3-14)青提灯の夜
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青提灯が、夜闇に浮かぶ。巡り池から見下ろす灯りは、生命線のようだ。息を吸うことも吐くことも困難な中、代田かんなは神社に向き直った。
ぴったりと閉まった扉から、我が子の姿は見えない。あと一時間もしないうちに全てが終わる。夫の頼った探偵は社を二度訪れた。二度目の時はすでに日も暮れた時間。やけにかっちりとしたスーツを着ていたのでなにかするのかと流石に焦ったものの、遠目にわかったのはそれだけだ。暫くしたらあっさりと外に出て行った。娘を攫うのではないかと案じたが、猫背の人間とサングラスの人間が持ち出したものは恐らく帳面とかそういったものだったように思える。儀式を考えると止めた方がいいのだろうかと悩んだが、しかし美幸はそのままだったのでかんなは結局見送るのみで終えた。神社の方を調べているのもわかったが、あちらはかんなにはわからない場所で、結局どれもなにかしている、程度の理解しかできない。
結局美幸はどうにもならないのだ。知っている。かんなは既に決意していたのだから、そのことを嘆くより安堵したと言っていいだろう。肺の中淀んだ酸素は停滞しているが、それでもかんなは、探偵が何かすればそれを止める義務を持っていた。
我が子は可愛い。それは当然だ。しかし、だからといってもう二度とあんな過ちをしてはならない。どんなにこの地から逃げようと思ったか。どれほどの思いでここにいるのか。かんなの思いを、夫は理解しない。するわけがない。だからこそかんなは夫を止めず、しかし儀式を見守る道を選んだのだ。
無事にすべてが終わる。それを喜べばいい。かんなは肺の中を空にする為に、押し出すように胸を押さえながら長く息を吐いた。
腕時計を見る。時間は、二十二時四十七分。全てはなにも変わらず――しかし、かんなは顔をあげて体を強張らせた。後ろを見れば、ひょろりと背の高い男が近づいてくる。
「代田かんなさん、ですね」
白い鞄の紐を強く握りながら、男が細い声で呟いた。声を掛けようとして失敗したようなその音に、かんなは眉を顰める。
「……あなたは」
「代田大樹さんにお話させていただいた、探偵事務所の者です。えっと、横須賀一、と申します。助手、を、しています」
つっかえつっかえ話す男――横須賀の顔色は悪い。夜だからというだけではないだろう。月明かりの下、太い眉をハの字に下げる表情からも男の性質が見えるようだった。
白目がちの三白眼なのに、なにもかも頼もしくない。こんな人間が探偵助手。喉奥からでかけた声を飲み込んで、かんなは唇の端を噛んだ。
「帰って」
「え、っと」
「帰ってください。もう祭りは終わります。貴方達は間に合わなかった。間に合わせる気がなかった。あの子のことは諦めます。大樹の言葉はもう忘れてください。依頼は失敗しました。お金は返さなくてもいい。だから、帰ってください」
絞り出すようなかんなの言葉に、横須賀は更に眉を下げた。元々情けない顔が更に情けない。かんなは横須賀を睨みつける。
こんなのに頼ろうとしたのか、あの人は。
「もう終わるんです」
「終わりません」
横須賀が静かに言った。断じる言葉を吐き出す表情は相変わらずのハの字眉だが、その唇の動きは固い。
神社を見る。相変わらず扉は閉まっている。
「会長たちが来ます。それで終わるんです」
「その終わりは来ません。だから、お願いです。一緒に来てください」
「一緒に?」
何を言っているのだ、この男は。かんなは苛立ちがこめかみに上るのを感じた。じっと見据えてくる三白眼はその眉の形で鋭さを台無しにしているのにもかかわらず、まるですべてを見透かすようで気味が悪い。
今にも謝罪を口にしそうなほどの顔色で、鞄の紐ばかりを固く握りしめて。それでもなお横須賀はかんなを見る。見続ける。
