台詞の空行

4-16)子途*

 * * *

 勝手口から、畑に出る。星が見えるものの、外は暗い。時刻は十九時十八分。家と家が遠く離れているため、人の声も聞こえない。ただ虫ばかりが鳴いている。

 山田の言葉はおそらく正しいだろう。疑うつもりなどないが、地域差があるとはいえ、集配には遅い。特にこういった山の方では、毎日の集配すらない場所もある。徒歩で行ける範囲で考えたら、急ぎの手紙を出すことは随分難しい。行くならタクシーかなにかを利用して郵便局に行くべきだ。

 けれども山田と違い、何故、が横須賀には見えない。色薬といった山田の言葉をなぞりながら、ぐるりと畑を見渡す。広い畑は四畝だけ使われていてるようだった。

 ふと、声が遠くから響いた。

「ぉばぁちゃん」

 小声で直臣が呟く。服の袖に隠れた腕を掴んで良いかわからず、横須賀は一度視線を声の方に向けた。家に向き直って左手側は、確か畑が見えてしまう間があった。

 家の中を見ることは出来ないし、山田は靴を履いていたからおそらく玄関口だ。駐車場に戻る道路は一本道。だからこそ、山田が秋山と会話を始めることが合図。

「行こう」

 声を潜めて横須賀が直臣を促した。直臣が頷く。フードでなにも見えないが、直臣の所作が大きくわかりやすいのは幸いだった。

 自分が前を歩くことは落ち着かない。けれども、山田に任された。そして傍にいるのは、小さな子供だ。

 横須賀にはいろいろなことがよくわからない。死んでしまったのに何故居るのかとか、直臣がなにに怯えているのかとか。

 それでも横須賀にとって直臣が子供であるのは事実だった。十五歳にしては随分小さく幼い彼が怯えなければいいと思う。山田は車に行けばいいと言った。移動しただけでどうにかなるのかなんてことは横須賀の考えることではない。考えたところでわからない。だから、直臣を連れ歩く。

 玄関口が開いているだろうとはいえ、言葉まではわからない。早足でぐるりと大きく家を回る。山田がひきつけている間に、遠回りでいいから道路に出る。そうすれば大丈夫だ。焦る心地をなだめるようにしながら、直臣を見る。直臣は足元を見ながら、つっかえつっかえ歩いていた。

「あ、の」

 裾を踏むようにして隠した足先。スリッパ。子供の足。速度がでなくても仕方ないだろう。掴むに躊躇った手で、鞄の紐を握る。

「俺が、さわっても、いい?」

 ひどくいけないことのように潜めた声で、横須賀が尋ねた。直臣の足が止まる。

「あの、行くのに、大変だから。君を抱えればどうかな、って」

「かかぇる」

 復唱した直臣は、袖を少し握り俯いた。うん、と、横須賀が頷く。

「服は、気をつける。嫌じゃなければ」

 直臣が一度家を振り返った。それからややあって、こくり、と頷く。

「きもちわるぃかもだけど」

「俺は平気。直臣君が気持ち悪くないなら」

「なんでぼくが?」

 きょとん、と直臣が尋ねた。横須賀は困ったように眉を下げると、平気ならいいんだ、と笑った。

「しつれい、します」

 おずおずと、横須賀の手が直臣の腹部に触れる。しゃがんだ横須賀に直臣がくっつくと、臭気が強くなった。触れた手の下では、ぐずりと柔らかい肉がつぶれるような感覚。

 山田の腕を握った感触とは、別だ。あれはあくまで腕だ。直臣のやわらかさは、もうひとつ違うところ。ひゅ、と細くなった息を、意識して整える。

「立つよ」

「ぅん」

 しゃがれた音は、体がくっつくとそのまま全身に震え伝わるようだった。触れた左足はしっかりしている。全部の部位が柔らかいのではなく、パーツパーツが別物のように硬さが違う。

 だからこそそれは異質で、治すことに怯えた直臣の声と、ぼくじゃなかった、という言葉が頭に浮かぶ。

 見るな。考えるな。

 山田の声がその思考を上書く。考えないことはできない。横須賀は愚鈍だが、思考を止めきれるほどの理性も持ち得ない。けれども、腕の中の重さは、本物だ。

 出来ることのない横須賀にとって、唯一がこれなのだ。

「痛くない?」

「ぃたくなぃ」

 返事に安心したように笑い、横須賀は一度直臣の位置を直すようにぐ、と持ち上げなおした。いつもの鞄がやけに食い込む。紙ばかり入っているから当然なのだが、鞄以外を抱えるとやけに重さが増した。

