4-17)ごはん*
「ああああああああああああ!!!」
絶叫。振り返れば、秋山が走り来る。何かを繰り返す音。こちらからは聞こえない。
山田が秋山を掴む。けれども秋山は山田を見ず、横須賀を見据えている。白い眼球。繰り返し動く唇。横須賀の罪悪が形となって目の前にあるような光景。
「おばかさんねー」
同意を求めるような調子で、叶子がくすくすと笑った。そうして横須賀の体に触れ、爛れ残ったそれを落としていく。ぐずりとした膿のようなそれは、しかし鞄に沁みず、地に落ちる。なにかしなければ。思うのに、横須賀は秋山から目が逸らせない。心臓が痛くなる。
山田が秋山を引き摺り倒した。それでも秋山が見るのは横須賀の方だ。山田がネクタイをほどき、繰り返し動く口に入れ――間に合わない、と、何故か浮かんだ言葉に横須賀は身体を引いた。
じゅわ。最初に響いたのは、蒸気の音。ついで感じたのは、湿り気。叶子が横須賀の手にあった淀みを払い、そのまま引いた。
「ごはんふんじゃうー」
ふふふ、と笑う叶子の手はざらりとした無機質さだ。革手袋だから当然だろう。叶子の体温を伝えることは決して無く、横須賀は叶子に引き寄せられる。
喉が渇く。声が出ない。
「おばかさんだから、らくちん」
びくり、と秋山が痙攣した。蒸気を見上げていた山田が、秋山を見下ろす。
秋山の足からも、蒸気がじゅくじゅくと昇り立つ。
ああ、あちらは同じだ。
「きょーこねぇ、ちゃんとできるんだよ」
秋山の足が、おそらく凹んだ。先ほど落ちた直臣の左足、左腕、そうして眼球が、転がり集まる。あれは同じ。
では、これは?
「きょうね、きゅうにだったけど。きょーこはちゃんとはこできるもん」
直臣だった爛れたそれが、じゅくじゅくと水分を含み出す。外に散り行くのが先のことだとしたら、今目の前にあるのは、内に入り込むこと。
じゅくり、じゅわり、こぽり。ぽこぽこ、びちゃ、ぐちゅ、ぐ、びちゃ、ぼと、ぼとぼとぼと、ごぼり。
異様な悪臭と一緒に、湧き出るのは汚泥だ。汚泥? いや、それはあまりに抽象的な表現だ。転がる肉を呑む汚泥を表現する言葉を、横須賀は知っている。
これは、肉塊だ。血と腐肉がまざったもの。
そしてこれは、彼だ。
「だーめおにーちゃん」
ふらりと肉塊に手を伸ばした横須賀を、叶子が止める。歪んだ横須賀の顔に、叶子は少しだけ困ったように眉を下げた。
「おにーちゃんまたいたいいたいしてるね。だいじょーぶ、おにーちゃんは叶子のだよ」
「叶子ちゃん」
ひゅ、と横須賀の喉が鳴った。ようやく声になったものを、さらに押し出す。
「なんで」
「叶子のおしごと。かみさまがね、よろこぶの。ちょっとぐえーってなるけどね、ちゃんとだいじょうぶ。ごはんなの」
叶子がそれだけ言うと、横須賀と肉塊の間に立つ。わけもわからないまま、横須賀は離された手を握り直した。一瞬だけ叶子が困ったように振り向いた気がして――しかし、それはすぐに消える。
がこん。そんな音が聞こえそうなほど大きく叶子は口を開けた。開けた? いや、開けたと言うには普通ではない。まるで顎がはずれてしまったかのように、大きく、大きく――ごぽり。叶子の喉が、鳴った。
「離れろデカブツ!!」
遠くから山田の声。同時に、叶子が横須賀の手をふりほどく。ごぼ、ごぼごぼ。ぼこん。体の中から鳴るにはあまりにおかしな音が大きく響く。音に合わせて叶子の腹がぼこりと膨れ、へこみ、膨れ、へこみ。
びちゃ。そうして落ちたのは、そこになにもかもが存在しないような、黒。
「え」
一度落ちればまるでホースから飛び出る水のように黒が落ち続けた。肉塊に黒が群がる。叶子の姿が霞む。
吐き気がするような異臭と、頭が壊れそうな全てを覆う黒が、叶子を。
「叶子ちゃん」
「……このアホ!!」
怒号。ずるり、と、黒が背丈を伸ばす。液体が飛び散り、まるで猫が首をのばすように――
「あ、」
鞄を強く引かれ半身が逃げる。伸びた腕を、黒が掴む。まとわりつくぬめりは真っ黒で、まるで右手がぽっかりと
「っ」
ぎちり、ぎちり、と腕を黒が締め付ける。流形であるのに、それは硬い縄のようでもあった。叶子の周りにある大きい黒だまりから離れたのに、締め付ける力はむしろ強まったようにも思える。血液が止まる。筋が切れそうなほど黒が食い込むのに、視認できない。
