台詞の空行

2-16)居酒屋

 * * *

 人の声が賑やかに響く。料理を注文する声、酔っぱらいの素っ頓狂な笑い声、愚痴を吐き出す声に宥める声、突然なにやら宣言を始める声。声が氾濫したかのような居酒屋は繁盛していると言えるだろう。

 テーブルに二つ目の伝票が置かれる。相席した二人の手元にあるのはウーロン茶だ。小鉢の枝豆、冷や奴、焼き鳥、刺身。並んだ小皿は互いに互いの境界を作るように寄せられている。

「彼はどうだ」

 冷や奴に醤油をかけながら、日暮が言葉を落とした。対面に座る山田が枝豆の筋を剥きながら息を吐く。

「アレは問題ねえよ。動揺していたがそれで中身がイカレちまっては無い。ある意味丈夫だな、アイツは」

「それはよかったな」

 刺身の小皿に醤油をさしいれると、日暮は表情を変えないまま平坦に言った。それから醤油を山田に差し出すが、手に持ったままの枝豆を軽く上げ、山田はそれを拒否した。日暮は少し考えるようにした後、結局醤油を山田寄り、机の中央に置いた。

 寄せられた醤油が境界を繋ぐ。めんどくさそうに舌打ちした山田は枝豆を下ろしおしぼりで一度指先を拭くと、醤油を一回りかけて元の場所に戻した。

「……安否確認のために呼び出したんですかね、日暮刑事」

「プライベートだ」

 途切れた会話を続けるように山田が問いかければ、日暮が静かに言い切る。

 確かに、昼に会う時と違い日暮はジャケットどころかネクタイを外しているし、ワイシャツのボタンも一つ開けている。かといって普段からのラフな格好と言うには、ラフを作ったというような言葉が見合うような状態だが――わざわざそういった格好を選んでいるのは、プライベートという言葉を補助する為だろう。

 とはいえ、対する山田はいつもと同じ格好だ。相も変わらずの日暮に、山田はため息になりきる前の息を吐いた。

「毎回面倒なことで。まあ仕事相手が刑事だろうが刑事で無かろうが俺には関係ネェからいいけどよ」

「仕事だったらラブレターも送れないしな」

 無表情のまま、日暮が答える。豆腐の角を崩すのを一瞥し、山田が口角を上げた。

「そのラブレター、今日は無いようですけど?」

「準備が足りなかったからな。代わりに山田がくれてもいいぞ」

「俺は仕事相手に恋文渡す趣味なんてネェな」

「俺はプライベートだから大歓迎なんだがな」

 ぽんぽんと会話が飛ぶ。キャッチボールと言うより壁打ちのようなリズムの会話は、大抵日暮の言葉で途切れる。

 莢から豆を取り出して、山田は奥歯で潰した。日暮がそれを見ながら、自身も豆腐を口に運ぶ。ほとんど嚥下するだけの日暮は暫く山田が咀嚼するのを見ながら、また豆腐の角を崩した。

