4-11)聞こえない言葉
す、と秋山が立ち上がった。そうしてポットを手に退室するのを見てから、山田は用紙を粗雑に畳んだ。てっきり渡されるだろうと思った紙は、そのまま山田の胸ポケットに収まる。
なんだか落ち着かない心地で、横須賀は自身のジーンズを一度撫でた。
「今日は見るだけ、だ」
横須賀に届くか届かないかの声で、山田が呟く。その言葉を掴もうと山田を見ると、山田はするりと立ち上がり窓際に寄っていった。
窓枠に触れ、右から左に伝うように撫でながら窓を開ける。視線は窓の外で、庭を見るようでもあった。
なにか声をかけようと思うが、言葉がそう見つかるわけもない。結局横須賀は、立ち上がる前に一度部屋を見渡した。
見渡すと言っても、さほど物がない部屋だ。机は極普通のもので、足がしっかりしている。大きさは一畳分くらいだろうか。一家族で利用でいる大きさだ。押入れが部屋の隅に。床の間の境になる柱には、座ったまま視線を動かすとちょうどのあたりにへこみがあった。物の角をぶつけたまま少し擦ったような深い跡は、その視線の高さのまま見渡すと出入り口の柱にもついている。
念のためその位置をメモして立ち上がり、触れてみたものの、特別なにかわかるわけでもない。特に誰か見ているわけでもないが反射のように情けない笑みを浮かべた横須賀は、その視線の高さでもう一度部屋を見渡した。
横須賀の上背はおそらく日本家屋に合っていない。だから当然だが、やはり本来の視線の高さではなにかがあると気づけることもなかった。高い位置に置かれているのは時計くらいだろうか。基本的に部屋はシンプルに整っており、おそらく秋山一人でも管理しやすいように物の高さ自体が整えられている。下から上に視線を動かす間に気づいたことと言えば、家の外見に見合った程度の傷くらいか。柱の傷のようなうっかりした物と言うより、生活に依った傷跡は人の気配を感じさせる。十五歳の子供がいるのだし、民宿経営前を思えば当然かもしれない。
「おい」
「はい」
山田の声に返事をして、横須賀は窓際に近づいた。足下の畳は建物の割には綺麗だ。祖母の家では畳の交換などほとんどしていないようなので、はじめて利用する民宿から見える特徴に少しだけ新鮮な心地で歩く。
山田の隣に並ぶと、山田が庭を示した。庭は来たとき感じたのと変わらず、綺麗に整っている。
「聞こえるか」
潜める声を聞いて、横須賀は耳を澄ました。しかし、響くのは虫の声と葉の鳴る音くらいでわからない。
「すみません、えっと」
「いい、庭見とけ」
言葉に頷き、横須賀は庭を眺めた。雑草が生い茂ることはないが、塀の内側を蔦が覆っている。水道は窓から見て右手壁側、ホースとじょうろ、ポリバケツが傍に置かれている。じょうろとホースには砂汚れ。ポリバケツは蛇口の水受けの上。
「なにかありました?」
襖を開ける音の前に、穏やかな声。失礼します、と中に入った秋山が、湯飲みと茶葉を置きポットをコードに繋いだ。
「綺麗に管理されている庭だな、と。ご自分だけでやっているんですか?」
「ええ。ほとんど木の高さもありませんし、道楽のようなものです」
「そうなんですか。あとでお庭を拝見してもよろしいですか?」
山田の問いに、秋山はぱちくりと瞬いた。視線が一度右に動き、それから戻る。
「構いませんが……その」
「騒ぎはしません。お孫さんを驚かせないように注意しますよ。それとも窓から見てびっくりしてしまいますか?」
「いえ、多分カーテンを開けることはないと思うので大丈夫だとは思いますが」
「そうですか。でもやはり止めておきますね。もし拝見するにしても玄関近くだけにしておきます。いやはや、このナリでお恥ずかしいんですが、実は庭を見るのが好きなんです。丁寧に管理されているから、つい勝手を申しました」
突然すみません、と山田が頬を掻く。いえ、と秋山は眉を下げて微笑んだ。
「泊まりにくる方でそういった趣味の方がいなかったので、嬉しいお言葉です。好きに見た目も性別も関係ないと思いますよ、有り難うございます」
秋山が立ち上がり、押入の前に向かう。おもむろに開けられた押入には、下の段に布団、上の段に枕などの小物とハンガーを掛けるスペースがあった。