見透かしながらも縋るようなその目は、心底不気味だ。
「一緒に、です。……美幸ちゃんも、待ってます。貴方を美幸ちゃんは求めているんです」
「一緒に」
不気味だが、しかし横須賀の言葉にかんなは足を動かすことが出来なくなった。美幸が待っている。一緒に。その言葉が頭を巡る。
横須賀がかんなをじっと見下ろす。
「……せめて一緒に死ねと。そういうの」
「え」
かんなの声は静かだ。それを受けた横須賀の声は、間の抜けた色をしている。
「そうね、あの子ばかり行かせるなというのはわかるわ。そう、私は損なっていたから。助けるのでなく断罪者なの、貴方は」
「え? あ、え、あの、ちが」
「あの子と一緒に贄になれと言うのでしょう、そこまで調べたんでしょう。それで貴方達はあの子を救うすべもなくせめてそうしろと」
「違」
先程とは別の理由でもって、横須賀からひきつった声が出る。狭まった喉から吐き出される言葉はそのまま地面に落ちて潰れていく。ひしゃげたカエルの鳴き声のように、かんなは言葉を吐き捨てる。
知っている。知っているのだ、どうせなにもかも変わらない。変わりっこない。
救わない断罪者が目の前にいるのなら、かんなはなにを言えばいいのか分かっていた。
「さっさと死ねばいいんでしょう私が!」
「違います!!」
悲鳴のようなかんなの叫びを、低い声が叩き潰した。ひゅ、と喉が鳴る。叫んだ男は酷く苦し気な顔をしていた。断罪者の癖に偽善じみて、苛立ちとどうしようもない苦しみがかんなの内側を粟立てる。
横須賀は長く細い息を吐くと、自身の胸を押さえるように鞄の紐を中心にまで引き寄せた。
「美幸ちゃんは、貴方を求めています」
言われなくても知っている。かんなは美幸を愛していた。可愛い一人娘だ。大樹と美幸、二人のお蔭でようやく家族を取り戻した。ようやく幸せになると思った。めいいっぱい愛情を注いで、大樹も美幸も自分を愛してくれていると自信をもって言える、そういう家庭を得たのだ。
赤の他人に言われなくても、そんなことは知っている。
「だから、死ぬ、じゃないんです。そんな悲しいこと、」
「悲しい? その程度のことが?」
かんなはひきつった声で笑った。目の前の男が不愉快で仕方ない。
赤の他人で、ただ場所をひっかきまわそうとして、それすら満足にできなかった情けない探偵の助手。そんな男が、なにもしない男が悲しいというのだ。
それを滑稽と言わずしてなんといえばいいのだろうか。
「貴方がいないと、美幸ちゃん、は」
「あの子はもう、どうしようもない。そのあの子と一緒に、というのならそういうことでしょう。それとも今更この状態で美幸を助けると? 貴方達なにも出来ていないじゃない。もう、美幸はこのままよ。今貴方達がどうにかしようとしたところでどうにもなるわけがないし、どうにかさせる気もない。大樹が満足すればよかっただけなの。私は別に、貴方達にそんなこと期待していないわ」
早口でまくし立てながら、かんなは段々と心が凪ぐような奇妙な感覚に浸り出した。もしかすると、凪ぐというよりは諦めなのかもしれない。その感覚の正しい名前はわからないが、しかしかんなは、最後に残っていた感情がつるりと滑り落ちていくような心地がしたのだ。
そうだ、期待していない。助かる訳がない。かんなは知っている。この祭りが行われないことのほうが、よほど恐ろしいことだ。
世界は全て、巡り巡る。循環の輪を乱せば、全てが崩れる。だからこれはすべて決まったことなのだ。決まった犠牲だ。
「助けられもしない癖に馬鹿なことを言うのは止めて。これ以上貴方と話をするつもりはない。なんでここにいるの? 会長が来る前に帰りなさい。もうすることなんてないでしょう」
「することはありますよ、代田かんなさん」
背後から、静かに声がかけられた。上がりそうになる悲鳴は酸素と一緒に肺に飲み込まれる。
「――話をしましょう」
小柄なその人は、ゆっくりと口角を持ち上げて言葉を落とした。