3-10)美幸
媚びを売る、には子供に喜んで貰うことを考えなければならない。けれど子供が喜ぶこと、などなにがあるのだろうか。横須賀の祖母は優しい人だったが、耳と目が良くなかったので特別なにかしたわけではない。横須賀自身も、祖母が自分の存在を許してくれることだけで感謝していたので、祖母に何かして貰いたいと考えたことなどない。だから記憶の中で大人が子供に喜んで貰うためなにをしてたのかが浮かばず、結局なにをすればいいかわからなかった。図書館などで子供に絵本の読みきかせをする大人はとても優しい声をしていたが、それも年齢がもっと下だろうし――
(シュウくん)
ふと、小さく優しい声が頭に浮かんだ。子守歌のような穏やかな声。横須賀にとっては遠く馴染みのない、優しさの形。
「どうしたデカブツ」
「え、っと、どうすればいいのか、と」
浮かんだ声とは重なりづらいそっけない声に、横須賀はおずおずと返した。重なりづらくともそれは横須賀にとって一番身近で聞いた貴重な声だ。それを掴もうと山田を見る。相変わらずの黒いサングラスから表情を見て取ることが出来るわけもなく、そこには自身の顔が写るだけだった。
「……ああ、言葉が悪かったな。てめぇはいつも通りお人好ししとけ。ガキが喜びそうなことがあったら聞いてやりゃいい。でかくてビビられりゃ仕方ねぇが、そのお人好しの面構えなら俺よかマシだろう」
無駄に考えるな、と続けられ、ようやく横須賀は頷いた。横須賀にとっては自分よりよほど山田の方が子供に優しい声をかけられるという認識だが、横須賀がわかっていることなら山田が理解していないわけもないだろうとそれ以上は言わない。出来なければ仕方ない、ということは媚びを売れというのも絶対的な命令ではないのだろう、とも思う。
山田の手が賽銭箱向こうの高床を撫でる。指の腹で板目をなぞってから、こんこん、と二度ノックした。十秒ほどのち、靴を脱いで山田が床にあがった。靴はその手にあるのを見て、真似るように横須賀も靴を脱ぎ上がる。白い靴下だからか、少し黒く指先が汚れた。山田は黒い靴下だから汚れは見えない。
床は古びてはいるが掃除をされた後だからか綺麗に見えるが、木目の間が黒いせいだろうか。山田がしたように木目を撫でる。
「入るぞ」
「あ、はい」
声に床から戸に視線をやると、敷居の黒が目に入る。木目にある黒がそのまま敷居に覆い被さったような色だ。漆というには光の入らない黒は、なぜ朽ちないのか不可思議な心地にする。
木戸が滑る。意外にも立て付けが良いのか、音は非常に静かだった。
――暗がりの中で、小さな体が揺れる。
「……かみさま?」
幼い子供の静かな声が、闇の中で震えていた。
部屋の中は暗い。簡単に中を確認しただけでも照明はなく、あけた戸から入る光が唯一の光源だ。右手側の壁の下で、小さな塊が更に小さくなる。
「神様じゃない、ただの部外者だ」
山田が少し固い声をゆっくりと落とした。その声に応えるように、顔が持ち上がる。
「しめて」
相変わらず子供の声は静かだ。震えながらも潜められた声は、その小さな体を自身で抱きしめるように更に小さくして座っているのも含めて、非常にこちらの心をざわめかせる。中に入ると、ひんやりと温度が下がったようにも感じた。奇妙だ。外も木々があるとはいえ、普段の気温と比べて随分と過ごしやすさを感じたが――それ以上に、明らかに、涼しい。
山田が後ろ手で戸を閉める途中の隙間から外を伺い見たが、誰かがいる様子は相変わらず無かった。
「……おい、見えるか」
横須賀にだけ聞こえる程度に潜めた声で、山田が問う。横須賀は言葉に従うように目を凝らした。
戸を閉め切れば先程までの明かるさと一気に様変わりする。ほとんどなにも見えなくなった部屋の中、それでも徐々に目が慣れていくに従ってなんとか状況を把握する。一応光も皆無というわけではなく、入り口の戸が合わさった隙間、天井の作りが甘いのかかすかに漏れるように存在する光のおかげで、まったくなにもかも見えないわけでは無いようでもあった。
「少しずつですが、なんとか。近くなら見えます。あとはもう少し目が馴れないと難しいかもしれません」
「十分だ」
山田はこの暗がりでもサングラスを外さないようだ。視力だけでなくあれでは本当になにも見えないだろう。足を少し鳴らしながら、手で探るようにして進んでいる。
その手を取った方がいいだろうか、と悩んだ横須賀は、しかし結局先に子供の側に近づくだけにとどめることにした。山田の横に一度並んだ後、できるだけ意識していつもの歩幅で歩く。子供はじっと横須賀と山田を見ていた。ちょうど十歩分のところまで近づくと、とん、と床を鳴らすようにして膝をつく。
