3-8)ライター
山田が尻ポケットから取り出したのは、ジッポだ。一緒にはみ出た煙草は奥に仕舞われる。ジッポを横須賀に見えるように手を伸ばし掲げ持った山田の指が、蓋を弾く。
ジ、と火が揺れる。山田のサングラスにその色が映り、カチン、と、金属音と共に蓋が閉まった。
手の内でくるりと回ったジッポが、元の場所に仕舞われる。
「煙草」
「あ?」
一連の動作を見ていた横須賀の呟きに、山田が眉をひそめる。といっても不愉快そうに、ではなく、どちらかというと単純に聞き返すような、訝しむような表情に近かった。片眉だけがぴくりと動いたのとその声に、横須賀は自分が呟いていたことに今気づいたかのような様子で「あ」と短く声を漏らした。
「吸われる、の、知らなかったので」
「ああ、まあ量は吸わねぇしな」
横須賀の言葉に、山田はあっさりと返す。横須賀の前で山田が吸っていない、だけでなく、そもそも机に灰皿を見たことがなかったので横須賀にとっては意外だった。どこかに仕舞っているのだろうか? 山田の机周りなど見ていないので、仕舞っていたとしたら気づくことはないだろう。
少し速足になって、山田のそばに一歩分程度横須賀は近づいた。すん、と香りをかげば、整髪剤の匂いがわかる。
煙草の香りは、しない。
「依頼人や状況で吸う。依存物で頭を馬鹿にする気はねぇがな、あればあるだけ便利なんだよ。こーいう限られた嗜好品ってのは特に、な」
くつりと山田が口角を歪めた。便利、という考え方は横須賀に無く、不可思議な感覚だった。元々吸おうと考えたことなどない。だが依存性のあるものと聞くとそれだけで躊躇ってしまう横須賀にとって、山田の言い切りはなんだか非常に凄いことのように感じられた。依存せず、利用し、コントロールできる。そんなことを当たり前のように山田は言っているのだ。
「食事を一緒にするよりも簡単にできる同調行為だ。便利だが――まあテメェには求めねぇよ。俺がやるからテメェは必要ねーだろ。そういう交渉を任せる気はないし、それ以上頭が馬鹿になっても困る。火、を持つにはいい理由だがな」
山田がポケットの上を指先で弾く。確かに煙草でもなければ、ライターを持ち歩く機会はそうないだろう。あるとしたら墓参りの時くらいだ。ただ、『火を持つにはいい理由』がよくわからない。火を持たなければならない機会を、横須賀はあまり知らないからだ。明かりとしてならライトのほうが使いやすい。今回のように火気厳禁の場所では、使用せずとも所持自体あまり好まれ場合もあるくらいだ。
「時計は今見てもどうしようもネェな。ガキ周りに行く」
「はい」
「堂々としていろ……っつってもテメェはそもそもがアレだな。普段通りにしとけ。なんかあったら俺が答える」
「はい」
山田の訂正に対して横須賀は素直に頷き、後ろを歩く。先程来た道とは違い、神社へ向かうように細い道を通っていった。
生い茂った木々の中を進む。太陽が遮られて、薄暗い。葉の下は昨日の雨が影響しているのか、少しゆるい土だ。
普段通りと訂正を受けたものの、当初の堂々としていろに従うとしたらやけに奇妙な道を進んでいる。柵がないので進入禁止といったような場所ではないだろうが、それでも歩くような場所ではない。時々葉に頭を撫でられる横須賀の様子からしても、歩行には適していないだろう。それでも山田は背筋を伸ばしたまま、いつもと変わらない態度で進んでいく。暗がりにサングラスをしたままだが
「なんもねぇな」
山田の呟きに横須賀は一度あたりをぐるりと見渡し、はい、と短く答えた。見える範囲はほとんどが木。少し視線を外に向ければ細い道がある。獣道よりかはまともだが、それでも道路と言うには狭い。
耳を澄ませば木の葉の音。
「川はもう少し奥みたいですね」