「お布団は夜にご用意させていただきますが、もし早くにお休みになる場合は声をかけください。お召し物を掛ける場合は上段をご利用ください」
「有り難うございます。体に不自由はありませんし、布団はこちらで準備するから大丈夫ですよ」
でかいのもいますしね、と山田が横須賀を見やり言うのを受け、反射のように横須賀は頭を下げた。秋山が横須賀を見上げる。
「本当に大きいですよね。お二人ともご健康とのことで、羨ましいです。私も歳ですからね」
「いや、ご年齢を聞いて驚いたくらいにはしっかりされていますよ。ご健脚のようでなによりです」
「あらやだ、なんだか恥ずかしいわ」
そう言って秋山が、少し隠すように足の前に手を置く。元々秋山の足はズボンで綺麗に覆われているのだが、反射のようなものなのだろう。一度ズボンの裾を握り離すと、秋山は改めて山田たちに向き直った。
「それではごゆっくりどうぞ」
「有り難うございます」
見送る山田は、しかし窓から離れない。座る様子もないので所在なさげに横須賀はあたりを見たが、ポットが増えただけでなにも変わらない。
葉がそよぐ。風の音は、しかし人の声を運ばない。子供が遊ぶには日が暮れたせいだろうか。それとも子供自体が少ないのかはわからない。かたん、と扉の音が遠くで落ちる。それから少しして、廊下を歩く音。山田が戸に向かう。
「どうかしましたか?」
開く頃を見計らって、山田が声をかけた。表情は見えないが、声だけはきょとんとしたような少し柔らかい抜けた音に聞こえる。戸を開けた秋山は声を受けて少し体を揺らしたが、それから申し訳なさそうに眉を下げた。
「ああすみません。実は手紙を出し忘れていたのに気づいて……少し家を空けますのでお伝えしようと」
「構いませんよ、暗くなりますし気をつけてください。お車ですか?」
「通りまでですし歩いていきます、大丈夫です。慣れた道ですので」
秋山は手にした封筒を見下ろしながら頭を下げ、あっさりと部屋を出た。そのまま玄関に向かう足音が続く。言葉少ないままやや大きくなった所作の音で、急ぎなのだろうというのはよくわかった。
山田が戸を閉める。
「……?」
戸を閉めたまま動かない山田に、横須賀はそっと近づいた。隣に立つのはなんとなく憚られ、思考するような沈黙に音を立てるのも躊躇う。
斜め後ろから見ても、山田の表情は見えない。サングラスだけでなく、覗き込まなければその眉の動きも横須賀にはわからないのだ。かろうじて、その唇が小さく動くのだけがわかった。
声をかけることが出来ず、かといってすることも浮かばない。そして見えない表情を捕まえられないのに、視線を動かすことも出来ない。
見ろ、と命じられる横須賀は、故にすべきことを他に持たなかった。
「っ」
コォン。響いた音が、空気を裂く。戸を挟んでいる為かくぐもった音は、向かって左手側、廊下の奥から響いたようだった。小さいが沈黙の中では確かに届いた音に横須賀は体を縮こまらせ、山田は顔を上げた。
上がった顔、引き結ばれた唇の意味を横須賀は知らない。
「お孫さん、でしょうか」
かろうじて発した言葉は当然の推論だ。秋山がいないのなら、家にいるのはその人物しかいない。
しかし山田は頷かず、俯きながら細く息を吐いた。
ため息と呼べるようなその呼気は小さい。かろうじて届いたのが不思議なくらいの音に、横須賀は手のひらを親指の腹で撫でるように押し握った。
「孫の部屋を確認してみるか」
「え」
発せられた山田の声は、意外とよく通った。確認のようで独り言にも似た音だったのにもかかわらず、横須賀によく聞こえる音量。
秋山の忠告を山田が忘れるわけなどない。鞄の紐を握り、横須賀は廊下に出た山田に続いた。
「あ」
小さな背が右手側にある。孫のいるだろう左手側廊下の奥を一瞥し、横須賀は山田の隣に並んだ。高さが違うので見るものは違っているだろうが、位置からだと玄関を見ているのがわかる。
いち、に、さん。動きがないのでなんとなく数をかぞえると、ろくとななの間で山田が横須賀を見上げた。
「テメェは部屋に」
言葉がそこで途切れる。助詞である最後の音は少しだけ小さく、尻すぼみに似た物言いは山田らしくない。
部屋に居ろ。そう言い捨てられるだろうと思ったものが、その小さな口の中に丸まり残ったようだった。