3-13)懇願
「それ貸せ」
「え、あ、はい」
床に置こうとした花と神酒を山田に差し出す。花を受け取った山田は、お猪口ととっくりについては受け取らず床に置くよう顎で示した。
「青い花はねぇって言ってたはずだがな」
鈴蘭か。そう呟いた山田に、横須賀はああ、と納得した。青い色に馴染みがないのでわからなかったが、確かに形は鈴蘭である。横須賀は別段花に詳しくないので、鈴蘭は白の印象だったから不思議な心地だった。
「神棚はどうした」
「え、あ、すみません」
うっかり山田の観察を眺めてしまったことに申し訳なさそうに頭を下げて、横須賀は落としてしまう物がないのを確認しながら慎重に神棚の社を動かした。山田の言うように固定されていない小さな灰色の社は、意外と重たい。いや、石を思わせる灰色の造りから考えれば、ある意味では当然なのかもしれない。
内側で小さな音が響く。社の中になにかあるのだろうか。転がると言うよりは内側に傾いてぶつかるような音で、おそらく中が狭いか物が大きいかはたまた両方か、というところまでは予想できた。
「床におけ。ライト貸せ」
「はい」
山田の言葉に素直に頷いて、横須賀は従う。灰色の社を指の腹で撫で数度弾いた山田は、じっとそれらに耳を傾けているようだった。
山田が社を傾け持った。のぞき込もうにも入り口が小さいので、ちょうど山田の体で見えない。場所を動こうかと逡巡した横須賀は、しかし山田のため息で動きを止めた。
「な、にかすること、」
「あ? ああ、少し待て」
暫く動かない山田におずおずと声をかけると、山田はいつもと変わらない調子で答えた。なぜかそのことに酷く安堵した心地で、横須賀は言葉を待つ。
小さな社の扉に山田が細い指を差し込む。ごとごとと音を立てながら出てきたのは、丸い鏡と折りたたまれた和紙だ。山田が和紙を開く。神棚は空洞が広くとられており、和紙は縦長の小冊子のような厚さがある。横から覗き見ることは出来ないので、横須賀は置かれた丸鏡を見た。
丸鏡、と思ったが、よくある形状はしているものの鏡ではないようだった。黒い。まるでぽかりと
「俺が見ても別人の文字とは思うが、コレはさっきの帳面と別でいいか?」
「あ、拝見します」
差し出された和紙を受け取ると、山田の左手がその鏡をくるんでしまう。横須賀はぞわぞわと落ち着かない心地に視線をそちらにやりたくなりながらも、和紙の上に書かれた文字になんとか意識を向けた。
山田が言うように、文字を書いたのは先程の帳面で見た人たちではないだろう。筆に慣れた文字だ。子供ではないし、墨を途中で継ぎ足すような筆に馴染まない大人でもない。当然美幸の母親でもなく、流れるような文字は書くことになれている。
「別の方、だと思います。筆に慣れている方かと。全部同じ人が書いてますね、こちらは」
和紙に書かれているのは人の名前のようだったが、先程のように名前ごと書く人物が変わった様子はない。帳面とは違い札のように一枚一枚記されているそれらの名前は、全て名字も性別も違う。ただ草書体で読みづらかったがかろうじて言葉が判断できた『彼岸御物回向』の文字だけは、印のように全ての名前の上に等しく記されていた。
「これ、なんのしるしでしょうか」
「あ? ……ああ、気にすんな。ただのまじないだ。テメェは記号だとでも思っておけ」
「ご存じなんですか」
横須賀が不思議そうに瞬く。草書だからではなく、記号と思えという言葉は山田がその意味を知っているだろうニュアンスがある。宗教的な用語に馴染みがないので記号と考えること自体には抵抗ないものの、テメェは、の言葉が示す山田はそうと考えていないという意味が横須賀にはひっかかった。
「テメェが見ることに馴染んでいるように、俺の仕事はこっちだからな。つってもこれは今説明する気はない。知ってどうこうなるもんでもねぇし、聞かせるもんでもない」
