4-15)ノート
「くずれて、かぇちゃって。ぼくのものになる。でも、それはぼくじゃなかった。ぼくじゃなぃのに、ぼくは、なんなんだろう」
子供には届かない高さでも、横須賀の上背ではノートにあっさり指が届く。ざわり、と、まるで指の腹を撫でるような背表紙の感触に首後ろが落ち着かない。
「ぼくのぅではだれかの。ぼくのぁしも、だれかの。きっとこのままだと、めも、ぁたまも、くずれちゃぅとかわって、それは、こわぃ」
ノートを開く。黒。ミミズがのたくったような、という言葉が比喩でなく実際に思えるほどぐずぐずと黒鉛でつぶれた文字。それは文字と行って良いのだろうか。記号と言うべきか、絵と言うべきか。それとも黒でしかないのか。
声が遠ざかる。
「ぃっしょに、ぃきたぃ、ぃく、けど、でも、けど」
ひゅー。ひゅー。遠くで、音がする。ページをめくると、見慣れた文字があった。日本語。文字を追う。
「ぼくは、ほんとぅに、ぼく?」
遠い場所で響く直臣の声と、ノートに書かれた「儀式」という文字が重なった。
儀式。普通なら、こんな感情を持たないだろう。肺が苦しくなるような二文字ではない。日常とは少し遠くとも、祈りを込めた特別だ。例えばお祭りだってそうだ。なのになぜかその言葉が瓦解し、喉を塞ぐ感覚。先日廻魂祭りのような儀式を知ったからだろうか。浮かんだ思考は、しかし息苦しさがかき消した。浮かぶのは、崩れた人の肉だったなにかで――考えるなと言う山田の声が内側に響く。
「それを判断するのは私じゃないよ」
「ぅ」
「私にとっては、君も君のおばあちゃんも、あの大きいお兄さんも、みんなおんなじだ。なにを考えているかなんてわからない」
ノートには、末尾に『呪文』や『儀式』といった奇妙な言葉がつく単語が記されている。そしてその概要も簡単に。おそらくこれは読ませるためのページだ。最初の読めなかったものが絵なのか文字なのか不明だが、こちらは日本語。そして黒ずんだよくわからない、最初と同じかも判断できない奇妙なものも一緒にある。日本語の書き記し方から、原文かなにかに思えるが読み解くには文字がぼやけて見えてしまう。
英語ではない。知っている言語では、ない。
「私がわかるのは私の考えだけだ。だから私は私。直臣くんのことは、直臣くんが決めなきゃいけない」
「ぼく」
「死にたくなくて、でも怖くて、誰かわからない私たちに扉を開いた直臣くんが、決めるんだ」
時渡りの儀式。望んだ時代に渡る通り道を作るための儀式。鏡移しの儀式。望む体を手に入れる為の儀式。神子懐胎の儀式。血縁者の姦淫により神と通じ通り子を成す儀式。戻りみずの呪文。条件を満たした対象を子途に返す呪文。子途の裏返り。戻りみずの条件から外れた対象に起きる症状。
「わかんなぃ、けど、やだ。こわぃ、は、ほんとう」
「うん。だから、行こう。大丈夫、そこのお兄さんと――」
部分受肉による定着の儀式。子途招来の呪文。通り道から子途を呼ぶための呪文。知識の貸与。神の声を聴き望む知識を得るために道を重ねる儀式。必要なものは
ぐ、と、肩が痛んだ。そこでようやく横須賀は顔を上げる。痛みに右斜めを見れば、肩に鞄の紐が震え食い込んでいた。
「あ、……え?」
「なにをみつけた」
険しい顔の山田に、横須賀はノートを閉じる。ぱち、ぱち、ぱち。焦点の歪んだ視界がようやく戻った。声を出していないのに、喉が乾いている。
「ノート、が」
「ぉばぁちゃんの」
横須賀の言葉を、直臣が補足する。けれどもその言葉は横須賀にとって異物だった。ノートを奪い取った山田が、横須賀を見上げる。
「どうした」
「字、が、違うので」
見比べなくてもわかる。読めない部分はわからないが、日本語の部分は違う。丁寧とかそういう問題ではない。わざとなら横須賀にはわからないだろうが――自然な範囲では、まったく別物だった。
「そうか」
小さく息を吐いて、山田は扉を見た。時間を気にしているのだろうか。手が、一度だけ強く鞄の紐を潰す。引かれるように横須賀が山田を見、山田が横須賀を見た。
サングラスに写るのは横須賀の顔だけなのに、その先がなにかを言うようで――しかし紐を押すようにしてあっさり山田の手は離れてしまう。視線は、ノートに向けられた。
