4-19)爛れ
「動きようはないな」
通話を終えた山田が、携帯端末をジャケットの内側に入れた。刃物で引っかきたい。そんな妄を内側に飲み込んで、横須賀は山田の視線を追う。
山田が先ほど押し倒した秋山は、地面の上で身動き一つとらない。かろうじて呼吸していることがその背からわかるものの、意識はないようだった。両足はまるで最初からなかったかのように凹んでおり、目が覚めてもどうにもならないだろう。おそらく、直臣の落ちた手足と同じだ。汚泥に食われ、多分戻らない。
山田が秋山の口からネクタイを片手で抜く。秋山はそれでも目を覚まさない。見開いたあの恐ろしい両目は閉じられたままで、しかし歪んだ顔は最初に見た穏やかさを全て消し去っていた。
山田が横須賀を振り返る。
「……掻くな、つっただろ」
「ご、ごめんなさ」
凄んだ声に横須賀は首をすくめる。掻かないように、とは思うのだが、ほとんど無意識に鞄のベルトに押しつけてしまっていた。左手を自由にされていたら、おそらく引っかき続けただろう。最初の衝動は消えたものの、耐えねば、と思うのに身体が勝手に動く。
「ノートだけ取って駐車場行くぞ。リンに近くから呼べるツテを頼んだ。秋山は放っておく。警察への連絡はリンの方から頼んでるし、このままずらかる」
ぐ、と山田が手を引いた。そうして横須賀の右腕を見、横須賀の顔を見、前を向き直す。
「車までは歩く。腕についてはあんまり考えるなとは言いたいが、流石に無茶だとはわかる。痒みも拷問の一種だ。なんか話したいことはないか。気そらせばまだマシかもしれネェだろ」
話したいこと。言われ慣れない言葉に、内心で繰り返す。話したいこと。ぐるり。内側を巡る言葉を追いかける。横須賀は自身を持ち得ない。話すべきこと、なにか変わったこと――そこまで考え、鞄が揺れる。
山田が左手を強く握った。
「本とかなんでもいい。浮かばないなら聞きたいことでもいい。気逸らせ」
民宿の玄関に置かれたままのノートは、小口寄りの部分がひしゃげていた。ネクタイを端に持ちながら合わせ持った山田は、やはりそのまま外に出る。
「ノート」
小さく呟いた横須賀に、山田が眉を寄せた。一度うつむきノートを見下ろすと、息を吐く。
「どこまで読んだか知らねぇが、普通じゃありえないようなことを、おかしな方法で成す連中がいる。今回はアタリだ。見て気分のいいもんじゃネェし忘れろ」
「山田さんの、ですか」
「あ?」
山田が怪訝そうに横須賀を見上げる。色のない顔で、横須賀はノートを見た。
あんなふうに本を抱く人を、横須賀はあまり知らない。
「知ってる、知ってたのかな、って。今も俺に、持たせない、ですし」
「……色薬と一緒に調べてた件がある。そっちの問題だ。テメェに持たせないのは、これがあんまりイイモンじゃねぇからだ」
は、と山田が短くだが強く息を吐き出した。嘲笑でも呆れでもないその感情を、横須賀は追えない。
秋山の隣を再度通る。動く様子は相変わらず無く、周りの家から離れている故かぽっかりと切り取られたような空間は奇妙だ。直臣がいた場所はやけに草が茂り、小僧憎の物語が浮かぶ。
いじめられたわけでも、石を投げられたわけでもない。それでも小僧は結局汚泥となった。それが自分のせいなのだと、横須賀の内側が責め立てる。
山田が足を早めた。
「元々どうしようもなかった」
短い言葉。山田が足早に先を行くので、表情はわからない。
「テメェが俺の手柄をどう考えようが勝手だが、そもそもあのガキには先がなかった。あったとしても酷だっただろう」
ぽつぽつと山田が言葉を落とす。単調な声は、しかしどこか諭すようでもあった。いつもの教科書を読み上げる朗々としたものよりも、星の名前を読み上げるように静かな声の羅列。