見えないというには足りない。なにもかもが存在しない。なのに、痛い。
黒が、さらに伸びる。山田の舌打ちと、カチン、と鳴ったのは金属音。
「退け、屈め!」
命じる声。山田に引き寄せられ従えば、上腕を捕まれる。伸びた黒は山田がかざしたジッポで一度跳ねた。背広から取り出したナイフが、横須賀の服を肘あたりでぐるりと断ち切る。けれども、黒はまだ前腕を食べたままだ。鞄を開ける音。
「……耐えろよデカブツ」
潜めた声。その意味を理解するよりもはやく、火が服の切り口に移る。
それはすぐに、大きな火になった。
「え」
服にしては、燃えすぎる。その火の固まりを、山田が乱暴に布ごと手で黒に押し当てた。皮がめくれるように、黒が離れる。じゅ、と時々肉の焦げる音。
なんで、という言葉はでなかった。横須賀は先ほどまで、肉の固まりを持っていた。
熱さに呻く。けれども、呻くことすら罪悪のようでもあった。
だって直臣は、呻けない。
「ぐぅうう」
突然かけられた水に声が出る。火元の布は落ちて燃えており、黒はずるずると去っていった。横須賀の水筒を持った山田が、息を吐く。
「アレがこっちに興味を持ってないんだ、手出すな。どうしようもねぇ」
黒は大きな
ごはん。叶子の言葉が浮かぶ。
「食う為に出てきたんだろう。食った後どうするかだ。火はあいつ等を避けるためで倒すためじゃねえ。もし洞親子が本当ならあいつらを返すためのモンがあるはずだ」
「箱出来る、って、言ってました」
熱い。痛い。けれども、だからこそ現実だと思い知る。叶子の言葉をなぞる横須賀に、山田は眉をしかめた。
「アレが呼んだってことは確かにそうだ。なら食い終わったらアレがどうにかすんのか? いや、そもそも」
そもそも食べているのだろうか。ぶつぶつと呟く山田の声が遠い。黒が肉塊に、めり込む。ごはん、と叶子は言った。けれども黒はぐずりぐずりと肉塊に入り、肉塊が膨れ、まるで肉袋のようになっていく。ぶちゅ、ぐちゅり。なにかが潰れ、飛沫の跳ねる音がする。
ぐ、と山田が横須賀をさらに引き寄せた。
「見るな、見ても意味はねえ。イカレるぞ」
「でも」
横須賀が細い息を吸い込む。目が離せない。離せるわけがない。
「俺の、せいで」
あれは横須賀の結果だ。縋った子供を、横須賀はどうしようもできなかった。横須賀しか居なかったのに。直臣は結局、
「馬鹿にもほどがあるぞドクズ!!」
横須賀のシャツを握る山田の手が、襟首に掴み替わる。先ほど服の裾を引きはがした左手の腹、小指側がただれて痛々しい。熱を持った自身の腕がじくりと脈打つのを感じる。そうしてただ、引き寄せられるまま横須賀は身を屈めた。
山田の険しい顔が、間近になる。
「お前の仕事は見ることだ、お前を使うのは俺だ。お前がなにかできるとか本気で思っているのか」
肉塊が暴れるようにのたうつ。黒の中、叶子は何故無事なのだろうか。わからない。首が締まる。視線が山田に固定される。見えなくなる。
「俺の判断でテメェは動いた。俺がテメェを使ってるんだ。俺が秋山を優先して、お前をガキと行かせた。可能性を理解しながら、優先したのが俺だ」
区切るようにして山田がはっきりと告げる。そうだ、山田に命じられた。それを横須賀は、結局台無しにした。
鼻先が擦れあう寸前まで、顔が近づく。
「俺の手柄は俺のモンだ、テメェがなにをしようと使った俺の手柄だ!!」
山田が怒鳴る。耳鳴りがする。横須賀はなにもできない。だから手柄が山田と言われるとそれは腑に落ちる。
けれどもすぐそばで香る腐臭は、横須賀の罪悪だ。手柄ではない。
山田が大きく舌打ちをして、突き放す。肉塊と黒から三歩ほど引いた場所で、横須賀は尻餅をついた。
山田の後ろで、肉袋がぐずりと溶け、沈む。歌声が、響いて。
「――とにかく今はとっとと」
ずちょん。
「いじめちゃめーよ」
溶ける肉塊が稲穂のような黄色に染まり落ちる。もごもごと動く黒い不定形の後ろから叶子が顔を出して、唇をとがらせた。ワンピースはひらひらとはためいていて。
「おじちゃんは、わるいこ」
黒いそれが、山田の首に巻き付いた。