一頁目。塗りつぶされた頁に表情は険しく、だがすぐに頁はめくられる。時間がないからかはじめからそうと決めていたのか読み解く様子もなく次を見た山田が、息をのんだ。
山田の両腕が、ノートを抱きしめる。伏せた顔、引き結ばれた唇の端。
まるで祈るような所作は、遠い世界だ。横須賀は宗教に詳しくないが、まるでステンドグラスに描かれるマリアや信徒のような、こうべを垂れ祈るに似た――
「は、」
その思考は、ひきつった声で無理矢理途絶えた。は、はは。痙攣のような喉につかえた笑いが落ちる。つっかえ転んだ音は届けるものとは到底言えない。は、というよりは、ひゅ、という音かもしれない。高い空気の漏れる音。痙攣。かろうじて笑い声とわかる程度のもの。
「やまだ、さん?」
声をかければ音は小さくなった。それでも、肩が震えている。直臣がきょろきょろと山田と横須賀を見比べ、横須賀は鞄の紐を握りしめた。
手を伸ばして良いかわからない。けれども放っておくにはあまりに、
「やまださん」
殴れという言葉が浮かび、手を伸ばす。ぐ、と握った拳の内側には、山田の腕。柔らかく細い腕は、たやすくその骨まで届くようだった。
「山田さん」
声と共にその骨を押すと、山田の痙攣が止まった。左腕でノートを抱え、右手が横須賀の手を掴む。
「正気だ」
短い言葉。はっきりとした単語なのに、その言葉の意味をはかりかねる。
「……少し興奮したのは事実だが、イカれちゃいねえ。思い出し笑いだ。手離せ」
思い出し笑い。その言葉のいびつさを指摘することなく、横須賀は手の力を緩めた。
肉と骨の感触が、まだ浮いている。
「ごめんね直臣くん。驚かせたね」
「どうした、の?」
「……ちょっと、ね。ひとまず動こう。君が今の私に付いてくるのを躊躇うならどうしようもないが、そうでないなら優先は動くことにさせてほしい」
直臣は少し扉をみたが、ややあって頷いた。山田が笑み、頷く。
「ありがとう。……勝手口に行こうか。靴はある?」
「くっ」
言葉を反芻し、直臣は足の裾をぐずりと動かした。つい、と山田が視線を逸らす。
「持ってくるよ。待ってて」
言葉に直臣は頷いた。山田がとん、と横須賀の背を押す。
押さえていた扉の本を横にずらして、扉を閉めながら山田が廊下に出る。まだ、人の姿は無い。
「駐車場への道はほぼ一本。正直やることは人攫いだ」
ぽつり、と山田が呟いた。手に持ったノートはそのままで、表情は平時と変わらない。
「ただ、ガキは本来いないものでもある」
玄関の靴を、山田がしゃがみ拾う。横須賀の大きな白い運動靴が押しつけられ、棚の中から出したスリッパも続けて渡された。
山田の靴は、そのままだ。
「秋山と話すコトが出来た。ガキ連れてけ。車で待ってろ」
「え」
「やばいとしたらガキだ。洞親子でもわかってるだろ、アレは本来動かさないことを想定されている。それに、色薬の元と仮定した場合連れていくテメェの方がなにかあるかもしれない。が、俺は俺の仕事をする」
横須賀を山田は見ない。これは決定事項だ。
「やれ」
静かな命令。横須賀の視線が、黒い背表紙に落ちる。
「それ」
「あ?」
「持って、いきます」
横須賀は鞄を持っている。ノートを入れても曲がることは無いし、当然の提案だ。
けれども山田の眉は水平気味に寄る。
とん、とん、とん。指先がノートを小さく鳴らし、それからもう一度握り直された。
「いい」
何故、と問うことは出来なかった。自身が落ち着かない理由を、横須賀は言葉に出来ない。
山田を一人にするから? それともこれから直臣と共に行くから? なにが起こるかわからないから?
どれも正解のようで、どれも違う。だって、これは
「気をつけろよ」
とん、と、山田が横須賀の腹部を押した。結局横須賀は頷くしか出来ない。
何故だろうか。見るな、という言葉が内に響いた。
「山田さん、も」
かろうじて漏らした声に、山田の眉が少し下がる。それから玄関に視線を向けた。
「ガキがどうなろうが俺には関係ない。色薬絡みなら、そうなるのが問題なだけだ」
山田が靴を履く。直臣に掛けた優しい声と、静かな声は遠い。けれども同じ声だ。
「まずは自分を選べ。その次にガキ。結果は考えるな。俺の決断だ、テメェがどうしようとテメェの手柄にはならない」
つま先が床を鳴らす。
「行け」
それは、しまいの合図だった。