最後の言葉は横須賀に向いたものではなかった。美幸の方を見れば、ライトを当てなくても先程の位置から動いていないのがわかる。
「……正直、時間が足りねぇな」
美幸には聞こえないくらいの小さな声で山田が呟いた。ぐ、と横須賀のシャツが掴まれ引き寄せられる。
「依頼人の要求は、娘の保護だ。……母親までは構ってられねぇだろうしな。アレはテメェに預ける」
「え」
「ガキ連れて車に行け。ここからは俺一人の仕事だ」
静かに山田が告げる。山田の視線は鏡をくるんだ左手に鏡に向けられていた。
横須賀の視界に、緑が広がる。
「……おい」
気づいたら山田のその細い手首を横須賀は掴んでいた。緑色など存在しない場所なのに、あの甘い香りと緑がなぜか浮かんで消えない。黙ったまま左手首を握り続ける横須賀に、山田がやや大げさに息を吐いた。
「汚ない手で触んじゃねぇ、つってんだろ」
山田の言葉に、横須賀は答えない。人が溶けたこと、緑の液体。それらを山田は当然のように受け入れていた。山田は何度か、自分の仕事はそういうものだ、と言っている。
ならあの恐ろしいものに一人で行く、と言っているのだろう事も、わかる。……言葉選びから、病院の中庭に向かうのと同じような事態になるだろう事も、だ。
「手、離せ」
静かな命令に、横須賀は答えない。山田が舌打ちをする。
「聞こえてネェのかクズ。離せ」
山田の凄む声に、横須賀はようやく従った。のろのろと外された手首を逆の手で拭くように擦りながら、山田は横須賀を見据える。
「時間がないつっても、出来ないとかじゃネェよ。変な心配はするな。ただ、ガキをこのまま置いておくのは悪手ってだけだ。先にガキをどうこうする必要がある。ガキまでコレに付き合わせるのは愚の愚。かつ、テメェを付き合わせるメリットもない。テメェが動けば依頼の最低限は終わる」
静かに山田が事実を並べる。現状がわからないのだから、横須賀にできることがないと言われてしまえば従うしかない。
けれどもなぜだか、あの緑が内側を責め立てるのだ。山田の左手に握られた鏡のような黒とともに、目をそらすことすら恐ろしいような心地が横須賀の頭の裏側を引っかいている。
山田がもう一度、今度は小さく息を吐き捨てた。それから口角をつり上げ、嘲るように笑みを作る。
「それともなんだ? 調べモンもなにもない場所で、それでもテメェは役に立つ、と言うつもりか?」
山田の言葉に横須賀が目を見開く。ひゅ、と小さな吸気が響き、服を握りしめた故に布が擦れる。
「何も出来ないだろう、テメェは」
事実が横須賀の内側を静かに押さえる。なにか、と思い震える手は、しかし鞄以外に横須賀の価値を見つけない。俯いた横須賀の顔は白い。
喉奥でひきつった吸気音が、一度飲み込まれた。
「……使って、ください」
震える声。縋るようなそれを、山田は無感情に見据える。
「手が、多く、多ければ。なにか。なにもできない、けど、山田さん、使ってくださる、って。使ってくだ、さい。お願いです、俺、だってあのこ、おかあさん、って、だいじで、おれ、きょう、なにも」
ひきつった声に、山田は眉間の皺をひとつ増やした。美幸が横須賀の様子に気づいたのか、遠目から不安げな視線を向けている。
響いたのはため息だ。
「テメェの今日の仕事は終わった。テメェが仕事していないわけじゃネェし、俺の仕事がここから、ってだけだ。正直に言えば最後の仕事としてガキを連れていってもらったほうがよっぽど気楽だな。俺は確実なモンを選ぶ」
横須賀は俯いたまま答えない。山田が横須賀のシャツを強く掴み引いた。ぐ、とつんのめる横須賀を、黒いサングラスが見上げる。
「――条件は一つだ、デカブツ」
静かに凄む声が、肺の内側に落ちた。