4-10)民宿秋山
「突然申し訳ない」
「そんなに何度も謝らなくていいんですよ、丁度暇をしていたところです」
ふふ、と穏やかに秋山が笑った。少し痩せた彼女は、事前に聞いていた七十一歳という年齢よりもやや若く見える。それはその顔立ちからと言うより、所作からだろう。民宿経営をしているとだけあって部屋に案内する動きには慣れたものがあった。
案内された部屋の中央には大きな机がある。窓は入ってそのまままっすぐの壁についており、部屋の左隅には座布団が六枚重ねられている。机の上にあるのは空の菓子入れとティッシュ箱。ビニル袋を受けに使っている空のゴミ箱は、机の向こう側。テレビは備え付けられていないが、床の間には子機とポットが置かれている。
「お湯はまだ入っていないんです。お茶をお飲みするならお水を入れてきますから、使うのは少し待ってくださいね。今飲みたい場合はお持ちしますけど」
横須賀の視線に重ねるような秋山の言葉に、横須賀は少し体を強ばらせた。あ、と短い言葉の後、慌てて秋山を見る。とっさに言葉が出ない横須賀に代わって口を開いたのは山田だ。
「お気遣い有り難うございます。あまり飲まないかもしれませんが、念のためお湯は頂戴できると嬉しいです。今はまだ喉が渇いていませんのでお構いなく」
「そうですか。ではお湯だけお入れして置きますね。湯飲みと急須も持ってきますから、ご自由にお飲みください」
「有り難うございます」
山田が頭を下げると、いいえ、と秋山が微笑んだ。山田の頭が上がりきるより前に、横須賀も慌てて頭を下げる。
ぎ、と秋山が畳の上を歩く。褪せた色の靴下には汚れが見えたが、その足が退いた後の畳には特に色がついていない。横須賀は頭を上げながら、なんとなくその足取りを眺めた。
横須賀の祖母は少し床を擦るように歩く。段差に気をつけないとねぇと言っていたので、わざとではなく年齢からのものなのだろう。だが、今見た秋山の足取りはしっかりとしていた。指先で畳を踏み、かかとをあげて歩いている。だから若く見えるのだろうか。顔を上げきると、秋山が座布団を二枚机の傍に並べていた。
「座布団出しておきますが、必要がありましたらご自由に使ってください」
「はい、お借りします」
促され、山田が窓を背にして座布団に座る。一拍遅れた横須賀にも、座布団を顎で示して座るように促した。
「ポットの準備の前に、先ほどお話ししましたが改めてお願いしますね」
そういいながら、秋山が畳に正座する。山田と横須賀の間に置かれたのは、秋山が玄関で手にしたA4サイズの紙だ。
用紙には手書きの文字で、少し大きめに『民宿秋山』と書かれている。おそらくこれだけ違うマジックで書いたのだろう。文字の大きさだけでなく太さでも他より目立つものだ。
書かれている見取り図の外枠は細マジックで囲まれており、内側は極細。注意事項や箇条書き部分は細、他簡単な記述は極細といった形で、ペンを使い分けているようだった。それらで書かれた原紙をコピーしたものに、さらに赤で線を引いてある。シンプルだが丁寧な書き込みの紙の上側、見取り図部分に秋山は指を置いた。
「先ほどお話ししましたが、生活区には入らないようにしてください。ご用があった場合私の自室、台所に。外の倉庫もご遠慮ください。お風呂は時間になりましたらご案内致します。着替えはありませんがタオルなどはお貸しできますのでご遠慮なさらず。
隣の部屋は本日お客様がいらっしゃいませんが、飛び込みの方が来られたらご協力お願い致しますね。お煙草は申し訳ありませんが外でお願いします。お食事は必要ないとのことですが、もし足りないようでしたらなにか見繕いますのでお気軽に。お食事以外でもなにか足りないものがありましたらお声かけください、そちらの子機は内線で繋がっていますし、勿論直接でも構いませんので。申し訳ありませんが夜はあまり遅くならないようにお願いします」
紙の内容をひとつずつなぞるようにして、秋山が説明を終える。するすると丁寧になされた説明に逐一首肯で返していた山田は、秋山の指が紙から離れるのを見るともう一度ややおおげさに首肯し、秋山を見上げた。
「一点お願いと、二点ほど質問をよろしいでしょうか?」
「はい、なんでしょう」
秋山が促すように訪ねると、山田は机の上の紙を反転させて秋山に向けた。そうして、指を置く。