 直臣を隠すように抱きしめ、歩を早める。大丈夫。山田はきっと大丈夫。

 色薬があるならこちらと言われたが、人影もない。このぐずりとしたぬめりがアレにならなければ、大丈夫。

 視界の端に、熊出没注意の看板が見える。とはいえ洞親子の場所は遠いからそちらに行くことはないだろう。井戸から水を運んだとしたのなら、量にもよるが秋山は随分と足腰がしっかりしているようだ。

 それにしても、何故洞親子なのか。横須賀にはわからない。横須賀にとって洞親子は、相手を思いやろうと促す話でしかない。あまり覚えていないのもあるだろう。読んだといっても記憶の中だけでは曖昧で、今回読み返してそういえば、と思った程度だ。こんな奇妙な話があったのか、と今更の実感。幼い頃一人で読んだ文字は、結局こうやって取りこぼしてしまっていたのだという罪悪。それでも今、読み返したからこそ記憶の物語をなぞる。

 子供が連れ帰った両親。そんなはずはないと村長に相談しに行った祖父。子供に気づかれないようにと言われ、さらに振り返るなとも言われ守ったのに、子供がついてきてしまっていた。振り返ってしまった。それでも祖父は、その時液体になったわけではない。

 なぜか壊すはずの入れ物から子供が出てきた。後ろからついてきた子供と同じ姿のそれに祖父が触れば腕がもげた。ついてきた子供に両親が近づいて、抱きしめられて、子供の皮膚がずるりと落ちる。そういう話。

 ぶよぶよのなにかになった子供は畑を壊し、子供を見た幾人かはおかしくなって死んでしまう。狂い死ぬ、という表現は、子供心に不可思議なものでもあった祖父が子供を止めるために抱きしめて、混ざり合い、溶け合った水が畑を治し祠になった。祠にあるのは石なのに、彼らがなったのは水という奇妙な矛盾。

 水。結局のところ、汚泥は汚泥だ。無くなってしまう。山田の仕事だと言っていた。そうして色薬。思考に満たない羅列は、ぐるりと巡る。そういえば、しきやく、と山田は言っていた。横須賀が調べていろぐすりなのかもしれないと話した後でも、しきやく、という読み方を選んでいた。今回の件だって、調べて選んだもので。山田は、何故――

 考えるな。もう一度山田の声を思い浮かべて、横須賀はあたりを見渡した。

 誰もいない夜。淡い星明かりに、白が浮かぶ。

(え)

