3-11)お名前帳
ひざ下よりも低い長机には、白い布がかけられていた。布団以外の貴重な白。そこに飾られているのは小さな箱だ。十センチ四方だろうか。こちらは黒いだけで、なにか模様は見当たらない。一応写真を撮ると、横須賀は視線を上に向けた。
横須賀の身長ならなんとか置いてある物に触れることができる程度の高さにあるのは、神棚のように見える。しかし、改めてみると非常に奇妙な神棚と言えた。
まず印象的なのは、色が付いていることだ。普通の木目ではなく、灰色に塗られているため神社のような形をしているのにどこか石を思わせる外見とも言える。瓦部分を模したところ、中央には丸く時計のような物が置かれている。左右には榊ではなく青い花が生けられていた。とはいえ、造花のようだが。そして手前には神酒らしいとっくりとお猪口がおいてある。
そこまで見て横須賀は、小さく首を傾げた。兎の置物がある。
なぜ兎があるのだろうか。疑問のまま横須賀は、兎の置物を手に取った。奥の神棚の扉は、開け方が分からない。神棚の脇には和本があり、口の中で謝罪を呟いて横須賀はそれも手に取り――するりと滑る感触に慌てて手の力を強くする。
ひゅ、と喉が鳴った。落とさなくて済んだことに長く息を吐く。横須賀の手の中で本は白い紙と筆文字をいくつか晒していた。ちょうど見えたのは古書に多いくずし文字。中を見るなといわれていたのでそれを慌ててそろえ直すものの、置物を手に取ったままではあまり綺麗に戻らない。
(紐、切れちゃったのかな)
和本と判断したのは装丁が独特だからだ。紙は和本の物だし、何より背にノリを使っていない。本来なら紐が通っていただろう穴もある。紐は特に劣化が激しいので切れてしまっていても不思議はないが――しかし紐が落ちた様子も残っている様子もない為横須賀は首を傾げた。
だが傾げたところで理由がわかるはずもない。中を確認することは出来ないので、祭壇にある箱を拾い上げ横須賀は山田を見た。
「山田さん」
「なんだ」
山田が座ったまま問いかけるので、横須賀は山田と美幸の側に戻った。手に取ったそれらを二人の前に置いて、ライトを照らす。
「祭壇にあった箱と、兎と、あと、本、です。壁はなんか、波があって」
「波?」
持ってきたものと、ついでに壁の模様の報告も横須賀は続けた。山田が少しだけ眉尻を上げて問い返す。あ、と戸惑うように声を漏らした横須賀は、視線を左右に揺らした。
「え、と、波じゃ変、でしたか。あの、……俺、絵、くわしくなく、て」
おどおどと答えながらいつもの猫背を丸めて横須賀が下を向く。山田はそれに対し、怪訝そうに眉をひそめた。
「絵の評価をしろなんてテメェに言ってネェよ。変って言うわけもない。そもそもテメェ、見え方なんて普通違うモンだろ。視力だけで人間は見ていない。知っている知っていないでも差がでるんだ、テメェはとにかく、どんどん言え。その表現を拾うのは俺の勝手で、見たもん言うだけはタダだ。俺はテメェを目と使ってるんだ、テメェはテメェの見たもん答えりゃいいし、そこから選ぶのがこの俺の頭なんだからな」
ほんと馬鹿だなテメェは。そう締めくくられた言葉に、横須賀は返事が出来ない。言葉は酷く粗野な物だったが、横須賀にとってそれらは全てひとつの正しさのように内側に積み立てられる。何も言わない横須賀を山田は見上げたまま、こつんと置物を指先で弾いた。
「俺の頭がテメェの言葉ごときで間違うと思うのかデカブツ」
「い、いえ。そんなこと」
横須賀が慌てて否定する。とん、と今度は床を鳴らすようにして山田はもう一度音を立てる。
「なら考えるんじゃねぇ。報告でお前は仕事をしている。それ以上の意味なんざネェよ、見つけたのはこれだけか」
「神棚、に、扉があったんですけど、それは開くものなのかどうかわからなくて、とりあえずこれをご覧いただこうと思いまして。あ、あと布団とかは、大丈夫ですか?」