葉に混じる音を見つけて、横須賀がそちらを見やる。遠目に川を見つけることは出来なかったが、木の背が低くなりだしている場所があるのでその先だろうと見当をつけた。山田が立ち止まって横須賀の視線の先を向く。
暗がりの中、どこまで先が見えるだろうか。想像してわかるわけもない。横須賀は右手で奥を示した。
「あちらが崖になっているように見えます。低い位置に川があるのかもしれません」
「柵はねぇのか」
言葉に目を懲らすが、横須賀の範囲からは見あたらない。崖になっているのならあるとしてもその手前だろうが、階段も柵もないようだった。
「見てきますか?」
「いや、見えないならいい」
念のため尋ねた横須賀に、山田が短く返す。相変わらず足取りは一定で、知らない道とは考えられないくらい迷いがない。
「歩道に出るからその頭どうにかしとけ」
「え? あ、はい」
言葉に手をやれば、かさかさと木の葉が落ちる。猫背といっても上背があるので仕方がないとはいえ、落ちていく葉を見て横須賀は眉を下げた。
横須賀自身見ることは好きな方だ。人がどうしているか、その生きる姿を遠くに眺めると幸せになる。それは酷くささやかな、趣味のようなものなのかもしれない。
けれどもぼんやりと眺めることばかりだからか、自身のことに気づくのはどうにも得意でない。山田は当人曰く目があまり良くないとのことだが、それでもほとんど振り返らず指摘できるだけの視野がある。山田の歩く姿は最初から変わりもしない。
そういうことが優れているということなのだろうか。そんなことを考えながら横須賀は頭の上から葉を払い落とすと、髪を手櫛で整えた。少しだけぴょこりと跳ね癖のついた髪だけはどうしようもないので撫でつけるだけにして、ようやっと歩道に下りる。
「ここからは先を気にしとけ。今はあまりいないとは思うが、念のためだ」
「はい」
頷いて、それでも一度後ろを振り返る。歩道といっても舗装されているのは用水路くらいで、歩く場所は人が通る程度には整っているだけだ。前を向けば上り坂ではあるもののおそらく誰かがいればわかる程度にまっすぐな道で、しかしそれは山田と横須賀の立っている場所も同じだ。後ろからでも先に誰がいるのか見て取ることは容易な一本道で、坂の分違うだろうがそれでも横須賀からは百メートル先の森までよく見える。
「先っつってるだろ。後ろは来たらそん時だ。まあ多分来ねぇだろうがな」
山田が面倒くさそうに言い捨てる。それでも困ったように一度後ろを振り返る横須賀を見て、山田は歩を緩めた。
「テメェも俺もまだなにもしてネェから見られても問題ねぇよ。ま、なんかあってもテメェは俺に命令された、でいい。無駄に考えるな」
とん、と前を向くのを促すように山田が横須賀の背中に拳を当てる。少し押される程度のそれに痛みはない。はい、と頷いた横須賀は、山田を見、前を見、またちらりと山田を見た。
山田が少し大げさにため息を付く。
「……まあ、考えないってのもコツがいるな。テメェは判断しないことが他の人間よりはマシなだけ都合いいが」
「すみま、せん」
元々曲がっていた背筋が更に丸くなる。横須賀を見ることはないが、山田は歩幅を変えず横須賀の隣を歩く。
「何が気になる」
「え」
短い言葉に、横須賀が小さく声を漏らす。ぱちくりと瞬いて山田を見るが、山田はやはり横須賀を見ない。
「聞いていいんです、か?」
不安そうに視線が動く。山田は今度はため息を付かず、一度横須賀を見上げた。
「俺の考えではガキのとこまで人はいねぇ。前さえ気にしているなら多少答えてやる。内容によるがな」
「ないよう」
「テメェの動きが鈍りそうなこと、今話すモンじゃないこと答えない。テメェが俺の判断に従うなら、情報がないまま気にするより知った方がいいこともあるかもしれねーしそれなりに答えてやる。ただしメモは取るなよ。テメェは覚えている必要のないことだ」