「新山についてどこまで知ってる」

 山田がひとさや食べきるのを待ってから、日暮が問いを口にする。山田は莢を殻入れに入れると、もう一つ枝豆を手に取った。手の中で枝豆がくるりと回る。

「これから、だな。元々俺の受けた依頼は新山を引っ張るためのもんじゃネェし、調べるつもりはあったがまさか急務とは思っていなかった。テメェの方はどうだ」

「仕事で得た情報には守秘義務がある」

 箸が豆腐を貫き、かつん、と音が鳴った。山田が眉をひそめる。

「日暮刑事に聞いた以上の話はないと?」

「そっちの話はあまり触れられないというだけだ。まあ個人で調べて仕事に持ち込んだ分はいつも通りだな。お前がどの程度話すかだ」

 さりさりと皿をひっかいた後崩した豆腐をもう一度口に運んだ日暮は、箸を置いて焼き鳥に手を伸ばす。少し顔を伏せた山田は、枝豆の筋をゆっくりと引いた。

「赤月がウチに持ち込んだ依頼は、赤月にとってはひとつだったがこちらに対しては明らかに複数だった」

 筋を殻入れに入れ、山田はぷつりと豆をひとつ押し出す。邪魔になるものがないからあっさりと顔を出した豆を親指と人差し指が捕まえる。

 そのまま親指で口の中に押し込み噛み切る山田を見、焼き鳥に再度視線を落として日暮はそれを口に入れる。しばしの間のあと、枝豆を嚥下した山田が手を拭いて頬杖をついた。

 しばし考えるように指先をとんとんと揺らした後、山田は腕を下ろす。

「読ませるための書類を見せられた。招待状をもらったようなもんだが、新山から渡される覚えはねえ。それと赤月の後ろには新山だけじゃない可能性がある。そっちについては今のところ情報無しだ」

「新山以外、についてはこちらも情報はないな。だが、新山がなにかを知った、得た時にそれが関わっている可能性がある」

「どういうことだ?」

 咀嚼の合間に答えた日暮は、山田の問いかけにウーロン茶を手に取った。そうして口の中のものを流しこんで、とん、と机を鳴らすようにウーロン茶を置く。

「この間も言ったが、新山は元々劣等生だ」

 劣等生、という言葉に山田が少し眉を上げた。日暮が箸をとり、また豆腐の角を崩す。

「親が医者の関係でほぼ強制的に勉強をさせられていたらしいが向き不向きって奴だな。浪人四回。もう無理かというところをなんとか入学したが結局留年二回」

「諦めさせた方がよかったんじゃネェのかそれ」

「一人息子は大変だ、ってとこだろう。問題はその後だ」

 崩した豆腐をとらずに箸を手前に戻し、日暮はトントンと左手の人差し指で自身の手を叩く。山田の視線が向いてかち合うのを確認し、日暮は改めて指の腹で自身の手の甲を押した。

「急に、だな。急に新山の成績が上がった。最終的に大層評価の高い論文も出している」

「当時の付き合いで変わった点はあったのか」

「それについては趣味で調べられる範囲ではなかったな」

「刑事さんは持ってるって事か」

「あまり多くは持ってない。ただこの時期の変化が新山個人のものと言うよりも他人が絡んでいたのなら、急激な変化の意味が変わってくるだろう」

 日暮の言葉に山田は考えるように顔を伏せた。日暮は崩したままだった豆腐を掬い飲み込む。

「これは個人でもわかるだろうが、暫くして新山の父親が死んでいる」

「ああ、あの病院の院長は新山だしそりゃ当然そうなるだろうが――事故か?」

「自殺だ。車が崖から飛び落ちた。飛び降りる前にハンドル切ってはいるが……死ぬ直前で怯えただろうということで誤差の範囲内として扱われたな。まるでなにか恐ろしいものから逃げようとでもしたのか、まっさかさまでそのままだ」

 恐ろしいもの、という言葉に山田の眉が少し持ち上がる。しかしそれ以上にはならず、山田はまた枝豆の莢を剥いた。はずれた視線を日暮は見下ろしている。

「自殺の動機は」

「妻が妊娠していたからだと考えられている。父親は誰かわからないそうだ。最終的に妻――新山の母親は心が病んでしまい、新山の父親が死んでから六年後自殺している」

「ガキはどうした」

「子供は新山が育てているな。まあ歳が離れた妹だ、病院も継いでいたし妥当だろう。今年で十八、いや十九だったか」

「……新山は結婚してんのか」

 山田の手元で豆が半分顔を出し、その豆を反対側の指先が押さえる。ぐ、と爪が押し当てられて莢に跡がついた。

「していない。妹と二人暮らしだな」

 爪が深く食い込む。しかし短いからか貫通までならず、押さえていた指先にぷつんと豆が飛び出した。