「お願いの方ですが、お願いと言うよりこちらのやることになるのかな……。ええとですね、入浴の気遣いは有り難いのですが、見ての通り予定になかった宿泊でして替えがありません。女性を前にお恥ずかしいですが、正直一日程度なら気にならないため湯船はお借りしないつもりです」
「あら、シャワーだけでもと思いますが、大丈夫ですよ。それにしてもこの歳でそういう気遣いを受けるとは思いませんでした」
穏やかに秋山が目を細めると、山田は肩をすくめて見せる。口元に浮かぶのは微笑だ。
「女性はいくつになっても女性ですからねぇ。それにずいぶんお若く見えますよ、私の母と同じくらいですかね? 六十代……っと、すみません、女性への気遣いと言いながら一番の失礼をやらかすところでした」
おっと、といった調子でぽふりと山田が口元を覆う。秋山が今度は声を漏らし笑った。
「ふふ、お上手ですね。もう七十一です。嬉しいわ」
「そうなんですか? 中々どうして驚きますね。じゃあもうお孫さんも社会人で、のんびり民宿って感じですか」
やや大げさに声を上げて、にこにこと山田が問いかける。しかしその言葉には、秋山は笑むよりも表情を少し曇らせた。
「いえ、孫はまだ十五でして。お風呂場前の部屋ですけれど、ここが孫の部屋となっております。少し繊細なところがあるので、出来たらそっとして置いてください」
「十五歳。それじゃあ中々難しい年頃ですね、気をつけます。ではご夫婦はこちらの部屋でしょうか」
「……いえ」
短い否定。伏せた顔に浮かんだ表情は悲しげで、瞼が小さく揺れている。山田が膝の上に手を置き、姿勢を正した。
「申し訳ない。言葉が過ぎたようです」
「いえ、こちらこそ失礼を。事故で息子夫婦が亡くなりましたが、孫がいるだけ幸いだと思っています。そういうわけで、申し訳ありませんがご配慮いただければと」
細く息を吐き出して、秋山は視線を少し遠くにやった。おそらく孫の部屋を思い見たのだろう視線は、秋山が頭を下げたことで逸らされる。そうして顔を上げた秋山の視線は、一度少し上に持ち上がり、それから少し下りて山田に真っ直ぐ向けられた。
「ご質問の方を伺ってもよろしいでしょうか」
「ああ、申し訳ない。質問と言っても些事なのですが」
そう言って山田が、再び用紙を見下ろす。指の腹でなぞるように紙を撫で、それから秋山を見た。
「飛び込みの方、といいますが多いのですか? 利用させていただいてなんですが、民宿にそれは珍しいな、と」
「ああ……それは、土地柄ですね。出来るだけ受け入れられるようにと思っています。お客様のプライバシーなので、理由はそれだけでもいいでしょうか?」
秋山の視線が外を見やるように動き、また戻る。ご協力お願いします、と丁寧に下げられた頭に山田は爪を紙に押し当てるようにして立てた。指に押され歪んだ形は、しかしすぐに元の形に戻る。
「土地柄。承知しました、こちらこそ詮索するような真似申し訳ありません」
「いえ、ご理解有り難うございます」
山田が頭を下げると、小さく秋山が笑む。そんな秋山にあわせるように、山田も笑みを返した。
「もう一点は本当ただの興味本位なのですが……サイトがあったのを拝見していますが、こちらは手書きなのだな、と。私としては手書きの暖かみ見やすくて好きですが、サイトを利用するような場所でこれは珍しく感じまして」
「ああ、ホームページは業者の方にお願いしたんです。今の方はそれがわかりやすいかな、と思いまして。宿泊の空きについてだけ変更の仕方を聞いて、あとはほとんどそのままですね。お恥ずかしい話ですがとてもとても難しくて……パソコンはあるんですが、やはり手で書く方が早いんですよね」
なんとかやっています、と秋山が少し恥ずかしそうに答える。確かに先に確認したページは、ずいぶんと見やすいものだった。調べて事前に空き状況がわかるのは好ましいだろうし、業者に依頼してそれを使いこなせるなら十二分だろう。手書きの文字もきれいで見やすいものだ。
「パソコンはややこしいですよね。とても丁寧にお気遣いされていると思いますよ。お忙しいでしょうにどうでもいいことを聞いてしまってすみません。私があまり使わないので、つい気になってしまって……有り難うございました」
「いえ、お話嬉しいです。ではポットにお水を用意してきますね」