「布団は見ての通り綺麗なもんだ。ここに置きっぱなしじゃなく今回用に運んだんだろ。普通布なんざ管理を雑にすりゃある程度ボロくなるしな。……まあ、ここに虫とかが出るようには見えネェ分もしかするとなにかあるかもだが、気にするほどじゃない」
確かに、虫食いで服などは穴が空くというし、カビやホコリにまみれてしまう。子どもに使わせるものではないだろう。虫が出ない、については周辺の木々を考えると不思議だが――巡り池周辺はなぜかぽかりと浮いたように、草木がない。そういうことを言っているのかもしれない、と横須賀は考え、頷いた。
「とはいえ神棚はあとだな。俺が確認する。先に見るのはこっちだ」
置物を横にずらし、山田が本を手にする。それから少し眉間に皺を寄せた。
「紐がねぇのか」
「はい、すみません。元々そのままでした」
「謝るとテメェがなくしたみたいだろ。テメェに責任ないもんを謝るな。……紐なしの本、ね」
山田が小さく呟く。その紙をずらそうとし、しかし山田は結局ずらしきる前に本を隠すように持った。のぞき込もうとした美幸がそれを追いかける。
「近づくんじゃネェよガキ」
「お名前帳」
嫌悪を露わにした声で山田が罵るが、美幸はじっと本を見据えながら呟いた。言葉に、山田が本の表紙を見る。しかし、そこにはなにも書かれていない。
「……中を見たのか」
「お名前を、書くの。書いた」
「ふぅん。デカブツ、ライト寄越せ」
「あ、はい」
横須賀からライトを受け取ると、山田は立ち上がり和綴じされていただろう本をバラし眺めた。
黒い表紙の装丁は、改めてみると少し物珍しく思えた。そもそも和本洋本関係なく、タイトルの記載されていない本は珍しいともいえる。美幸が言うように帳面だったとしても、それこそ芳名帳などといった文言がないのは不可思議だ。
山田が立って読んでいるため横須賀は内容を見ることが出来ない。美幸にだけでなく横須賀にも読ませる気がないのか、山田は一人でページをめくっていく。
最初の四ページだけ少し時間をかけて、それ以降は流し見るように山田は紙を動かした。最後のページまで終え本の形に束ね直すとライトを横須賀に戻し、また先ほどの位置に座り直す。
「確かに『お名前帳』だな。これ書いたのがお前か」
「うん」
取り出した紙には、兎という綺麗な筆文字のあと、少し癖のある文字で「代田美幸」と書かれている。ハネやハライがあまりされていない丸い文字は筆に馴染んでいないようだった。ともすれば和綴じの本には浮いて見えてしまいそうなほど子供らしい文字だったが、その隣にある「名取陽太」という文字も、上が大きくて下が小さく尻すぼみのようなやはり子供じみた字だったのである意味ではその帳面にしっくりくるような、奇妙なページでもあった。
「兎、を書いたのは誰だ?」
「お名前じゃなくて、うさぎさん?」
「これだ、名前の上」
とんとん、と山田が文字を叩く。美幸がそちらに身を乗り出し、ああ、と声を出した。
「おかーさん。おかーさん、字、きれいでしょ」
「この程度じゃわかんねぇよ」
得意そうに微笑む美幸に、山田はそっけなく切り捨てる。同意を得られないことに少しだけ不満そうに唇をとがらせた美幸は、横須賀を見上げた。
「きれいだよね?」
「あ、うん。きれい、だね」
同意を求められ、横須賀は素直に頷く。隣の名取の上にある墨を含みすぎてにじんだ寅という文字や、そのさらに隣にある掠れた子の文字とも違って墨の量も、ハライの長さも、バランスも整っている。一画一画丁寧に構築された文字は、この一文字だけでも姿勢を正し向き直る姿が見えるようでもあった。
「ほら、おにーちゃんきれいって」
「あー、わかったわかった。話はおにーちゃんに聞くから黙れ俺に近づくな」
美幸が再び同意を求めるように言うと、面倒臭そうに山田が答える。じりじりと近づく美幸を手で追い払うようにしながら、ふん、と鼻を鳴らして山田は文字を撫でた。
「綺麗、以外になんかねーのか。デカブツ、お前どう思った」