「考える故に我あり。だとしたところで、人は自分だけで存在を律し続けられない。人間は社会で生きる動物だからだ。あのガキにはあまりになにもかもが足りなかった。どういう結果であれ、それは事実だ」
「でも」
でも。その言葉を口にして、しかし横須賀は続く言葉を持たなかった。なにが言えるというのだろうか。横須賀が守れなかった事実で、山田になにを言うつもりなのか。声だけが先走り、しかし横須賀はその先を理解しない。
ぽっかりとした
山田の肩が少しだけ上下した。
「民宿秋山。設立は二〇一九年九月。経営者、秋山不二代。七十一歳。二〇一八年に事故で息子夫婦と孫を亡くしている。原因はトラック運転手の過失。過労によるもので会社から慰謝料も出ており、翌年自宅を改築して民宿としたのがはじまりだ」
先ほどより無感動に、山田が言葉を繋げる。ニュースの原稿を極力平坦に読み上げるような言葉は、静かに積もっていく。
「付近はハイキングコースがあるものの少し外れてしまえば人気のない森に入り込むためか、はたまた山に何か理由があるのか、自殺者が多い傾向にある。森の中、少しはずれた駐車場。そういった自殺スポットが近くにあることからか、肝試しに来る人間や、オカルト趣味の人間も訪れる。民宿秋山で宿泊したのを最後に死ぬ人間、また行方不明になった人間も多くいる。人が死ぬ宿とも言われているが、一方で死ぬに死ねず飛び込みで宿泊した人間がこちらで泊まり帰ったケースもある為、最後の境界とも言われている」
読み上げる声に淀みはない。渡辺や秋山から聞いたことが混ざりながら、客観的な言葉が横須賀に示される。
情報を与えられているのに、何故か考えるなと言う言葉が浮かんだ。
「熊の出没は二〇一九年に一家心中を行った家族が熊に食い散らかされた事件以降増えている。遺体はバラバラで、見つからない部位もあったという。当時熊は射殺されたが、以降熊に注意するよう対策がなされている。熊が目撃されなくとも自殺者の食い散らかしと考えられるものは他にも数例報告されている」
痛ましい事件が、つるつると滑る。その当時の人を憂う気持ち、自身のような人間がのうのうと生きるのに自殺を選ぶ人がいること、そういうものが確かに小さくあるのに、浮かぶのはさきほど転がった肉片だ。洞親子では、まざりあった彼らが水になり、そのくせ祠に液体が残った。
「俺の今回の仕事は確認だけのつもりだった。秋山に指示しただろう人間が事を急くのを見誤ったのは認める。……だがな、わかるだろ。あのガキはそういうものだった」
最後の言葉は素っ気ないようで、またあの星を読み上げるような色になっていた。横須賀の左手を掴む力が一度強くなる。
「死んだものが本当に生き返るのかはどうでもいい。あいつは自分であると定義して、それを信じるなら直臣だった。たとえそれが民話で言うわけのわからないものだとしても、それでも直臣の形を成し、直臣であると自身を定義していた。だけれども、同時にアレは人の死で成り立ってしまっていた。当人の身体ではないものをすげ替えられた。秋山がやったことなんだろうだが、あれほど孫のためにならないことはない。秋山は自分の感情で、非道を成した」
山田が小さく息を吐く。ほんの少し、手が緩んだ。
「人間は社会で生きる動物だ。そうして感情で成り立つ脳を持っている。直臣が直臣であると定義できる内はまだマシだ。社会が否定しても直臣は直臣の感情を肯定する。だが、人間は感情で成り立つからこそ常に自己を肯定できる生き物でもない。アイツが自分を肯定できないとき、肯定する社会が無い」
だからどうしようもないんだ。山田がそう言葉を続ける。
「秋山が肯定しようが無意味だ。いくら孫のために動いたところで、人の寿命はある。そもそも秋山のせいなのに原因が肯定してどれだけ意味がある。十五の子供――死んだ歳で言えば十歳でしかない、そういう子供を肯定する社会が存在しない。生きたところで、道理がなければ支えもない。自分自身しか肯定しない社会で一人で生きるのも、二度死ぬのも、大概だろう」
