいだろ。ひとまず状況が酷い。どうにか始末して退散すんぞ」
山田の右手はまだ横須賀の左手を掴んだままだ。そうして横須賀の右手を乗せていた左手の指を服の裾で拭く。黄色は案の定色がつかず、その左手腹の火傷に届かなかったことだけ横須賀は安堵した。
「リンに連絡する。携帯は鞄か」
「あ、はい」
内ポケットに手を伸ばそうとすれば、山田が先に左手を伸ばし取り出す。画面をタップし、悩むことなく指が動いた。そうして電話を耳に当てた山田が、横須賀の左手を引きながら歩き出す。
大の男が手を引かれて歩くのは奇妙な光景かもしれない。しかしそもそも右手の袖が破れ黄色の液体に混ざった右腕も、山田の首に残る赤い痕も異様故に今更だ。
赤黒い肉塊は全てなくなっていた。黄色の液体も、黒い液体も無い。痒みに意識を奪われたのはどれくらいだったのだろうか。時計を見ていなかったし、左手が捕まれたままで携帯端末も山田が所持している故わからない。
それに見たところで逆算しきれないし、したとしてもなんの意味もない。
ぐずり。ぎちぎちとなにかが噛むようにして、痒みがずるずると這い続ける。鈍くなった故に、ずっと奥、内側を吐瀉物が虫のようにのたうつ感覚がはっきりとして横須賀は身を強ばらせた。