 横須賀は直臣を少しだけ強く抱きしめた。戻ることは出来ない。いや、戻るべきか? とっさの判断が出来ないまま、横須賀はそこから目をそらせない。

 暗がりでわかりづらいが、白と言うには少し薄桃色。いや、薄橙か。淡い色のワンピースに、長い髪。

 そこまで見て、横須賀は悟る。相手もちょうど横須賀に気づいたようで、笑ったように見えた。

 とててて、と、駆け寄る少女は、愛らしいワンピース姿にも関わらず、両手に厚ぼったい革手袋をつけている。

「おにーちゃんだぁ」

 柔らかい声。みーつけた、と笑う少女は随分無邪気だ。横須賀の腕の中で、直臣は体を強ばらせている。どうすれば、と思うが、今それを教える人は誰もいない。

「叶子ちゃん、どうしたの?」

「あのねー、あいてなかったのー」

 叶子の言葉は端的だ。どこを拾えばいいのか、それとも別の会話をすべきかわからない。緑の液体が、そこに浮かんだ時計が思考を圧迫する。息苦しい。

 車に。その言葉に縋るように、横須賀は一度頭を振った。

「おにーちゃん?」

「ええと、開いてなかった、のは残念だったね。開けて、って言ってみたらどうかな」

「うー、いいー。できるー」

「でき、る?」

 疑うというよりは、ただただ不安だった。叶子の身を案じる気持ちもあるのに、ざわり、ざわりと何かが這う。

 ぐじゅり。腕の中の湿り気が消えないように、潰さないように横須賀はその背を撫でた。

「できる! きょーこはいいこー」

 いいこという言葉が示すものは、なんだろうか。おとーさん。以前の言葉が浮かび、横須賀の喉がひきつる。

「叶子ちゃん」

 いい子じゃなくていいんだよ。そう言おうとして、しかしひきつったまま言葉にならない。それは以前と同じ理由だ。だって横須賀は、代わりになれない。

 以前よりも強い実感でもって、横須賀はその言葉を口に出来ない。叶う心地はわからずとも、願う心内はわかってしまう。

「いいこだからね、おつかいできるの」

 おつかい。それが何か聞くよりも前に、横須賀の足は山田達の方に一歩下がった。行くことが、出来ない。叶子の大きな黒い瞳が、星空をちかちかと映ししている。

 あたりを見渡す。人通りのない夜だ。他の人影はない。遠くで高い女の声が響く。振り返る? あちらもなにかが進んでいる。叶子はなにも持っていない。腕の中には直臣。

「えっと、俺、今日は行かないと」

 どうすべきかわからず、結局漏れた言葉はそれだけだった。あの緑が叶子に因ったとしても、方法がわからない。山田の警戒が事実だとして、今横須賀がそれを止めるには手段が見つからなかった。そもそも人が液体になど、どうするというのだろう。

 ただ腕の中の重さだけに縋るようにして、戻りたくなる足を一歩進める。

「それ、おにーちゃんの?」

 その一歩の前に、叶子が立つ。指で示されたのは直臣だ。ぐずり、と、首に回る腕の力が強くなる。

「ちがう、よ」

 横須賀の物ではない。そもそも直臣は人だ。なにかおかしなところがあろうとも、横須賀にとっては子供だ。だから誰かの物なんてことは有り得ない。それが自分の物だなんて、余計有り得ない。

 単純な理由でもって否定した横須賀に、叶子はこぼれそうな大きな瞳を弓なりに細めた。

「よかったー。じゃあ、いいや」

 笑いながら叶子が直臣に手を伸ばした。大きく横須賀が一歩引く。歩幅の違いで届かなかった手を、ぱちくりと叶子は眺めた。口元が小さく動いている。

 何故だろう。歌うような優しい表情は横須賀の胸をざわつかせた。手のひらがずくずくとする。まるでそこに心臓があるかのように。

(う、た?)

 そこまで考えて、横須賀はひゅ、と息を呑んだ。だめだ。それは、だめだ。届く音は少女の愛らしい声なのに、脳をひっかく。

 ふつ、ふつふつ。こぽぽ。小さな震えが腕の中で横須賀に染み渡る。臭気が濃くなる。

「だめ、だめだよ叶子ちゃん」

 直臣を抱きしめたまま、横須賀が叶子に近づいた。片手で伸ばした手から、あっさりと叶子は逃げる。翻るスカート。夜に浮かぶ姿は、いっそ薄ら寒いくらい無邪気だ。

「やめて、だめだ、ねぇ」

 叶子は笑うだけで、聞かない。軽やかな彼女を、子供ひとり抱えたまま捕まえるのは困難だろう。いっそ下ろすべきか。逡巡を、小さな音が遮った。

「ぁ」

 空気が袋から漏れ出すような微かな音。腕の中、湿り気が消えていく。抱きしめた分、へこむ背中。

「え」

 あわてて横須賀は直臣を引きはがした。臭気が舞う。瞼の裏、あの日が明滅するよんだった。ふつふつと茹だるような蒸気。まるで蒸発するようなのに、熱は存在しない。遠くで、秋山の高い声。

 服の中、確かにあった質量が、びちゃりと。

「直臣君!」

 叫んだ横須賀は、抱えた子供の顔を真っ直ぐと見据えた。――見据えてしまった。

「ぉにぃちゃ」

 怯え見開かれた右目から、黒い蒸気がふつふつと揺らいでいる。涙すら流せないまま、その左目は存在すらせず、黒い。ぽっかりと空いた眼孔が、頭蓋の中を見せる。

 ただれた皮膚。おそらくそれはわかっていたことだ。腐ったような臭い。それは、直臣の肉、だ。

 死肉が、臭いでもってその先を語る。混ざる刺激臭は、蒸気の奥。縋るように直臣の手が首に伸びた。なにもわからないまま、抱きしめる。ざらり。湿り気がなくなったそれは、粒子になって。

「こわぃ」

 耳元でしゃがれた声が響く。

「じょーずにできました!」

 そうしてすべてが爛れ、地面に落ちて。

 ごとり、と地面に落ちたのは左足、左腕。小さな眼球が、ころん、と、鞄の上に落ちて、潰れた。