そこで言葉が切れた。山田は振り向かないが、ようやく横須賀は、自身が宥められているのだと悟った。奇妙なことだ。胸につかえた重さを吐き出す。それでも肺は淀みを残したままだ。
社会の肯定。言葉を内側で繰り返す。何故か淀みが増すようだった。落ち着かない。
「山田さん、は」
ひきつる声で名前を呼ぶ。振り返らないまま、山田が少し歩みをゆるめた。
「こどもがすき、ですか」
「こども?」
怪訝そうに聞き返され、あ、と横須賀は小さく声を漏らした。直臣の名前を言うべきだっただろう。広義に聞きすぎて、唐突すぎる。
自身の言葉選びがおかしいことに青くなる横須賀を、山田は振り返らない故に見ていない。訂正するにも言葉が出ない横須賀の手を、山田が指先で擦る。
「近くにいる分には邪魔だ。アイツ等は行動が予測出来ネェ。独自ルールと感情の衝動が強すぎてデメリットの方がでかい。面倒だ」
大仰なため息と一緒に山田が言い切る。俯いた横須賀の視線の先には山田の手。その親指が少しだけ山田自身の人差し指を押した。
「ただ、生物は子を成して成り立つ。俺自身は面倒でごめん被るが、社会はそれを受け入れるのが道理だろうってだけだ。特別どうってわけじゃない」
それが当たり前だ。はっきりと断じた山田に、横須賀は眉を下げた。自身を握る熱が確かで、それでいて随分と遠い。
平時、横須賀は山田の言葉が理にかなっている、と考えている。山田はひとつの正しさで、横須賀のように愚鈍な人間にとっては配られた答えをなぞるしか出来ないものだ。その選択がどうであれ、横須賀には想像できないくらいの山田にとっての正しさが詰まっていると思っている。
けれども山田の思想があまりにも遠くて、口の中が乾いた。どんなにそれが理想であれ、受け入れられない子供は存在する。道理ではない。理想だ。
そもそも直臣の方がまだ社会に受け入れられたのではないだろうか。だって彼は、家族という最初の社会に肯定されたのだから。彼はまだ、
ぐ、と左手の熱が、強くなる。山田が振り返り、横須賀を見据えた。
「納得しろとは言わねえ。そもそもこれは俺の選択だ。俺はあのガキがどういう存在か知っていた。アイツがどうなるかよりも俺の手柄を優先した。そこを違えるなよ」
返事ができない。サングラスの向こう側の瞳はわからず、横須賀は視線を逸らした。右腕がぐずりと揺れる。
そう、ぐずりと揺れた。気のせいではなく確かな実感で、横須賀は瞬いた。
「見るな、気にするとまた痒みが増すぞ」
「いえ、その、痒くなくて」
「痒くない?」
とっさに答えた横須賀は、自分の言葉でようやく気づいた。そうだ、痒くない。話していて気がそれたと言うよりは、多少残るくすぐったさはあるものの食い破るような小さな違和感、内側を這う吐瀉物がなりを潜めている。
山田はノートとネクタイを左腕で挟むと、そのまま横須賀の右手を指先で掴み引き寄せる。黄色というにはくすんだ肌色。腕と混ざり合ったような奇妙な色で汚れたその場所は、薬の色と言うよりはまるで膿に埋もれたようだった。色の変質だけではない、奇妙な変化。
ずり、と、確かにその膿が、こぼれ落ちる。
「……触るぞ」
「え、でも」
「右手でやる」
止めようとした左手が半端に空中でとどまる。山田が俯けば、その顔を覗くことは出来ない。
山田の右手が、切り落とされた袖口に当てられる。ゆっくりと撫でるように下ろされた手に触れると、膿のように粘質になったそれは酷くあっさりと剥け落ちた。
ぼとり。落ちたその膿が土に染みるのを見届けるよりも前に、右手の指先が痛む。食い込むように握られた手は、小さく震えているようで。
「山田さん……?」
見下ろす山田の首筋は白く、赤く鬱血した痕だけが鮮やかだった。
(第四話「こどく」 了)
(リメイク公開:)