「はじめまして、みゆきちゃん」
あの日聞いた優しい声を思い出しながら、小さく囁くように声をかける。横須賀が先に進んだ後、山田はいつもの歩き方に直したようだった。そうして横須賀の後ろに近づくと一歩分美幸の側にずれ、膝を立てて座る。
「……はじめまして」
ぽそりと美幸が答える。山田に場所を譲るように少し床を擦るようにして横須賀は動くが、しかし山田はその場所から動かなかった。
沈黙。かける言葉が見あたらず、横須賀は当たりに視線を動かす。布団はある。他は、まだ見て取るには難しい。
「なんで閉めろって言った」
「……おまつりだから」
「儀式に必要ってことか」
山田の言葉に美幸は頷く。暗がりでも焦燥した表情がよくわかった。膝の上で握られた手は互いを守るように握られており、細い手首を飾る紐は美幸の内心を示すようにゆらゆらと揺れている。
儀式のために閉め続けなければならないということは、昨日からたった一人でこの暗い部屋にいたということだ。今確認した範囲では窓も照明らしい道具もない。まだ十歳の少女にこんな儀式は酷だろう。いや、大人ですら途方もない時間を持て余すのではないだろうか。
「ここを閉めていないといけない、ってことか。それとも光か?」
「開けちゃだめ、って。他は、わかんない」
「ならいいな。デカブツ、ライトあっただろ」
「あ、はい」
手探りで鞄からペンライトを取り出し、光の出る場所を一度服の裾でふさぎながら横須賀はスイッチを入れた。ふさぎはしたものの、やはり急に増えた光はまぶしい。美幸がぎゅっと目をつぶったのを見ながら、少しずつ服の裾をずらして光量を増やしていく。そうして布を取り切ってから、横須賀は山田にライトを差し出した。
しかし、山田はそのライトを横須賀に押し戻す。
「調べるのはテメェの仕事だ」
「あ、はい。えっと」
「神棚、本、絵巻物。祭壇、他なにかあれば調べろ。本と絵巻物、他にも閉じているものは開く前に俺に渡せ。それとあの入り口にあったもんと似た絵やら彫刻やらがあればそれもだ」
「わかりました」
失礼します、といって横須賀が立ち上がる。山田は相変わらずその場所から動かなかったが、照らされた光を追うようにして美幸の後ろを見ていた。そちらにあるのは布団と食事の器といったシンプルなもののみだ。他に、と、周囲に目を向ける。奥にある祭壇らしきものは見る場所が多いだろうから、先に確認するのは他のものだ。
特に段差も見受けられない床は黒い。入り口の敷居と同じような黒は、なぜか胸をざわつかせもした。
光を直接当てても黒にしかならないような床は、日常生活の中ではみる機会のない色だ。
胸の違和感を飲み込んで、横須賀はライトを床から壁に向けた。こちらの壁も黒いが、全て黒い訳ではないようだった。床に近い部分が黒くなっている装飾だ。波打つような黒は海かなにかでも描いているのだろうか。考えたところで横須賀は芸術に疎いので、メモをするだけにとどめる。エアコンはないようなので、涼しさがどこからきているかはわからなかった。
部屋の中にある柱は、ぐるりと見て九本。狭い部屋を圧迫する柱は壁と違い全てが黒い。元々の材質なのか、染料によるものなのかはわからない。そのまま横須賀は、唯一の扉に触れた。
扉には特になにもないように見えた。触れても木目だけで、外の光が隙間からほんのすこし見える程度である。外に何もなかったのと同じで、中にもなにもない。天井側に目を向けても、それは同じだった。ぐるりと室内を巡っても、美幸と祭壇以外は非常にシンプルな作りで――それなのに、何故だろうか。懐中電灯を握る左手は、そこに小さな心臓を得たような拍動をしている。
手のひらから血流を感じる。緊張しているのだと横須賀は自身の感情に結論をつけたが、しかしなにに、ということまではわからない。横須賀は別段暗闇に恐怖を感じる性質ではない。
「失敗しちゃいけないの」
「誰が言った」
「かいちょーさんと、おかーさん」
山田と美幸の声がする。そちらをみれば姿が確認できるし、声を潜めていても小さい部屋の中の会話だ。相手にしか聞こえないような囁き声、という訳でもないから聞こえるのは当然で、その当然に横須賀は息を吐く。集中してしまうと声が聞こえなくなってしまうのは横須賀の悪い癖だ。二人は居るんだ。そういう当たり前をわざわざ胸の内で繰り返すと、改めて懐中電灯を握りしめて祭壇の前に立つ。